自由を得たゆえにこそ神様に応答する責任があります。

1月27日

「すべてのことは許されている。しかし、すべてのことが益になるわけではない。すべてのことは許されている。しかし、すべてのことが人の徳を高めるのではない。」第一コリント10:23

イエス様の十字架によって、肉なるものの力、サタンの支配から解放され、自由を得たのです。しかし、それゆえにこそ神様に応答する責任があります。求められる基準が変ります。自由を与えられたのは、自らの意思によって「益」となる道、「徳」を高める道を選択するためです。(KE)

神様は知恵を与え、知識を増し加えることのできる方です。

1月26日

「彼は知恵と御霊とで語っていたので、それに対抗できなかった。」使徒6:10

ステパノは迫害をうけ殉教しましたが、その原因は海外から帰国したユダヤ人たちと論争して、彼らを論破したことです。彼の力は神様から与えられた霊の知恵を頂いていました。自分の持てるものを見ると、失望するしかありませんが、神様は知恵を与え、知識を増し加えることのできる方です。神様は知恵の無い者を選び、ご自身のわざを現されます。御霊に満たされて、神様の力を味わい体験してください。(KE)

人は自分の「本心」がどこにあるのかわからずにいます。

1月25日

「だから、自分の罪をぬぐい去っていただくために、悔い改めて本心に立ちかえりなさい。」使徒3:19

人は地位や名誉、仕事や学歴、家柄や才能、自尊心や優越感などなど、さまざまな衣装を十重二十重(とえはたえ)に着込んでいるため、自分の「本心」がどこにあるのかわからずにいます。人の「罪」は神様に対するものであって、着ているものとは関係なく、脱ぎ捨てて裸になった自分のありようです。とかく、外側のものに邪魔されて自分を見失ってしまいます。赤裸々な自分を知って、悔改め、許しの恵みを受けてください。(KE)

神様はあなたが喜ぶのを楽しみにしています。求めてください。

1月24日

「今までは、あなたがたはわたしの名によって求めたことはなかった。求めなさい、そうすれば、与えられるであろう。そして、あなたがたの喜びが満ちあふれるであろう。」ヨハネ16:24

私たちの祈りを神様が聴いて答えてくださるのは、イエス様の名によって祈るからです。父なる神様は御子のとりなしによる祈りに答えないはずはありません。また、それゆえに確信をもって祈ることができます。私たちの状態や功績に関係なく、ただ御子によるのですから。神様はあなたが喜ぶのを楽しみにしています。求めてください。(KE)

信じるのか、信じないのか、これはすべての人の決断にかかっています

1月23日

「御子を信じる者は永遠の命をもつ。御子に従わない者は、命にあずかることがないばかりか、神の怒りがその上にとどまるのである。」ヨハネ3:36

神様の救いは例外なくすべての人に開かれたものです。問題は私たちの側にあります。御子イエス・キリストを信じるのか、信じないのか、これはすべての人の決断にかかっています。信じるなら救われます。信じないなら、それ自体で滅びの生涯、裁きの下にあるのです。神様は決してご自分から私たちを滅ぼす方ではなく、人が自ら滅びの道を選んでいるだけです。(KE)

私達は創造者である神様に忠実であることを努めるのであって、事の大小に左右されません。

1月22日

「小事に忠実な人は、大事にも忠実である。そして、小事に不忠実な人は大事にも不忠実である。」ルカ16:10

「忠実」とは人のあり方の問題であって、他人との関係ではなく、自分自身の値打ちを測るものです。事の大小によって自分のありようが変るとするなら、自分の値打ちが「事」によって計られているといえます。私達は創造者である神様に忠実であることを努めるのであって、事の大小に左右されません。ヨセフのごとく、どのような境遇にあっても、神様の前に忠実な歩みをしましょう。(KE)

課題を克服するために助けようとしない人をイエス様は指摘しています。

1月21日

「また、重い荷物をくくって人々の肩にのせるが、それを動かすために、自分では指一本も貸そうとはしない。」マタイ23:4

「~すべきだ」と、困難な課題を人に押し付けて、強要するが、その課題を克服するために助けようとしない人をイエス様は指摘しています。こういうことは介護問題などを考えるとよくわかります。「あるべき」「すべき」と、建前を押し付けることは簡単です。また、自分の出来ないことを他人に求める場合も当てはまります。お互い気をつけたいものです。(KE)

まずは自分を点検吟味することが大切です。

1月20日

「なぜ、兄弟の目にあるちりを見ながら、自分の目にある梁を認めないのか。」マタイ7:3

「梁」とは屋根を支える横に渡した太い柱のことです。そんなものが自分の目にあるのに、それを取り除けようとせず他人の目にある小さな「ちり」を指摘する。このようなことはよくあることです。世間でも「人のふり見て、わがふり直せ」と言います。まずは自分を点検吟味することが大切です。お節介も過ぎると厄介です。また、それは自分は正しいとする偽善でもあります。お互い気をつけたいものです。(KE)

 

ルツは神様を畏れ仕える道を選んだのです。

「あなたの民はわたしの民、あなたの神はわたしの神です。」 ルツ1:16c

ナオミには二人の息子がいて、それぞれに嫁を取りました。しかし、二人の息子は亡くなり、嫁とナオミだけになりました。ナオミの勧めによって一人の嫁は実家に戻りましたが、ルツだけはとどまりました。ルツはモアブ人でしたが、神の民の祝福を受けることを選びました。彼女の選択と決断によってキリストの系図にまで名を残す者となりました。ルツは神様を畏れ仕える道を選んだのです。あなたは何を選ぼうとしていますか。(KE)

絶望的と思える状況でも、神様は出来ないことのない方

1月18日

「主がエリヤによって言われた言葉のように、かめの粉は尽きず、びんの油は絶えなかった。」列王紀上17:16

預言者エリヤのとき、数年間雨が降らず、飢饉に見舞われました。神様は預言者エリヤをケリテ川のほとりで、カラスによって食料を備えて守ってくださいました。川の水が尽きると、ザレパテの婦人のもとへ遣って、その家族によって養ったのです。絶望的と思える状況でも、神様は出来ないことのない方、不思議な道を開かれます。神様は信頼する者たちを決して見放すことはありません。(KE)