彼の罪は、神様の主権を犯したことです。

1月17日

「ダビデはナタンに言った、『わたしは主に罪をおかしました』。」サムエル記下12:13a

ダビデ王は神様を恐れ、深く信頼する信仰の人でした。しかし、国が安泰となり、彼の心にすきができて、罪を犯したのです。忠実な部下を殺し、その妻を奪いました。預言者ナタンに罪を指摘されたとき、彼は神様の前に罪を悔改めたのです。彼の罪は部下に酷いことをしたというよりも、神様の主権を犯したことです。私達は事柄や人を問題にしますが、大切なのは神様をどこに置いていたかということです。(KE)

神様は私たちが祈り求めることを喜んでくださいます。

1月16日

「ぶどう酒も濃い酒も飲んだのではありません。ただ主の前に心を注ぎ出していたのです。」サムエル記上1:15bc

ハンナには子供がいませんでした。そのため、肩身の狭い思いをしていました。なんとか子供が与えられるようにと、神様に祈り続けました。この日も神殿で祈っていたのです。祈りはまさに「心を注ぎ出す」ことです。神様は私たちが祈り求めることを喜んでくださいます。また、祈りに答えてくださいます。ただ、信じて心の思いをすべて打ち明けることです。中途半端はだめです。(KE)

神様から離れると、力が去ってしまうのです。

1月15日

「彼はろばの新しいあご骨一つを見つけたので、手を伸べて取り、それをもって一千人を打ち殺した。」士師15:15

大力サムソンの記事ですが、そもそも生まれながらに大力だったのではありません。このときも、「主の霊」が臨んで彼に力を注いでくれたのです。神様の力に満たされるとき、並外れた力を振るうことができました。神様から離れると、力が去ってしまうのです。デリラの誘惑に負けたとき、神様の力が抜けて、捕らえられました。私たちにも力がありません。サタンに勝つため、神様の力を求めましょう。(KE)

ただ神様の一方的な愛によるのです。

1月14日

「あなたはあなたの神、主の聖なる民である。あなたの神、主は地のおもてのすべての民のうちからあなたを選んで、自分の宝の民とされた。」 申命記7:6

神様は私たちを「聖なる」「宝の」民としたと言われます。なにゆえにこのような特段の恵みを受けるのでしょうか。私たちには認められるべき値打ちも、価値もありません。ただ神様の一方的な愛によるのです。愛するには理由や理屈はいりません。神様の愛もそうです。ただ、素直に愛されていることを信じるだけです。この愛に応えていこうではありませんか。(KE)

神様ご自身が昼夜を分かたず共に居られたのです。

1月13日

「主は彼らの前に行かれ、昼は雲の柱をもって彼らを導き、夜は火の柱をもって彼らを照し、昼も夜も彼らを進み行かせられた。」出エジプト13:21

エジプトでの奴隷の生涯から救い出された神の民は、荒野の旅路をたどりました。危険と困難の伴う苦しい旅路でしたが、奴隷の時代と全く違った恵みを受けました。神様ご自身が昼夜を分かたず共に居られたのです。雲や火の柱は神様の臨在(共にいますこと)をあかしするものです。そのように、主は今もあなたの先立ちとなり、後ろ盾となって、導いておられます。(KE)

あなたが神様と共にあゆむなら、祝福を受けることができるのです。

1月12日

「主がヨセフと共におられたので、彼は幸運な者となり、その主人エジプトびとの家におった。」創世記39:2

ヨセフは兄弟から妬まれ、隊商に売られました。やがてエジプト人ポテパルの奴隷となりましたが、神様はどんな境遇に置かれても、ヨセフと共にいて彼のわざを祝福してくださいました。彼のゆえにポテパルの家も祝福されました。そのようにあなたが神様と共にあゆむなら、あなただけではなく、あなたの家族も、会社も、学校も、祝福を受けることができるのです。あなたの信仰のゆえに神様が恵まれるのです。(KE)

基礎となる部分をきちんとすれば後のことは自ずから整ってきます。

1月11日

「ただ、内側にあるものをきよめなさい。そうすれば、いっさいがあなたがたにとって、清いものとなる。」ルカ11:41

どんなことにも、肝心要となるもの、土台となるものがあります。そのような基礎となる部分をきちんとすれば後のことは自ずから整ってきます。人にあっては外側のことではなく、内側です。内なるもの、心を清くするなら、口の言葉、手のわざ、足の歩みなど、そとに現れたものも清くなります。最新の美しい衣装をまとうより、高価な化粧をするよりも、清くすべきは心です。(KE)

率直に、飾らず、神様に心をぶつけましょう。

1月10日

「イエスは彼に言われた、『もしできれば、と言うのか。信ずる者には、どんな事でもできる』。」マルコ9:23

日本人の私たちにはどこかに謙譲の美徳が潜んでいて、信仰の足を引っ張ってしまいます。あからさまに気持を表現できないで、回りくどい言い方になります。神様に求める時、そのような気遣いは無用です。できる、できないに囚われず、率直に、飾らず、神様に心をぶつけましょう。信ずる以外に救われる道はないのですから。信仰は追い詰められ逃げ場のない時、真価が明らかになります。(KE)

「求めよ」と言われます。どうぞ、遠慮なく神様に求めてください。

1月9日

「天にいますあなたがたの父はなおさら、求めてくる者に良いものを下さらないことがあろうか。」マタイ7:11

この言葉の前半に人の親でもその子のために良いものを与えるではないかと語られています。ひとり子をすら惜しまないで死に渡された方が、あなたに何を惜しむことがありましょうか。神様は私たちのお父さんになってくださったのですから。だから、「求めよ」と言われます。どうぞ、遠慮なく神様に求めてください。あなたの願いどおりではなくても、それ以上に良いことを備えておられます。(KE)

命がけで一途に信じ続けることです。

1月8日

「たといそうでなくても、王よ、ご承知ください。わたしたちはあなたの神々に仕えず、またあなたの立てた金の像を拝みません。」ダニエル3:18

人は自分に都合のよいことをしてくれる神様を求めようとします。また、願いがこたえられないと神様を捨てるようなこともします。まことに身勝手で傲慢なふるまいです。神様を畏れ敬うとは、自分の都合に左右されず、困難や苦しみのなかでも命がけで一途に信じ続けることです。なぜなら、神様は神であるゆえに尊ばれるべきだからです。(KE)