まさに日々の生活の中を通して獲得していくものです。

5月7日

「わたしがすでにそれを得たとか、すでに完全な者になっているとか言うのではなく、ただ捕えようとして追い求めているのである。」ピリピ3:12a

信仰生活に卒業年限はありません。終身のものですから、つねに完成を追い求めているのです。目指すべきことは主イエス・キリストに似るものとなり、その身丈に達することです。しかも、それは沈思黙考、面壁九年なる瞑想によって得られるのではありません。まさに日々の生活の中で、様々な戦い、思い煩いなどを通して獲得していくものです。地上の命が終わる時まで、生涯求道者です。(KE)

神様の許しがなければどんなことも起らないというのです。

5月6日
「それだから、恐れることはない。あなたがたは多くのすずめよりも、まさった者である。」マタイ10:31

この言葉の前に、「父の許しがなければ、その一羽も地に落ちることはない」と言われています。神様の許しがなければどんなことも起らないというのです。神様を信じるとはまさにこのことです。人の知恵や力、計画や努力によって事が成り、事が持ち運ばれるのではありません。すべてが神様の支配の中にあって存在しているのです。しかも、私たちは他のどんな被造物よりも神様に深く愛されているのです。徹底して、神様の愛の御手に信頼しましょう。(KE)

不忠不義なものであることを認める。それがすべてのことの始まりです。

5月5日
「自分は真実だという人が多い、しかし、だれが忠信な人に会うであろうか。」箴言20:6

 人は自分に対して寛容であり、自信家ですから、自分ほど正しい、真実な者はいないと自惚れます。しかし、どんなに品行方正、欠けたところのない人であっても、神様の目からご覧になると、実に噴飯ものです。取るに足らない不足だらけの、不忠不義なものであることを認める。それがすべてのことの始まりです。そのような自覚のない人に会うと、人生の恵みを半分捨てているように思います。欠陥者を哀れんで赦し、恵んでくださる主の愛を感謝しつつ過ごしてください。(KE)

神様を信じるとは、神様のみこころに自分を沿わせることです

5月4日
「人はみな、自分のことを求めるだけで、キリスト・イエスのことは求めていない。」ピリピ2:21

 痛烈な一言です。私たちの思うこと、考えることなど、すべてが自分を中心にしたことであり、自分の願うこと、望み、計画などばかりです。そこには、自分を離れて「主は何を願っているか」を求める思いは少しもありません。神様を信じるとは、神様のみこころに自分を沿わせることです。どこまでも自分を押し立てるなら、信仰を捨てることになります。自分を捨てて、キリスト・イエスを求めようではありませんか。(KE)

この「救」は一方的な神様の恵みであり、賜物です。

5月3日
「あなたがたの救われたのは、実に、恵みにより、信仰によるのである。それは、あなたがた自身から出たものではなく、神の賜物である。」エペソ2:8

 イエス様を信じ、救われた者となって、日々、感謝しつつ喜んで生きる幸いを味わっていますが、この「救」は一方的な神様の恵みであり、賜物です。私たちは救われるために何もできず、ただ失われた、滅び行く者にすぎなかったのです。この救をどれほど感謝し、尊んでいるでしょうか。救を当然のことと思い、軽んじるなら、それを失うことになります。(KE)

私たちを神様の家族に加えるためです。

5月2日
「ああ、わたしの幼な子たちよ。あなたがたの内にキリストの形ができるまでは、わたしは、またもや、あなたがたのために産みの苦しみをする。」ガラテヤ4:19

 神様は私たちを「神の子」にするために、御子イエス様を世に遣わされました。それはイエス様を模範として、私たちの性情・性格、内なる人をキリストに似るものと造りかえ、神様の家族に加えるためです。世間でも「親に似ぬ子は鬼の子」と言われますが、神の子になる以上、神様の性質に似るものとならねばなりません。そのために聖霊を与えられたのです。(KE)

仕来たりや習慣、因習などに囚われない自由な生き方ができます。

5月1日

「すべてのことは許されている。しかし、すべてのことが益になるわけではない。すべてのことは許されている。しかし、すべてのことが人の徳を高めるのではない。」第一コリント10:23

イエス様に救われた人は、この世の様々な仕来たりや習慣、因習などに囚われない自由な生き方ができます。しかし、その自由は放縦ではなく、「益となる」こと、「徳を高める」ものであることが期待されています。益や徳のために自由を制限する必要があるなら、喜んで不自由な生き方を選び取ることこそ、救をあかしするわざです。(KE)

神様がご自分をあらわされるようにと祈りました。

4月30日

「主よ、この民にあなたが神であること、またあなたが彼らの心を翻されたのであることを知らせてください。」列王上18:37b

預言者エリヤとバアル神の預言者が対決したときのエリヤの祈りです。彼はこの事態を通して神様がご自分をあらわされるようにと祈りました。それに答えて天から火がくだり、燔祭などを焼き尽くしたのです。神様は常に神様固有の目的のもとに万物を支配しておられます。それは神様が神であることを知らしめることです。今も、神様はその立場から私たちを導かれます。(KE)

「このために、この時に」求められることを避けることはできません。

4月29日

「今わたしは心が騒いでいる。わたしはなんと言おうか。父よ、この時からわたしをお救い下さい。しかし、わたしはこのために、この時に至ったのです。」ヨハネ12:27

主は決してスーパーマンではありません。私たちと同じ人となってくださいました。だから、十字架の死を前に心が騒いだと告白しています。しかし、主は果たさなければならない使命がありました。私たちにも一世一代の決断を迫られるときがあります。「このために、この時に」求められることを避けることはできません。神様があなたに求められるとき、覚悟して臨もうではありませんか。(KE)

神様から隠れることはできません。

4月28日

「主は言われる、人は、ひそかな所に身を隠して、わたしに見られないようにすることができようか。主は言われる、わたしは天と地とに満ちているではないか。」エレミヤ23:24

神様と私たちは向こうとこちらのように対面関係にあるのではありません。パウロが言っているように、神様の中に生き、動いているのです。ですから、神様から隠れることはできません。それどころか、すべて見られており、知られているのですから、すっかり裸になって神様の手に陥るほかありません。(KE)