わたしたちも神様の手に握られた粘土にすぎません。

 

「陶器師の手に粘土があるように、あなたがたはわたしの手のうちにある。」エレミヤ18:6b

陶工の手にある粘土はこねられたり、つぶされたりします。まさに意のままです。実はわたしたちも神様の手に握られた粘土にすぎません。気に入らなければ即座に壊されてしまうでしょう。造られる器は陶工のすることに口をはさむ余地がまったくないのです。考えると怖い話ですが、私たちを握っておられる神様は愛なる方、けっして悪いことをなさいません。ひとり子を惜しまないほどにあなたを愛しているのですから。(KE)

 

自分はまだ救われていないのではないかと焦る思いにかられます。

12月16日

「そして、あなたがたのうちに良いわざを始められたかたが、キリスト・イエスの日までにそれを完成して下さるにちがいないと、確信している。」ピリピ1:6

「良いわざ」とはイエス様による救いです。救いの道筋は完成していますが、それを具体化するには時間のずれがあります。そのため、自分はまだ救われていないのではないかと心配し、なんとかしなければと焦る思いにかられます。しかし、救いは神様のわざであり、人の努力や知恵は役に立ちません。ただ、主が取り扱われるままに身を任せて仕上げを待ち望むだけです。(KE)

みことばにあるような尊い者として生かされているのです

12月15日

「だから、あなたがたは、神に選ばれた者、聖なる、愛されている者であるから、あわれみの心、慈愛、謙そん、柔和、寛容を身に着けなさい。」コロサイ3:12

「宝の持ち腐れ」などと言います。それは持っている宝の真価を知らないで、ほかに宝があると思うことです。私たちも自分の恵まれた身分を忘れて、嘆いたり悲しんだりしているのではないでしょうか。みことばにあるような尊い者として生かされているのですから、大いに感謝し、喜んで、それにふさわしい品性・性情を求めましょう。(KE)

神様も私たちのために一方的に愛のわざをしてくださったのです。

12月14日

「しかし、わたしは、あなたの承諾なしには何もしたくない。あなたが強制されて良い行いをするのではなく、自発的にすることを願っている。」ピレモン14

神様は私たちがみこころに適って良いことをするのを願っていますが、それが強制されたり、義務的になされることを嫌われます。神様も私たちのために一方的に愛のわざをしてくださったのです。決して恩着せがましいことは言いません。私たちがそれを無視しても咎めません。ですから、なにごとでも、愛の応答としてなすわざを主に捧げようではありませんか。(KE)

「自分のこころのまま」を行うのか、それとも「みこころ」に従うのか

「わたしが天から下ってきたのは、自分のこころのままを行うためではなく、わたしをつかわされたかたのみこころを行うためである。」ヨハネ6:38

イエス様の生涯と私たちを比べる時、大きな違いは「自分のこころのまま」を行うのか、それとも「みこころ」に従うのか、このことです。イエス様は人としての正しい生き方の模範を示すために人の世にきてくださいました。人は神様から離れて、自分のこころのままに生きていた、また、そうしたいともがき苦しんでいたのです。キリストに倣う者となってください。(KE)

謙遜になって、悔改めて神様を信じるならもれなく救われるのです。

12月12日

「あなたのかたくなな、悔改めのない心のゆえに、あなたは、神の正しいさばきの現れる怒りの日のために神の怒りを、自分の身に積んでいるのである。」ローマ2:5

世間では「自業自得」と言いますが、イエス様による神様の救いも同じです。愛なる神様はすべての人が滅びから救われる道を開いてくださいました。ただ、多くの人々はそれを認めず、自分を義人と称して、永遠の滅びへと落ちているのです。謙遜になって、悔改めて神様を信じるならもれなく救われるのです。救いはひとえにあなたにかかっています。(KE)

「自分のこころのまま」を行うのか、それとも「みこころ」に従うのか

12月11日

「わたしが天から下ってきたのは、自分のこころのままを行うためではなく、わたしをつかわされたかたのみこころを行うためである。」ヨハネ6:38

イエス様の生涯と私たちを比べる時、大きな違いは「自分のこころのまま」を行うのか、それとも「みこころ」に従うのか、このことです。イエス様は人としての正しい生き方の模範を示すために人の世にきてくださいました。人は神様から離れて、自分のこころのままに生きていた、また、そうしたいともがき苦しんでいたのです。キリストに倣う者となってください。(KE)

「信じる者」になるのか、「従わない者」になるのか、どちらかです。

12月10日

「御子を信じる者は永遠の命をもつ。御子に従わない者は、命にあずかることがないばかりか、神の怒りがその上にとどまるのである。」ヨハネ3:36

神様の救いは特定の人々にだけ予定されたものではありません。人種・男女の区別なく、文字通りすべての人々に開かれています。その選択と決断はあなたにゆだねられています。「信じる者」になるのか、「従わない者」になるのか、どちらかです。中途半端なグレーゾーンはありません。これはまた死後のことではなく、今現在、選択の結果を知ることができます。(KE)

どんなことをしても、神様を越える知恵や知識は得られません。

12月9日

「それは知恵が多ければ悩みが多く、知識を増す者は憂いを増すからである。」伝道1:18

人の悩み、思い煩いは神様を忘れて知恵を求めた結果です。自分がなんでも知っておかなければおさまらないため、神様を押しのけて、知恵や知識を必要以上に持とうとします。しかし、どんなことをしても、神様を越える知恵や知識は得られません。私たちが知らなくても、神様は全てを知って、備え、導いておられることを信じて、ゆだねようではありませんか。知らなければならないことは、その時々に神様が教えてくださいます。(KE)

ダビデはただ神様だけに頼るほかなかったのです。

12月8日

「わたしは声を出して主に呼ばわり、声を出して主に願い求めます。わたしはみ前にわが嘆きを注ぎ出し、み前にわが悩みをあらわします。」詩篇142:1-2

ダビデがサウル王の手を逃れてほら穴に潜んでいるときの詩篇といわれています。まるで幼子が火のついたように泣き叫んでいる姿が浮んできます。ダビデはただ神様だけに頼るほかなかったのです。また、彼は神様に対して率直に、包み隠さず、心のうちを注ぎ出します。私たちもダビデにならって遠慮なく、幼子になりきって神様に求めようではありませんか。(KE)