主が求められたのは神様のわざを語ることです。

4月17日

「家へ帰って、神があなたにどんなに大きなことをしてくださったか、語り聞かせなさい。」ルカ8:39a

「神様を褒め称える」「主の栄光をあらわす」などと言いますが、具体的に何をすることでしょうか。その答えがこのみことばです。悪霊につかれていた人がイエス様によって正気に戻りました。彼はイエス様にどのように感謝すべきか、なすすべがありません。主が求められたのは神様のわざを語ることです。私たちも主がしてくださったわざを大胆に語ろうではありませんか。日々、主のみわざによって生かされているのですから。(KE)

神様をどのような方と信じるか、これは信仰の姿勢を決定することです

4月16日

「この世界と、その中にある万物とを造った神は、天地の主であるのだから、手で造った宮などにはお住みにならない。」使徒17:24

神様をどのような方と信じるか、これは信仰の姿勢を決定することです。日本人の神観は分業化したもののようです。商売の神、学問の神、病気治癒の神、安産の神、交通安全の神など専門化されています。神様がそのようなものであったら、とうてい付き合いきれません。本来、神様はオールマイティで、例外なくすべてのものを造り、すべてを御心のままに支配する方ではないでしょうか。(KE)

キリストを着るとはキリストに似るものとなることです。

4月15日

「あなたがたは、主イエス・キリストを着なさい。肉の欲を満たすことに心を向けてはならない。」ローマ13:14

キリストを着るとはキリストに似るものとなることです。そのためには、常時、「キリストならどうなさるか」「キリストなら何と言うだろうか」を問わなければなりません。尊敬する人、愛する人と常に一緒に行動すると、立ち居振る舞い、言葉遣い、考え方や価値観に至るまで似てきます。みことばをくりかえし心に味わいかみしめていると、気づかないうちにキリストを着る者となります。(KE)

罪の原因からあなたを遠ざけようとして、弱さを与えておられるのです

「そこで、高慢にならないように、わたしの肉体に一つのとげが与えられた。それは、高慢にならないように、わたしを打つサタンの使なのである。」第二コリント12:7

パウロは肉体的な障害を持っていました。なんとかしてそれをとり除いて欲しいと神様に願ったのです。しかし自分にとって不都合なことであっても、それを受けるべき理由があるのです。「高慢にならないように」と、神様は罪の原因からあなたを遠ざけようとして、弱さを与えておられるのです。感謝しようではありませんか。(KE)

多くの人々は神様の思いを悟らず、むしろ恵みの時を軽んじています

4月12日

「あなたのかたくなな、悔改めのない心のゆえに、あなたは、神の正しいさばきの現れる怒りの日のために神の怒りを、自分の身に積んでいるのである。」ローマ2:5

神様は慈愛と寛容な心で、今の時を忍耐してすべての人が悔改めるのを待っておられます。しかし、多くの人々は神様の思いを悟らず、むしろ恵みの時を軽んじています。やがて神様の怒りがくだる時が来ます。その結果は自らが蒔いたものですから、自分が甘んじて受けなければなりません。人は自分から滅びていくのですから悲しいことです。(KE)

「愛される」とは「ゆるされる」ことでもあります。

4月11日

「それであなたに言うが、この女は多く愛したから、その多くの罪はゆるされているのである。少しだけゆるされた者は、少しだけしか愛さない。」ルカ7:47

 「罪のゆるし」と「愛」は密接に関係しています。「ゆるす」とはただ特定の行為や罪を許すだけでなく、相手のすべてを(好き嫌いにかかわらず)無条件で受容することです。だから、「愛される」とは「ゆるされる」ことでもあります。神様は私たちの有りのままの状態で受けいれてくださいました。そこには十字架による「ゆるし」があるのです。(KE)

悩みや苦しみは神様が起こされるからです。

4月10日

「さあ、わたしたちは主に帰ろう。主はわたしたちをかき裂かれたが、またいやし、わたしたちを打たれたが、また包んでくださるからだ。」ホセア6:1

悩みに会い、苦しみに遭うとき、あなたはまず何をしますか。神様が願っておられることは「主に帰ろう」と神様のもとに立ち返ることです。悩みや苦しみは人や状況によって生じるのではなく、すべての根源である神様に立ち帰らなければ何ひとつ解決できません。事態や境遇を造りかえる神様はあなたに善き事をしてくださいます。(KE)

日々なすわざを主の名によってするとき、そこで主に出会うのです。

4月9日

「また、だれでも、このようなひとりの幼な子を、わたしの名のゆえに受けいれる者は、わたしを受けいれるのである。」マタイ18:5

ここで大切なのは「わたしの名のゆえに」です。幼な子が可愛いとか、可憐であるとか、そのようなことは一切関係ありません。イエス様の代理者として受ける時、イエス様を受けいれることでもあります。その他のことでも同様です。日々なすわざを主の名によってするとき、そこで主に出会うのです。今日も、主の名によって生きようではありませんか。(KE)

あなたの心を支配している者は誰ですか。

4月8日

「また『見よ、ここにある』『あそこにある』などとも言えない。神の国は、実にあなたがたのただ中にあるのだ。」ルカ17:21

「神の国はいつ来るのか」と尋ねた弟子たちに答えた主の言葉です。「神の国」は神様が主権者で、神様が統治する国のこと。それは見える形ではなく、私たちの心の状態です。あなたの心を支配している者は誰ですか。「俺だ」というなら、そこは神の国ではなく、俺の国です。イエス様に王となっていただくこと、これが神の国です。私たちは神の国の住人となり、王様に仕え、従う民です。(KE)

すべての人が悔改めて、神様に立ち返るときを残しておられるからです。

4月7日

「しかしあなたの父ダビデのために、あなたの世にはそれをしないが、あなたの子の手からそれを裂き離す。」列王上11:12

ダビデ王の子、ソロモンは父のように神様を敬わず、主から離れてしまいました。しかし神様はダビデのゆえに、ソロモンを哀れんでくださったのです。彼の世に災いは臨みませんでした。同様に、今御子のゆえに神様の怒りが猶予されているのです。それはすべての人が悔改めて、神様に立ち返るときを残しておられるからです。ソロモンが態度を改め神様に従っていたら、歴史は変っていたでしょう。(KE)