イエス様の言葉にどのように答えるか

4月6日

「話がすむと、シモンに『沖へこぎ出し、網をおろして漁をしてみなさい』と言われた。」ルカ5:4

イエス様がペテロに言われた言葉です。ペテロは代々漁師の家庭に育ち、漁の専門家です。イエス様は大工ヨセフの子で、漁については全くの素人です。しかし、イエス様はまた神の子です。イエス様の言葉にどのように答えるか、ペテロの信仰が試されます。自分の経験や知識を離れて、イエス様の言葉を信じ、「沖へこぎ出し、網をおろす」決断は私たちにも日々求められていることです。ペテロは思いがけない体験をしました。(KE)

最善は神様の導きを信じて腹を括る(心定める)ことです。

4月5日

「神よ、わが心は定まりました。わが心は定まりました。わたしは歌い、かつほめたたえます。わが魂よ、さめよ。」詩篇108:1

人生には幾度となく決断せねばならないときがあります。日常茶飯なことならばたいして悩むこともありませんが、生きるか死ぬかに係るとき人は迷います。自分にとっては生涯に一度のことです。人に聞き、専門家に意見を求め、ネットで情報を集めても確かな安心はありません。最善は神様の導きを信じて腹を括る(心定める)ことです。まだ結果はわからなくても神様からの平安が心に溢れます。(KE)

それでも主は立ち去らず、常にあなたのそばにおられます。

4月4日

「夜が明けたころ、イエスが岸に立っておられた。しかし弟子たちはそれがイエスだとは知らなかった。」ヨハネ21:4

ガリラヤに戻った弟子たちは夜通し漁をしましたが、なにも獲れません。イエス様が見ておられたのですが誰も気がつかない。私達の慌しく、忙しい生活の只中にも主は立って見ておられます。しかし、それに気付かない私達は悪戦苦闘、努力の甲斐も無く空手で終わるのです。それでも主は立ち去らず、常にあなたのそばにおられます。はやく気付いて欲しい、み声を聞いてほしいと願いつつ。今、主が見えていますか。(KE)

信じる私達をキリストの義によって生きるものとしてくださいました

4月3日

「だれが、わたしたちを罪に定めるのか。キリスト・イエスは、死んで、否、よみがえって、神の右に座し、また、わたしたちのためにとりなして下さるのである。」ローマ8:34

神様は十字架によって文字通りすべての罪を取り除き、信じる私達をキリストの義によって生きるものとしてくださいました。しかし、現実の自分を見ると、許されなければならないことが多くて、自分は「ダメ」だと思います。それはサタンの巧妙な企みです。神様から引き離そうとしているのです。見ること、聞くこと、なんであっても、十字架を見上げてください。(KE)

 

自分が主と共に十字架に死んだことを絶えず自覚することです。

4月2日

「断じてそうではない。罪に対して死んだわたしたちが、どうして、なお、その中に生きておれるだろうか。」ローマ6:2

主の十字架は私たちを罪から解放するものです。もはや、私たちに罪の力はおよびません。そのことを実感するには自分が主と共に十字架に死んだことを絶えず自覚することです。それは説得や理屈ではなく、聖霊が働いて、あなたに主の死と一体であるという確信を与えてくださいます。今なお自分は「ダメ」だと言うのでしたら、主を再び十字架にかけることになります。(KE)

主はあなたのそばにいるではありませんか。

4月1日

「そう言って、うしろをふり向くと、そこにイエスが立っておられるのを見た。しかし、それがイエスであることに気がつかなかった。」ヨハネ20:14

ご復活の朝、女達が墓に来て見ると主の体がありません。マリヤはひとり残って泣いていました。よみがえられた主は彼女のそばに立っていましたが、気がつきません。自分の固定観念に囚われていました。わたし達も同じように主を見失っているのではないでしょうか。「~のはずがない」、「~のはずだ」という思い込みは禁物です。主はあなたのそばにいるではありませんか。(KE)

信じて主にならい、すべてのことにみこころを行うこと。これが救です

3月31日

「すると、イエスはそのぶどう酒を受けて、『すべてが終った』と言われ、首をたれて息をひきとられた。」ヨハネ19:30

十字架上での最後の言葉です。イエス様は父なる神様の使命を受けてこの世に来てくださいました。その使命はあなたに救を与えるためです。十字架の死をもって使命は完成し、救に必要なものは欠けなく備えられました。私たちが主を信じて主にならい、すべてのことにみこころを行うこと。これが救であり、主の十字架を受け継いで生きることです。十字架を負いつつ生きようではありませんか。(KE)

神様に対する絶大な信頼こそ力であり、慰めと望みでした。

3月30日

「しかし、わたしはひとりでいるのではない。父がわたしと一緒におられるのである。」ヨハネ16:32cd

イエス様は捕らえられて裁かれます。これまで寝食を共にしてきた弟子達は逃げ去って、主はたった一人になられました。しかし、父なる神様が共におられるゆえに孤独を恐れません。どんな状況におかれても神様に対する絶大な信頼こそ力であり、慰めと望みでした。ともすると、孤独を恐れて人を頼ろうとします。イエス様はこの平安をあなたに与えたいと願っておられるのです。そのための十字架です。(KE)

「みこころのままに」と、これが自分に死ぬことです。

3月29日

「そして少し進んで行き、うつぶしになり、祈って言われた、『わが父よ、もしできることでしたらどうか、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの思いのままにではなく、みこころのままになさって下さい』。」マタイ26:39

ゲッセマネの園で祈られた主の祈りです。イエス様は決してスーパーマンではありません。私たちと同じ肉体を持ち、弱さを知り、悲しみの人でした。それだけに激しい肉と霊との戦いにありました。「みこころのままに」と、これが自分に死ぬことです。ここに至るまで祈りましょう。(KE)

弟子達はどうしてこんなことをするのだろうと訳がわかりません。

3月28日

「イエスは彼に答えて言われた、『わたしのしていることは今あなたにはわからないが、あとでわかるようになるだろう』。」ヨハネ13:7

晩餐の席で、イエス様は弟子達の足を洗いました。それには間もなく起る十字架の目的を語る意図がありましたが、弟子達はどうしてこんなことをするのだろうと訳がわかりません。そのように神様のなさるわざを見極めることも、その意図を知ることも、私たちにはできません。しかし、あとになってみると、神様の綿密なご計画、布石を知ることになります。(KE)