「ダビデの子孫として生れ、死人のうちからよみがえったイエス・キリストを、いつも思っていなさい。これがわたしの福音である。」第二テモテ2:8
「イエス・キリストを、いつも思う」ことが福音だと言われています。それはどんなとき、どんなことにでも、イエス様だったらどうするだろうかと問いかけることです。心のなかでイエス様と対話するのです。そうすると、気づかないうちに、自分の行動、言葉遣いが変化してきます。思いがけないときに、忘れていたみことばを思い出させて、知恵や力を与えられます。(KE)
「ダビデの子孫として生れ、死人のうちからよみがえったイエス・キリストを、いつも思っていなさい。これがわたしの福音である。」第二テモテ2:8
「イエス・キリストを、いつも思う」ことが福音だと言われています。それはどんなとき、どんなことにでも、イエス様だったらどうするだろうかと問いかけることです。心のなかでイエス様と対話するのです。そうすると、気づかないうちに、自分の行動、言葉遣いが変化してきます。思いがけないときに、忘れていたみことばを思い出させて、知恵や力を与えられます。(KE)
11月26日
「そして、希望は失望に終ることはない。」ローマ5:5a
日常体験している「希望」は例外なく失望に終わっています。ところが、ここにそうではないと語られています。何と大きな慰めではないでしょうか。ただ一つ条件があります。それは神様の愛を信じることです。神様はひとり子を世に遣わし、それによってあなたへの愛をあかしされました。あなたが神様に愛され、神様は、また、あなたのために愛のわざをしてくださっていると信じるとき、今抱いている希望は決して失望に終わりません。(KE)
11月25日
「善人は良い心の倉から良い物を取り出し、悪人は悪い倉から悪い物を取り出す。心からあふれ出ることを、口が語るものである。」ルカ6:45
口が語るものも勿論ですが、そのほか行動や表情、すべて表に出てくるものは見えない心から取り出されます。そうなると、倫理や道徳、規則や法律で厳しく規制しても、それは「現れた」事象に対処するものであって、「みえない」心には及びません。なんといっても、大切なのは「みえないもの」、心です。心をきれいにするには、自分の力ではなく、神様の力による以外にありません。(KE)
11月24日
「彼らは互に言った、『道々お話しになったとき、また聖書を説き明してくださったとき、お互の心が内に燃えたではないか』。」ルカ24:32
エマオへ行く道すがら、よみがえった主が二人の弟子達と一緒に歩いて行きました。その道中、主はふたりに聖書のことばから語ってくださいました。そのとき、彼らの心が燃えるように感じたのです。まさにこれが聖霊、すなわち御霊の働きです。今も、みことばを読みますと、心に力を感じ、喜びを味わい、柔らかな温かい心に変ります。まさに御霊が働いているのです。(KE)
11月23日
「神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神である。人はみな神に生きるものだからである。」ルカ20:38
今生きているあなたが信じる神様が「神」であって、過去にどれ程信仰深い人がいようと、その人の神様を借用するわけにはいきません。また、あなたが信じなければ、あなたにとって神様は存在しないのと同様です。さらに、神様を信じなければ、その人は「生きている」とは言えません。神様に造られた人間は、神様なしでは生きられないからです。あなたは本当に生きていますか。(KE)
11月22日
「ダビデはその日サウルを恐れて、立ってガテの王アキシのところへ逃げて行った。」サムエル上21:10
ダビデは神様を信頼しているとき、どんなことをも恐れません。しかし、神様を離れると、心に「恐れ」が忍び込んできます。そのため、ダビデは敵であったペリシテ人の王に助けを求めました。人が恐れに囚われると、思いがけない行動に出ます。ついに、彼は気が変になったふりをするはめになりました。「恐れ」に打ち勝つには、十字架を仰いで、神様の限りない愛を信じることです。(KE)
11月21日
「主よ、わが口に門守を置いて、わがくちびるの戸を守ってください。」 詩篇141:3
「口は災いの元」とも言われます。言い足りなくて失敗することは余りありませんが、言い過ぎて大火事になることが多いのです。しかし、人は口を制することが難しく、みことばのように、神様に守っていただく以外にありません。また、「物言わぬは腹膨れるわざ」とも言います。言いたいことを言わないでおくとフラストレーションが溜まります。そのとき、人に言わず、神様に心の全てを注ぎ出すのです。これは実に爽快です。(KE)
11月20日
「罪を犯す魂は死ぬ。子は父の悪を負わない。父は子の悪を負わない。義人の義はその人に帰し、悪人の悪はその人に帰する。」エゼキエル18:20
神様の裁きはどこにも曖昧さのない、きっちりしたものです。罪を犯すとき、神様との交わりが絶たれ、「魂」は死にます。また、人はそれぞれのしわざに応じて報われ、誰もそれに加えることも、引くことも出来ません。たとえ、親子、肉親同士であっても。そのような神様が御子を世に降し、贖いの犠牲としたのです。神様はあなたが救われるのを待って忍耐しておられます。(KE)
11月19日
「わたしはわが名を呼ばなかった国民に言った、『わたしはここにいる、わたしはここにいる』と。」イザヤ65:1b
神様は私たちにご自身を知ってもらいたいと願っています。ですから、すべての被造物のなかに、神様は「ここにいる」としるしを残しています。まるで「かくれんぼ」をしているように。はやく気づいてほしいと待っているのです。しかも、すっかり隠れるのではなく、見つけやすいように隠れています。神様の霊に導かれて、こころの目が開かれれば、神様を見ることができます。(KE)
11月18日
「苦しみにあったことは、わたしに良い事です。これによってわたしはあなたのおきてを学ぶことができました。」詩篇119:71
苦しみにあうことは、不幸なことであり、悲しむべきことだと世間の人は言います。しかし、ここには「良い事」と言われています。その本意は神様を知ることができたからです。神様に出会い、知ることができるのは、人にとって最高の恵みです。苦しみにあうとき、人は心砕けたものとなり、謙遜に神様を求めますが、順調なとき、幸いな時、神様を求めません。神様に出会う者となってください。(KE)