2月20日
「あなたがたは耐え忍ぶことによって、自分の魂をかち取るであろう。」ルカ21:19
信仰に生きる生涯は、事情・境遇など、生活環境や状態がより良くなることではありません。勿論、それも願わしいことですが、私たちの求めるものは「永遠の命」、魂の救いを得ることです。そう言われても、何のことか分かりませんが、あえて言い換えると「究極の安心」を得ることです。そのために必要なのはイエス様を信じてどんなことにも耐え忍ぶのです。神様は必ず「究極の安心」、魂の救いを与えてくださいます。(KE)
2月20日
「あなたがたは耐え忍ぶことによって、自分の魂をかち取るであろう。」ルカ21:19
信仰に生きる生涯は、事情・境遇など、生活環境や状態がより良くなることではありません。勿論、それも願わしいことですが、私たちの求めるものは「永遠の命」、魂の救いを得ることです。そう言われても、何のことか分かりませんが、あえて言い換えると「究極の安心」を得ることです。そのために必要なのはイエス様を信じてどんなことにも耐え忍ぶのです。神様は必ず「究極の安心」、魂の救いを与えてくださいます。(KE)
2月19日
「さて、イエスは御霊によって荒野に導かれた。悪魔に試みられるためである。」マタイ4:1
イエス様はヨハネによってバプテスマを受けられた後、救い主としての使命に導かれます。その最初が荒野の誘惑です。それは私たちも神様に仕える者になるために通らねばならない道を示すためでした。主の十字架の恵みによって救われた者たちが、その恵みを具体的に体験する過程で出会う試練です。それは神様の深いご愛のご計画であって、いじめて苦しめようというのではありません。むしろ、みことばによる神様の力を味わい知るためです。(KE)
2月18日
「そして群衆に別れてから、祈るために山へ退かれた。」マルコ6:46
イエス様はこの世に在りし日々、一時も休む間なく忙しくしておられました。しかも、イエス様を求める多くの人々が絶えず周りにいました。しかし、そのような中で、時折、主は人々を避けて父なる神様との交わり、祈りの時を得ていました。これは現代社会に生きる私たちへの生き方を示唆する言葉ではないでしょうか。日々、忙しく休む間もありませんが、その中にあっても、僅かな時間であっても静思のとき、神様に祈るときを確保することが大切です。(KE)
2月17日
「ところが、取税人は遠く離れて立ち、目を天にむけようともしないで、胸を打ちながら言った、『神様、罪人のわたしをおゆるしください』と。」ルカ18:13
神様が求めておられるのはどのような人であるか、イエス様が話された譬えです。人は他者に対して完全で、不足のないことを期待し要求します。しかし、自分を義人だと自認する人ではなく、自分の罪を認め、神様の赦しをねがう人です。そのような人は、自分の弱さを克服し、変わりたいと切に願います。神様はそれに応えてくださいます。(KE)
2月16日
「そして約四十年にわたって、荒野で彼らをはぐくみ、…」使徒13:18
神の民はエジプトから救い出されて、約束の地カナンを目指して旅をしました。いよいよカナンの地というところで、神様に背き、さらに40年の荒野の旅を続けました。考えるととてつもない年月です。広いと言ってもシナイ半島ですから、人の計画でやれば数年も掛けずに終わるものでしょう。まさに神様の訓練であったといえます。神の民を清め、整え、育ててくださったのです。私たちの日々も同様に神様の教育がなされているのです。(KE)
2月15日
「そこで、わたしの子よ。あなたはキリスト・イエスにある恵みによって、強くなりなさい。」第二テモテ2:1
誰でも強くなりたいと願います。それは常に自分が弱いことを知っているからです。そのため知力、体力、金力、政治力、学力など、いろんな力を求めます。しかし、それらは一時しのぎになりますが、外側から貼り付けた力なので、事にあたると脆くもはがれてしまいます。自分の内側から沸いてくる力こそ、本当の力です。それは私たちがキリストのものとなりきってしまうことです。(KE)
2月14日
「『見よ、これは新しいものだ』と言われるものがあるか、それはわれわれの前にあった世々に、すでにあったものである。」伝道1:10
人の世の様々な事象は常に繰り返されているものばかりです。世間で新しいといわれるものも、過去の例を探れば似たもの、それらしきものはすでにあったことです。ただ、神様のなさることは人の思いを越え、想像を越えたことです。神様らしいわざをなさって、私たちを驚嘆させ、神様を崇めさせるのです。思いがけないこと、予期しないことが起る時、まさに神業です。(KE)
2月13日
「あなたは主が見て正しいとし、良いとされることを行わなければならい。」申命記6:18a
人はとかく自分が良いと思うこと、自分が正しいと思うことを基準にして生活します。その結果、人を裁き、批判し、判断が恣意的になり、支離滅裂になってしまいます。「主が見て」という視点で判断し、行動するなら、他者がどうであろうと気にならず、また、自分のすることに自身が持てます。「主が見て」などという曖昧な基準では得手勝手な行動になると思われがちですが、決してそうはなりません。神様の霊が導いてくださるからです。(KE)
2月12日
「神の造られたものは、みな良いものであって、感謝して受けるなら、何ひとつ捨てるべきものはない。」第一テモテ4:4
人が幸不幸というもの、良い悪いと決めるのは、人の勝手な区分けであって、そのもの自体の価値とは関係ありません。自分にとってどうであるかというにすぎないのです。神様が森羅万象を創造されたとき、「はなはだ良かった」と喜ばれました。有形無形、どんなものも、どんな状況や事態も神様の創造によるものです。それを感謝して受けるかどうか、あなたにかかっています。(KE)
2月11日
「わたしはあなたのほかに、だれを天にもち得よう。地にはあなたのほかに慕うものはない。わが身とわが心とは衰える。しかし神はとこしえにわが心の力、わが嗣業である。」詩篇73:25-26
世にあっては、天涯孤独、頼るものなしという状態は悲惨なものです。しかし、人は本来孤独者というか単独者なのです。大家族に囲まれようとも、友人が多数居ても、それは変りません。ただ、神様を頼りとし、その方にしっかりつながるなら、孤独のようでそうではなく、単独であってそうではない強さを持つことが出来ます。(KE)