神様の許しがなければどんなことも実行されません。

6月23日

「人の歩みは主によって定められる、人はどうして自らその道を、明らかにすることができようか。」箴言20:24

「歩み」とは人生、日々の生活のことです。自分の人生は自分が決めているように思いますが、そうではないと言われます。なぜなら、明日のことも分からないからです。計画やスケジュールを立てますが、神様の許しがなければどんなことも実行されません。また、思わない、考えも計画もしないことをさせられています。自分の人生・生活だと言いつつ、自分ではなく神様が定めておられるのです。(KE)

人の命は神様によって決定されるのであって

6月22日

「あなたは人をちりに帰らせて言われます、『人の子よ、帰れ』と。」詩篇90:3

伝道の書には「ちりは、もとのように土に帰り、霊はこれを授けた神に帰る」と語られています。いずれにしても、人の命は神様によって決定されるのであって、たとえ瀕死の病にあろうと人の死は病気によるのではなく、神様の手によるのです。それまで人は決して死ぬことはありません。反対に主が「帰れ」と呼ばれたら、何をしても逆らうことはできません。だから生まれる時、死ぬときは誰にも分らないのです。(KE)

神様の臨在を感得させることは親の務めです

6月21日

「その子らが神をけがしているのに、彼がそれをとめなかったからである。」第一サムエル3:13b

神様は祭司エリになそうとすることを幼子サムエルに語りました。エリ先生の問題は彼の子らが神様を恐れない、傍若無人なふるまいをしているのに叱らなかったことです。子供や家族に神様を畏れ敬うことを教育し、神様の臨在を感得させることは親の務めです。子供は神様から養育するように託されたものですから、親が親としての役割を果たさなければ神様から取り除けられます。神の子に育てることが期待されているのです。(KE)

まさに信仰の試練のときです。あなたはどの道を選びますか。

6月20日

「さばきづかさが世を治めているころ、国に飢きんがあったので、ひとりの人がその妻とふたりの男の子を連れてユダのベツレヘムを去り、モアブの地へ行ってそこに滞在した。」ルツ1:1

エリメレク一家は飢きんによって、「ユダのベツレヘム」を去りました。これが不幸の始まりです。彼らは神様の祝福の地を離れたのです。確かに飢きんは苦しい事でしょうが、そこに留まる人もいました。モアブの地で食糧は得ましたが多くのものを失いました。まさに信仰の試練のときです。あなたはどの道を選びますか。(KE)

弱く小さなものであっても、驚くようなわざをすることができます

6月19日

「彼はろばの新しいあご骨一つを見つけたので、手を伸べて取り、それをもって一千人を打ち殺した。」士師15:15

大力サムソンの記事ですが、彼はごく普通の若者にすぎません。ただ、主の霊が臨む時、途方もない力を発揮するのです。ペリシテ人との戦いでも主の霊に満たされると、「ろばのあご骨」すらも強力な武器となりました。私共も主の霊に満たされるなら、どんなに弱く小さなものであっても、驚くようなわざをすることができます。あなたも第二、第三のサムソンになってください。(KE)

人として生きる道の中心

6月18日

「あなたはわたしのほかに、なにものをも神としてはならない。」出エジプト20:3

神様が人に求められる第一のことです。真の神様を神として恐れ敬うこと、これがなければ人として生きる道、その中心が失われ、無秩序と混沌に陥るからです。真の神様とは天地万物の創造者であり全能な方です。その方は唯一の神であって他に真の神様はいません。世には多神教と称する宗教がありますが、それは真の神様とは言えません。唯一絶対なものとは神様以外にありえないし、またそうでなければ信頼に足る神とはなりません。(KE)

羊飼いは羊のために命がけで責任をはたします。

6月17日

「主はわれらの神であり、われらはその牧の民、そのみ手の羊である。どうか、あなたがたは、きょう、そのみ声を聞くように。」詩篇95:7

羊は自分達だけで命を全うすることができません。羊飼いの保護と指導に従うとき、外敵に守られ豊かな牧草地や水辺へ導かれ、命を長くすることができます。また、羊飼いは羊のために命がけで責任をはたします。それだけに真剣です。神様と私たちの関係も同じです。羊飼いである神様の声を聞きのがさず従順に従いましょう。それが命だからです。(KE)

忘れてはならないこともあります。それは神様の恵みや祝福です

6月16日

「あなたは食べて飽き、麗しい家を建てて住み、また牛や羊がふえ、金銀が増し、持ち物がみな増し加わるとき、おそらく心にたかぶり、あなたの神、主を忘れるであろう。」申命記8:12-14

「喉もと過ぎれば熱さ忘れる」と世間でも言われます。忘れることは人にとって救となる場合もありますが、決して忘れてはならないこともあります。それは神様の恵みや祝福です。物事が順調になると、高慢になり、神様を忘れますが、神様は決して忘れるかたではありません。必ず、報われるときがきます。(KE)

大切なのは「あなたも行って同じように」することです。

6月15日

「そこでイエスは言われた、『あなたも行って同じようにしなさい』。」ルカ10:37b

「隣り人とはだれか」と問われたとき、イエス様は強盗に襲われ瀕死の傷を負った人を助けたサマリヤ人の譬えを話しました。そのあとで言われたのがこの言葉です。私たちはともすると「隣り人とはだれか」と、言葉の定義や解釈に熱中して、それで事終わりとしやすいのです。どんなに議論し高尚な学説を打ちたてようと、それで「隣り人」になることはできません。大切なのは「あなたも行って同じように」することです。(KE)

神様の慈愛によって生きるために必要な物を全て頂いているのです。

6月14日

「人は神の物を盗むことをするだろうか。しかしあなたがたは、わたしの物を盗んでいる。」マラキ3:8ab

私たちの健康も、家族も、仕事も、ことごとく神様から頂いたものばかりです。そのことを忘れて、まるで自分の力や知恵、努力によって得たと誇っている。まさに神様のものを「盗んで」いると言うほかありません。今日も、神様の慈愛によって生きるために必要な物を全て頂いているのです。まず、そのことを認めて、神様に感謝し、褒め称えましょう。また、言葉だけではなく感謝の奉げ物を主に奉げましょう。(KE)