横の人と比べるのは意味のない事です。

3月17日

「自分の物を自分がしたいようにするのは、当りまえではないか。それともわたしが気前よくしているので、ねたましく思うのか。」マタイ20:15

朝早くに雇われた人も、夕方に雇われた人も同じ額の賃金をもらった譬えが語られています。人の世では平等が尊ばれます。確かに人と人との関係ではそのとおりですが、人と神様との関係では通用しません。神様と私たちはそれぞれ一対一の契約であって、神様の取り扱いはひとりひとり違います。横の人と比べるのは意味のない事です。神様と「私」の関係をしっかり築いてください。(KE)

神様に頼らなければどうにもならないものだからです。

3月16日

「それは、どんな人間でも、神のみまえに誇ることがないためである。」第一コリント1:29

神様は常にご自身が主であることを求められます。そのため、この世の弱い者、軽んじられている者、無きに等しい者を選ばれたのです。なぜなら、彼らは誇るべきものはなく、神様に頼らなければどうにもならないものだからです。あなたが弱者であり、劣等生だと思うなら、感謝しようではありませんか。そのようなあなたを通して、神様は神様らしさを現してくださるのです。(KE)

 

約束の実現を忍耐強く待つことが大切です。

3月15日

「神はその約束されたことを、また成就することができると確信した。」ローマ4:21

アブラハムの信仰について語った言葉ですが、「約束」の成就を信じることが信仰です。聖書は神様の約束の書です。約束はまた成就されなければ単なる「絵に描いた餅」にすぎません。そのためには約束した当事者が真実に実行する能力が問われます。しかし、神様はできない事のない方ですから、約束の実現を忍耐強く待つことが大切です。アブラハムは神様の約束を確信して待ち続け、結果を手にしました。(KE)

神様に仕え、神の子として永遠の命に生きるためです。

3月14日

「彼らは天使に等しいものであり、また復活にあずかるゆえに、神の子でもあるので、もう死ぬことはあり得ないからである。」ルカ20:36

イエス様が人の死後、どのようになるか語ったことばです。人は必ず死を迎えます。そのとき、肉体は朽ち果て失われますが、それですべてが終わるのではなく、魂は神様のもとへ帰り、霊の体を与えられます。天使のごとく、神様に仕え、神の子として永遠の命に生きるためです。そこでは親子、夫婦などの肉にあった関係は解消され、父なる神様のもとにある新しい関係が築かれます。(KE)

小さな種の中に命が格納されています。

3月13日

「種まきは御言(みことば)をまくのである。」マルコ4:14

種まきのたとえ話の一節です。神様の言葉である御言は種のようなものです。種は何ひとつ特徴のない平凡なものです。こんなものから何がでるかしらと思われますが、ひとたび地に埋められ、時がたつと芽が出て成長し、種の姿から想像できない草花や大木、野菜などになります。小さな種の中に命が格納されています。同様に、みことばに命が宿っていて、心と言う農地に埋められると驚くべき結果をもたらします。みことばを受け入れ、信じて、命を受けましょう。(KE)

「静かに」事の次第を解きほぐすのです。

3月12日

「あなたがたは怒っても、罪を犯してはならない。床の上で静かに自分の心に語りなさい。」詩篇4:4

「怒り」自体は罪ではありませんが、怒りに任せて自分を忘れるとき、罪を犯します。そうならないために、独りになって、「静かに」事の次第を解きほぐすのです。自分を見ている目に気がつきます。また、自分の中のもう一つの声が聞こえるようになります。そのとき、怒りは消えて、何を怒っていたのか忘れています。だから、決して即応しないことです。待つことが大切です。でないと、後悔することになります。(KE)

今、御子のゆえに神様の怒りが猶予されているのです。

3月11日

「しかしあなたの父ダビデのために、あなたの世にはそれをしないが、あなたの子の手からそれを裂き離す。」列王上11:12

ダビデ王の子、ソロモンは父のように神様を敬わず、主から離れてしまいました。しかし、神様はダビデのゆえに、ソロモンを哀れんでくださったのです。彼の世に災いは臨みませんでした。同様に、今、御子のゆえに神様の怒りが猶予されているのです。それはすべての人が悔改めて、神様に立ち返るときを残しておられるからです。ソロモンが態度を改め、神様に従っていたら、歴史は変っていたでしょう。(KE)

私たちは神様に感謝することがいかに乏しいことか。

3月10日

「イエスの足もとにひれ伏して感謝した。これはサマリヤ人であった。」ルカ17:16

イエス様によって病を癒された十人のうち、たった一人だけが主のもとに帰って来て、感謝しました。なんと人はご都合主義でしょうか。どんなに恵まれても、たとえ不治の病が癒されようと、十分の一の感謝で終わるとは!しかし、これは他人事ではない。私たちは神様に感謝することがいかに乏しいことか。差別の中にあったサマリヤ人は受けた恵みを身に余るものと深く感じたのです。(KE)

決断は私たちにも日々求められていることです。

3月9日

「話がすむと、シモンに『沖へこぎ出し、網をおろして漁をしてみなさい』と言われた。」ルカ5:4

イエス様がペテロに言われた言葉です。ペテロは代々漁師の家庭に育ち、漁の専門家です。イエス様は大工ヨセフの子で、漁については全くの素人です。しかし、イエス様はまた神の子です。イエス様の言葉にどのように答えるか、ペテロの信仰が試されます。自分の経験や知識を離れて、イエス様の言葉を信じ、「沖へこぎ出し、網をおろす」決断は私たちにも日々求められていることです。ペテロは思いがけない体験をしました。(KE)

神様の前に心を低くして栄光を主にお返ししましょう。

3月8日

「あなたは心のうちに『自分の力と自分の手の働きで、わたしはこの富を得た』と言ってはならない。」申命記8:17

世間でも“喉元過ぎれば熱さ忘れる”というように、人は忘れやすいものです。神様の恵みもたやすく忘れてしまいます。そればかりか、全てが自分の才覚と努力で獲得したかのように思い上がって、高慢不遜な鼻持ちならない人間に成り下がってしまいます。そうならないように、事あるごとに、神様の前に心を低くして栄光を主にお返ししましょう。主はそのような人をますます祝福してくださいます。(KE)