信仰はしっかり心にとどめて信じ続けなければ簡単に失われます。

10月16日

「こういうわけだから、わたしたちは聞かされていることを、いっそう強く心に留めねばならない。そうでないと、おし流されてしまう。」ヘブル2:1

信仰に立って生きようとするとき、それを阻もうとするサタンの力が強力に働きます。信仰は福音を聞くことから始まりますが、聞いたことをしっかり心にとどめて信じ続けなければ簡単に失われます。現実の事情や境遇、人の言葉、世間の習慣、心に忍び込む不信、自我の抵抗などが怒涛の如く押し寄せて、私たちを神様から引き離そうとします。ご用心ください。(KE)

それらはすべて肉の力であって人を生かす力ではありません。

10月15日

「最後に言う。主にあって、その偉大な力によって、強くなりなさい。」エペソ6:10

「強くなる」ことは、すべての人の願いです。そのために体力だけではなく、様々な「力」、経済力、政治力、知力など、「力」と名のつくものを少しでも多く得ようとします。しかし、それらはすべて肉の力であって人を生かす力ではありません。真の力は神様から与えられます。神様は全能者であり、力の根源です。自分の無能無力を認めて、へりくだり求める者に惜しみなく、与えてくださいます。今日も神様の力に満たされ生きてください。(KE)

神様の絶大な力の前に出る時、人は言葉を失います。

10月14日

「見よ、わたしはまことに卑しい者です、なんとあなたに答えましょうか。ただ手を口に当てるのみです。」ヨブ40:4

不幸な目に会ったヨブはそのわけが分らず悶々と悩んでいました。やがて神様はヨブに声をかけ、彼に無知な者であることを知らせるため質問攻めにしました。ヨブは何ひとつ答えることが出来ず、「手を口に当てる」以外にありません。神様の絶大な力の前に出る時、祭司ザカリヤのように人は言葉を失います。黙するのみです。つぶやいたり、不平不満を言っているときはまだ余裕があるのではないでしょうか。(KE)

イエス様の救いは私たちを神様の家族にしてくださったことです。

10月13日

「主に喜ばれるものがなんであるかを、わきまえ知りなさい。」 エペソ5:10

イエス様の救いは私たちを神様の家族にしてくださったことです。「アバ、父よ」と呼ぶ御子の霊を与えて、私たちを神の子としておられます。父は子供たちが喜び楽しんでいることを願いますし、子供たちは父が何を喜ぶだろうかと思います。そこに親子の交わりが生まれます。自分を喜ばせることばかりを求めるのではなく、父なる神様を喜ばせることを務めようではありませんか。それが子としての役目です。(KE)

これさえなければというものの背後に神様のみこころがあるのです。

10月12日

「そこで、高慢にならないように、わたしの肉体に一つのとげが与えられた。それは、高慢にならないように、わたしを打つサタンの使なのである。」第二コリント12:7

これさえなければというものを人は必ずもっています。聖徒パウロもそうでした。それはサタンのわざのように見えますが、その背後に神様のみこころがあるのです。そのことによって私たちが謙遜になるためです。それがなかったら、高慢になって罪を犯すことを神様はご存知なのです。その「とげ」のゆえに守られていることを感謝しましょう。(KE)

私たちの目指すべきは永遠の命の冠です。

10月11日

「しかし、すべて競技をする者は、何ごとにも節制をする。彼らは朽ちる冠を得るためにそうするが、わたしたちは朽ちない冠を得るためにそうするのである。」第一コリント9:25

オリンピック選手やその他の運動選手は、それぞれの競技で賞を得ようと日々訓練を怠りません。その努力は涙ぐましいものです。自分の好きなこと、食べることや遊ぶことも止めて、栄冠を得ることに努めます。しかし、それは次の世代に取って代わられるものです。私たちの目指すべきは永遠の命の冠です。目標をしっかり見据えて励み努めましょう。(KE)

自分の考え、計画が最善にして最高だと思いがちです。

10月10日

「ああ深いかな、神の知恵と知識との富は。そのさばきは窮めがたく、その道は測りがたい。」ローマ11:33

人は自分の考え、計画が最善にして最高だと思いがちです。しかし、どんなに賢い人であっても、神様の知恵、知識には到底かないません。それどころか、ゼロに等しいものです。しかも、私たちの人生、この世の生涯は神様のご計画とわざによって成り立っているのです。人の努力や力(知力・体力・財力など)で生きていると思い上がっているなら、笑止千万です。今日も、神様のみ手に導かれて生きてください。(KE)

何を模範とするかによって、その人の人生が変わります。

10月9日

「あなたがたは、実に、そうするようにと召されたのである。キリストも、あなたがたのために苦しみを受け、御足の跡を踏み従うようにと、模範を残されたのである。」第一ペテロ2:21

人は他人からすぐに影響を受けやすいものです。それだけに何を模範とするかによって、その人の人生が変わります。私たちの倣うべきものはイエス様の生涯です。主がどのような姿勢で神様に仕えてこられたか、自らの心をしっかり点検しつつ、私達も主の御心を共有し、その心を生きようではありませんか。そのために救いへ導かれたのですから。(KE)

神様が選びたてておられます。

10月8日

「しかし後になって、ダビデはサウルの上着のすそを切ったことに、心の責めを感じた。」サムエル上24:5

ダビデはサウル王様から命を狙われ、ユダの野を彷徨していました。偶然にも、寝ている王様に出会い、ダビデの部下はここで王様の命を取るよう進言しましたが、彼は害意のない事をあかしするため、「上着のすそ」を切り取って逃げ延びたのです。しかし、神様が選びたてておられるのに、それを尊ばず、神様の御心から逸れたように感じたのです。神様の思いを尊ぶダビデの姿勢に倣おうではありませんか。(KE)

神様はそのような役目のためにモーセを選ばれたとも言えます。

10月7日

「それゆえ、主は彼らを滅ぼそうと言われた。しかし主のお選びになったモーセは破れ口で主のみ前に立ち、み怒りを引きかえして、滅びを免れさせた。」詩篇106:23

神の民が神様の御心に背いて怒りを引き起こし、滅ぼされようとしたことがありました。モーセは神様の前に立ち、民のために神様の怒りをなだめ、心を翻させたのです。神様はそのような役目のためにモーセを選ばれたとも言えます。私たちも滅び行く民へ神様の哀れみを乞う者として選ばれたのではないでしょうか。(KE)