8月11日
「あなたのみ言葉はわが足のともしび、わが道の光です。」詩篇119:105
私たちの信仰は聖書を神様の言葉と信じることによるものです。それ以外に信仰の土台となるものはありません。また、み言葉によって、混沌とした時代にあって進むべき正しい道を選ぶのです。そうでなければ漆黒の闇の中を無事に過ごすことはできません。神様の言葉は真実で、必ず語られたように具体化してきます。み言葉を信じてその時を待ち望むのが信仰であり、その信仰には報いが、結果が伴います。み言葉には命と力があります。(KE)
8月11日
「あなたのみ言葉はわが足のともしび、わが道の光です。」詩篇119:105
私たちの信仰は聖書を神様の言葉と信じることによるものです。それ以外に信仰の土台となるものはありません。また、み言葉によって、混沌とした時代にあって進むべき正しい道を選ぶのです。そうでなければ漆黒の闇の中を無事に過ごすことはできません。神様の言葉は真実で、必ず語られたように具体化してきます。み言葉を信じてその時を待ち望むのが信仰であり、その信仰には報いが、結果が伴います。み言葉には命と力があります。(KE)
8月10日
「いつもイエスの死をこの身に負うている。」第二コリント4:10a
私たちはイエス様の死を自分の死として受けて、死んだ者であると認めます。死んだ者になりきってしまうと、神様はイエス様をよみがえらせた力で、私たちも生きるものとしてくださいます。生きるために死ぬ。これが福音の鉄則です。主の死に合体しようとしないために、信仰が中途半端になるのです。死んだ者は何を言われ、何をされても、全く頓着しません。そのとき、神様は新しい命、よみがえりの命によって、私たちを生かしてくださいます。自分に死にきって生きようではありませんか。(KE)
8月9日
「神はモーセに言われた、『わたしは自分のあわれもうとする者をあわれみ、いつくしもうとする者を、いつくしむ』。」ローマ9:15
これはまた奇異な言葉だと思われます。神様は公平な方で、偏ったことをしないと考えられますが、なんだか身勝手な方のように聞こえます。実は、人の尺度によって神様に期待をするのが間違いです。神様は何者にも支配・拘束されません。神様のなさることが人の思いと違っていても、常に全て正しく、公平・公正です。神様に絶対的な義を認めることが、神様を畏れ、敬うことです。(KE)
8月8日
「わたしは命のパンである。」ヨハネ6:48
イエス様はご自分のことを「パン」にたとえておられます。しかも、普通のパンではなく、「命」のパン、命を与え、豊かにするパンだというのです。神の民が荒野を旅していたとき、日々に天からのパン、マナによって養われました。私たちもこの世という荒野を旅していますから、天からのパンを食べなければ餓死します。今は飽食の時代と言われるほど、食物に溢れていますが、大切な命を与えるパン、イエス様を食べなければ命が枯れます。それはみことばを食べることです。(KE)
8月7日
「主はわれらの神であり、われらはその牧の民、そのみ手の羊である。どうか、あなたがたは、きょう、そのみ声を聞くように。」詩篇95:7
神様と私たちは羊飼いと羊の関係で表されます。それは羊がそれ自身で生きるすべがなく、群れを成して牧者に守られ、水辺や牧草地に導かれて生きるからです。私たちも同様です。神様のみ手に守られ、導かれなければ、自分だけで生きることはできません。また、牧者の声に従わなければ命を失う危険があります。今日も、良き羊となって、牧者なる神様のみ声に従いましょう。(KE)
8月6日
「イエスは彼らの信仰を見て、『人よ、あなたの罪はゆるされた』と言われた。」ルカ5:20
ある人々が病人を床にのせたまま連れてきましたが、人が多くて入れず、とうとう屋根に上り、瓦をはいでイエス様の前につり降ろしたのです。型破りな行動を見て、イエス様はその病気を癒してくださいました。イエス様は彼らの行動に信仰を見たのです。信仰はこのように具体的なわざを伴います。信仰とは「信じる」ことですが、人は信じるとそれに従って行動を始めます。信仰は目に見えるものとなります。(KE)
8月5日
「だから、何を食べようか、何を飲もうか、あるいは何を着ようかと言って思いわずらうな。」マタイ6:31
神様は私たちが思い煩うことを喜ばれません。それどころか、嫌われます。なぜなら、神様は「天の父」であって、私たちはその子供たちだからです。親が付いていながら、子供が心配し思い煩って落ち込んでいれば、親は悲しむでしょう。信頼されない親ほど情けないものはありません。ですから、神様は繰り返し「思いわずらうな」と言われるのです。神様はお父さんですから、安心して委ねきってしまいましょう。(KE)
8月4日
「それゆえ、主は彼らを滅ぼそうと言われた。しかし主のお選びになったモーセは破れ口で主のみ前に立ち、み怒りを引きかえして、滅びを免れさせた。」詩篇106:23
荒野を旅する神の民はしばしば神様に逆らい、不平不満のつぶやきで神様の怒りを受けました。しかし、モーセはその度に主の前に立ち、民の許しを執り成したのです。モーセのとりなしがなければ、とっくに滅ぼされていたでしょう。イエス様も私たちの罪をあがなう者となって神様の怒りから救い出してくださいました。それゆえ、私たちもまた和解の使者となろうではありませんか。(KE)
8月3日
「エリシャは言った、『恐れることはない。われわれと共にいる者は彼らと共にいる者よりも多いのだから』。」列王下6:16
スリヤ王が軍勢を率いて、預言者エリシャの町を包囲しました。エリシャの召使が朝起きて見ると、大軍に囲まれていることを知ってうろたえました。彼には神様の軍勢が見えなかったのです。私たちはスリヤの大軍でなくてもいろいろな敵に攻撃されますが、決して失望することはいりません。神様は天の軍勢を送ってあなたを守っておられます。心の目をひらいて見てください。(KE)
8月2日
「王の心は、主の手のうちにあって、水の流れのようだ、主はみこころのままにこれを導かれる。」箴言21:1
人の心ほど分りにくいものはありません。自分の心ですら、つかめずにいます。まして、家族だ、夫婦だといっても、それぞれの思いや心は全く違います。誤解・曲解があるのは当然でしょう。ただ、神様は人の心を支配し、導き、自在に動かされます。相手の心が読めないとき、自分の心が不明な時、神様に祈って教えていただくと、はっきりします。(KE)