10月13日

「しかし、彼は聖霊に満たされて、天を見つめていると、神の栄光が現れ、イエスが神の右に立っておられるのが見えた。」使徒7:55

ステパノが殉教したときの記事です。激しい怒りに満ちた群集が彼に向かって一斉に石を投げつけました。しかし、彼は恐れず彼らの怒りを受け止めましたが、彼の目は怒り狂った群集を見ていたのではありません。群衆には見えない主を見ていたのです。私たちはこのような迫害を受けることはありませんが、いろんな困難、苦しみにあったとき、見えない方に目をとめようではありませんか。(KE)

人は事情・境遇の良し悪しによって神様の愛を計ろうとします

10月12日

「わたしたちは、神がわたしたちに対して持っておられる愛を知り、かつ信じている。神は愛である。愛のうちにいる者は、神におり、神も彼にいます。」第一ヨハネ4:16

神様の愛を「知り、かつ信じて」いると言えるならば、これほど心強いものはありません。ともすると、人は事情・境遇の良し悪しによって神様の愛を計ろうとしますが、それでは愛を知ることも信じることもできません。自分の罪の深さを知り、そのために奉げられたイエス様の命を受け止めるとき、神様の愛が注がれ、主と共に生きるものとなります。(KE)

自分のことは自分が知っていると言いますが、そうではありません

10月11日

「あなたは、自分は富んでいる、豊かになった、なんの不自由もないと言っているが、実は、あなた自身がみじめな者、あわれむべき者、貧しい者、目の見えない者、裸な者であることに気がついていない。」黙示3:17

ある哲学者は“汝自身を知れ”と説きました。まさに自分を知ることが人生最大の事業ではないでしょうか。自分のことは自分が知っていると言いますが、決してそうではありません。神様は日々の様々な出来事を通して、あなたが何ものであり、どのような人間であるかを悟らせてくださいます。真実な自画像を知るとき、神様の前に謙遜になれます。(KE)

今日、あなたの生活のどこかで、主はあなたを待っておられます。

10月10日

「あなたがたは主にお会いすることのできるうちに、主を尋ねよ。近くおられるうちに呼び求めよ。」イザヤ55:6

人生は始まりから終わりまで直線的に進みます。同じことの繰り返しも、やり直すことも出来ません。今、今日は二度と来ないと知りながら、無為に過ごしています。神様と出会うことも、イエス様の救いを体験するにも明日では遅いかもしれません。今日、あなたの生活のどこかで、台所で、買い物をしているスーパーで、主はあなたを待っておられます。(KE)

人間的な画策を止め、神様に立ち返って、神様だけを待ち望むことです

10月9日

「それゆえ、主は待っていて、あなたがたに恵みを施される。」イザヤ30:18a

神様は私たちを恵み、祝福したいと願っておられます。なぜなら、神様は本質的に愛だからです。ただ、私たちがその恵みをいただくに相応しい手続きを取らないからです。神様が求めておられることは唯一つ、人間的な画策を止め、神様に立ち返って、神様だけを待ち望むことです。問題や悩みに遭うとき、うろたえて右往左往しますが、解決は得られません。その様子を見ておられる神様は、私たちがお手上げになってへりくだるのを待って、恵んでくださいます。(KE)

神様は彼らの様子をご覧になって災いを思いかえしたのです

10月8日

「神は彼らのなすところ、その悪い道を離れたのを見られ、彼らの上に下そうと言われた災を思いかえして、これをおやめになった。」ヨナ3:10

ニネベの人々が神様を離れた悪い道のゆえに、神様の裁きを伝えるために預言者ヨナは遣わされました。ニネベの人々は彼の警告を聞き、王様をはじめ全ての人々が悔改めました。神様は彼らの様子をご覧になって災いを思いかえしたのです。神様は実に豊かな赦しとあわれみに富む方です。私たちも絶えず神様の憐みにすがって、赦しを味わいましょう。(KE)

神様があなたの人生の「主」であり、「神」であるというのです

10月7日

「見よ、わたしは主である、すべて命ある者の神である。わたしにできない事があろうか。」エレミヤ32:27

「主」とは中心、根源などの意味を含むことばです。いうならば、全ての始まり、中心は神様であるという宣言です。人は自分が人生の「主」だと思っていますが、そうではなく、神様があなたの人生の「主」であり、「神」であるというのです。しかも「できない事」がない方です。この神様があなたを生かし、持ち運び、人生を終わらせるのです。神様の大能のみ手の中で、限りない愛によって生かされている幸いを感謝しましょう。(KE)

必要なものを、必要なとき、必要なだけ満たしてくださるのも神様です

10月6日

「うそ、偽りをわたしから遠ざけ、貧しくもなく、また富みもせず、ただなくてならぬ食物でわたしを養ってください。」箴言30:8

これは人が生きるうえの必須条件ではないでしょうか。世間は「うそ、偽り」で塗り固められています。その中にあって、人の心を探り知り、公平に裁かれる神様を前に、うそ、偽りなく生きるのは至難の技です。しかし、神様の力にすがるとき、それをまっとうすることができます。また、必要なものを、必要なとき、必要なだけ満たしてくださるのも神様です。この二つを祈り求めましょう。(KE)

主の憐みにすがって求めるなら、主はそれに答えてくださいます

10月5日

「その子の父親はすぐ叫んで言った、『信じます。不信仰なわたしを、お助けください』。」                       マルコ9:24

息子の病気を癒していただきたいとイエス様のところに来ました。父親は「できますれば」と願いましたが、主は信じるならどんなことでもできると答えました。神様に求めるにあたって、出来なければ仕方がないというなら、それだけのことで終わります。しかし、たとえ不信仰であっても、主の憐みにすがって求めるなら、主はそれに答えてくださいます。問題はいかにへりくだり、どれほど切実に求めるかにかかっています。(KE)

能動的に生きるのかによって生きがいが違ってきます

10月4日

「しかし、わたしはこのために、この時に至ったのです。」ヨハネ12:27d

人生を受身的に生きるのか、能動的に生きるのかによって生きがいが違ってきます。人生にはいろいろな事が次々と起ってきます。願わしいこともあれば、嫌なこともあります。しかし、なにがあっても、すべてのことについて、自分が生きているのはこの事のためである、あるいはこの時のためであると、積極的に受容し、そこに生かされている目的を置くならば、実に充実した日々を送ることができます。(KE)