イエス様の十字架の死はすべての人々のための死です。例外はありません。

10月6日

「この弱い兄弟のためにも、キリストは死なれたのである。」第一コリント8:11b

イエス様の救いは、ある時代、ある民族に限られたようなものではなく、過去・現在・未来にわたってすべての人々に与えられたものです。イエス様の十字架の死はすべての人々のための死です。例外はありません。いうならば、天国行きの切符をすべての人がもらっているのですが、改札口を通ろうとしないので列車に乗り損なっているのです。「あなたも救われているのですよ」と教えてあげようではありませんか。(KE)

私たちがイエス様に出会ったのは、なんらかの機会に「聞いた」からにほかなりません。

「したがって、信仰は聞くことによるのであり、聞くことはキリストの言葉から来るのである。」ローマ10:17

私たちがイエス様に出会ったのは、手段や方法、時期や場合は千差万別でしょうが、なんらかの機会にイエス様について「聞いた」からにほかなりません。それはまさに千載一遇の出会いだったと言えます。気がつかないうちに、神様はそのように導いて、私達もイエス様のことばを語る時や場合が与えられ、他の人々が主と出会うきっかけになることができます。(KE)

十字架のあがないによって、私たちを「聖徒」としてくださったのです。

10月4日

「なぜなら、御霊は、聖徒のために、神の御旨にかなうとりなしをして下さるからである。」ローマ8:27b

「聖徒」とは私たちのことです。そういわれると、恥ずかしい気がしますが、神様は十字架のあがないによって、私たちを「聖徒」としてくださったのです。そればかりか、神の霊、御霊を送って、私たちのうちに住まわせ、神様との間を執り成してくださっています。私達は神様の御心に適うようなことは何ひとつできませんが、ただ御霊の執り成しによって神様の恵みと祝福を受けているのです。感謝しようではありませんか。(KE)

あなたが同じように信仰に生きるのでなければ、なんの意味もありません。

10月3日

「神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神である。あなたがたは非常な思い違いをしている。」マルコ12:27

過去に驚くべき奇跡や不思議を行った神様であっても、今を生きるあなたにとって、今もそのような神様でなければなんの役にもたちません。また、昔、信仰に生きた先祖や先輩がいても、あなたが同じように信仰に生きるのでなければ、それらは過去の勲章であって、現在にはなんの意味もありません。過去に囚われず、「あなたは私の神、全能の神です」と信じようではありませんか。(KE)

イエス様の言葉を信じ、ただ主だけを見上げておれば

 

「しかし、風を見て恐ろしくなり、そしておぼれかけたので、彼は叫んで、『主よ、お助けください』と言った。」マタイ14:30

ガリラヤ湖の水の上をあるいてイエス様が弟子達の舟に近づいてこられました。ペテロが水の上を渡ってみもとに行かせて下さいと求めた時、主はおいでなさいと招かれました。ペテロが水の上を歩きかけたとき、周囲の波を見ました。イエス様の言葉を信じ、ただ主だけを見上げておれば沈まなかったのですが、目をそらせたとき、失敗しました。今日も、みことばを信じ、主に目を注いで生きようではありませんか。(KE)

私たちの汚れ果てたどんなものも、神様に受けいれていただけるものはありません。

10月1日

「わたしは何をもって主のみ前に行き、高き神を拝すべきか。燔祭および当歳の子牛をもってそのみ前に行くべきか。」ミカ6:6

神様と私たちとの違いは天と地、月とすっぽん以上です。私たちの汚れ果てたどんなものも、神様に受けいれていただけるものはありません。まさに絶望的な存在です。それゆえに、神様はイエス様によって十字架の贖いを全うし、その裂かれた肉体の門を通って神様のみ前に立つ者としてくださいました。なんと大きな恵みでしょうか。今日も主の血汐を携え、み前に出ましょう。(KE)

「善」を求めるなら、神様と共にいることを喜ぶことが出来ます

9月30日

「善を求めよ、悪を求めるな。そうすればあなたがたは生きることができる。またあなたがたが言うように、万軍の神、主はあなたがたと共におられる。」アモス5:14

「善」とは人の世の善行ではなく、神様のみこころにほかなりません。また、「悪」とは神様を無視して自分勝手な歩みをすることです。あなたが「善」を求めるなら、神様と共にいることを喜ぶことが出来ますが、「悪」を求めるなら、神様と共に居ることができないばかりか、むしろ、神様の前から隠れようとするでしょう。(KE)

誉れや栄光を自分のものとして、神様の前に頭が高くなりがちです。

9月29日

「主よ、栄光をわれらにではなく、われらにではなく、あなたのいつくしみと、まこととのゆえに、ただ、み名にのみ帰してください。」詩篇115:1

「恥じはわがもの、誉は主のもの」と言われるように、主に栄光を帰すこと、これが私たちのなすべきことです。しかし、気がつかないうちに、誉れや栄光を自分のものとして、高慢になり、感謝を忘れ、神様の前に頭が高くなりがちです。み言葉に「われらにではなく」と二度繰り返しています。それほどに徹底して主を褒め称え、感謝讃美を奉げて、主を喜ぼうではありませんか。(KE)

この事業はモーセのためではなく、神様の事業なのです。

9月28日

「こうして主のしもべモーセは主の言葉のとおりにモアブの地で死んだ。」申命記34:5

モーセは神の民を約束の地、カナンへ導いて来ましたが、そこへ入ることが出来ませんでした。一大事業を完成させる直前に召されるなど、実に無念残念という感じがします。しかし、この事業はモーセのためではなく、神様の事業なのです。彼はその補助者に過ぎません。私共も同様に神様の壮大なドラマの一こまとして生かされています。使命が終わると、退場するほかありません。人情の入る隙間のない神様の厳粛な摂理です。(KE)

目の前の風雨に驚かされ、神様のみ手が見えないだけです。

9月27日

「とこしえにいます神はあなたのすみかであり、下には永遠の腕がある。」申命記33:27a

厚い雨雲に覆われた嵐の時でも、雲を突き抜けて上昇すると、そこには決して消えることのない太陽が輝いています。そのように、私たちがどんな境遇にあろうと、神様は過去、現在、未来にわたって、決して変らず、常に大能の腕で支え、持ち運んでおられます。目の前の風雨に驚かされ、揺れ動く木々の騒ぎに心奪われて、神様のみ手が見えないだけです。今日も、あなたを抱きかかえておられる主の腕を感じつつ生きてください。(KE)