救の完成である主の来臨を待ち望むのは私たちの喜びです

2月18日

「これらのことをあかしするかたが仰せになる、『しかり、わたしはすぐに来る』。アァメン、主イエスよ、きたりませ。」黙示22:20

すべてのものには始まりがあり、終りがあります。悠久のときを経た大宇宙も必ず終わります。それがいつであるかはわかりません。しかし、終末のとき、主は再び来られるとの約束です。今の世の様子を見るとき、終りの近きことを感じます。全ての人が悔改め、救われることを切に願いますが、救の完成である主の来臨を待ち望むのは私たちの喜びです。「主よ、すみやかに来たり給え」と祈りつつ。(KE)

表裏一体、内外なし。これこそ力です。

2月17日

「偽善な律法学者、パリサイ人たちよ。あなたがたは、わざわいである。杯と皿との外側はきよめるが、内側は貪欲と放縦とで満ちている。」マタイ23:25

偽善とは建前や外見を重んじることです。本音と建前、内と外、表と裏など、二つの基準を設けて使い分けるのを世間では「よし」とされています。しかし、神様には通用しません。偽善の反意語は言うならば「真実」と言えるでしょう。表裏一体、内外なし。これこそ力です。私たちの内も外もきよめて、神様の前に嘘偽りのない歩みをしましょう。(KE)

神様は私たちの必要なものを知らないはずはありません。

2月16日

「あなたがたの父なる神は、求めない先から、あなたがたに必要なものはご存じなのである。」マタイ6:8b

神様は全知全能な方です。私たちの必要なものを知らないはずはありません。人の親でも限りある知恵で子供が必要なものを知り、備えようとします。ただ、だからと言って、何でも全部与えればよいわけではありません。それぞれの「もの」や「こと」に時があり、規模や内容も変化します。私たちが喜び、感謝し、主を称えることができるような方法や時期を神様は待っているのです。(KE)

必ず報いてくださることを信じるからです。

2月15日

「おのれを撃つ者にほおを向け、満ち足りるまでに、はずかしめを受けよ。主はとこしえにこのような人を捨てられないからである。」哀歌3:30-31

右の頬を打つなら、左の頬を出せとは有名な言葉ですが、多くの人は誤解しているようです。打たれることが主眼ではなく、どんなことでも見ておられる方がいること、また必ず報いてくださることを信じるからです。どんなときにも神様に期待しているとき、心にゆとりが出来て望みを持つことができます。そうでないと、袋小路に追い詰められて自滅するほかありません。(KE)

今日の一日も「主」によってあなたのために備えられた日です。

2月14日

「見よ、わたしは主である、すべて命ある者の神である。わたしにできない事があろうか。」エレミヤ32:27

カード遊びをするとき、どんなカードよりも強いものをオールマイティと言います。まさに神様はそのような方です。天地万物、森羅万象をすべて創造された方は、いまも変ることなく、創造のみわざを日々続けておられます。私たちの全てを知り、すべてのわざを導き、生ける者の「主」です。今日の一日もこの方によってあなたのために備えられた日です。あなたは自分が「主」だと思っていませんか。(KE)

すでに信じた者か、これから信じる者であるかの違いにすぎません。

2月13日

「キリストは彼のためにも、死なれたのである。」ローマ14:15c

これは大変重い言葉です。主の救を受けた私たちは、気がつかないうちに自分を義としています。その結果、まだ主を知らない人たちを批判し、“未信者”と称して差別します。しかし、神様から見ると、彼もわたしも同じ者です。イエス様の十字架の死によって、罪を許された者です。ただ、それをすでに信じた者か、これから信じる者であるかの違いにすぎません。神様の側に立つなら、過去現在未来に渡ってすべての人のために救は完成しているのです。(KE)

私たちの仕えるべき夫はイエス様です。

2月12日

「しかし、わたしが与える水を飲む者は、いつまでも、かわくことがないばかりか、わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠の命に至る水が、わきあがるであろう。」ヨハネ4:14

イエス様はスカルの町で一人の女に出会います。彼女は五人もの夫に仕えた人でした。それは彼女の心に渇くものがあって、次々と求めた結果でした。それを満たすにはイエス様による以外にありません。私たちの仕えるべき夫はイエス様です。あなたが主の花嫁となり、花婿の言葉に従うとき、永遠の命をいただくのです。(KE)

神様は私たちの信仰が成長し、堅固になるよう願っています。

2月11日

「それからすぐに、御霊がイエスを荒野に追いやった。」マルコ1:12

主はバプテスマを受けられた後、荒野で試みに遭いました。それは神様の深いご計画で、御霊に導かれた結果です。神様は私たちの信仰が成長し、堅固になるよう願っています。それゆえ、救われた者は期待が大きいだけに、試練も多くなります。しかし、イエス様が試みられているときも、御使いが仕えていたとあります。試練のとき、無力さと孤独を感じますが、御使いがあなたと共にいることを覚えていてください。(KE)

恥ずかしくなく、主のみ前に立てるように生きること

2月10日

「だから、目をさましていなさい。いつの日にあなたがたの主がこられるのか、あなたがたには、わからないからである。」マタイ24:42

終末の時、イエス様が再び世に来てくださるとの約束を信じて、今の時を生きています。再臨の時がいつであるか、誰にもわかりません。その時がいつであっても、喜んで、恥ずかしくなく、主のみ前に立てるように生きることが、私たちの日々の目標です。毎日の行動規範、世間で言う「倫理」は、私たちにとって「今、主が来られても恥じることなくみ前に立てるか」を問うことです。(KE)

私たちは神様を忘れやすいものです。

2月9日

「見よ、わたしは、たなごごろにあなたを彫り刻んだ。あなたの石がきは常にわが前にある。」イザヤ49:16

忘れてはならないことを書き留めるに、手近なものとして手のひらに記すことがあります。神様はあなたをご自分の手のひらに「彫り刻んだ」と言われます。刻印したものはどんなことをしても消えません。神様はそのような堅固な思いで私たちを覚えておられますが、私たちは神様を忘れやすいものです。自分では小さな目に留まらない存在と思っても、神様には「石がき」のように見えているのです。(KE)