「そのとき、ふたりの者が畑にいると、ひとりは取り去られ、ひとりは取り残されるであろう。」マタイ24:40
「そのとき」とは、終末の時のことですが、この言葉をとおして救いが極めて個人的なものであることが分かります。家族や教会など、集団としてではなく、あなた個人が問われることです。どんなに仲の良い夫婦であっても、神様の前に立つのは一人一人です。他人のことも大切でしょうが、先ずは「わたし」です。あなたが真剣に神様を信じ、イエス様に従って、救いを確信することが求められています。(KE)
「そのとき、ふたりの者が畑にいると、ひとりは取り去られ、ひとりは取り残されるであろう。」マタイ24:40
「そのとき」とは、終末の時のことですが、この言葉をとおして救いが極めて個人的なものであることが分かります。家族や教会など、集団としてではなく、あなた個人が問われることです。どんなに仲の良い夫婦であっても、神様の前に立つのは一人一人です。他人のことも大切でしょうが、先ずは「わたし」です。あなたが真剣に神様を信じ、イエス様に従って、救いを確信することが求められています。(KE)
9月15日
「彼を信じる者は、さばかれない。信じない者は、すでにさばかれている。神のひとり子の名を信じることをしないからである。」ヨハネ3:18
イエス様は救い主として世に来てくださいました。しかも、その救いは老若男女、貴賎貧富にかかわらず、全ての人に与えられるものです。ただ、イエス様を信じて、心を開いて求めなければ得られません。神様のさばきとは、神様が積極的にしかけられることではなく、私たちが自分で選び、招く結果です。すなわち、イエス様を信じないこと自体が「さばき」となるのです。(KE)
9月14日
「それで、わたしのこれらの言葉を聞いて行うものを、岩の上に自分の家を建てた賢い人に比べることができよう。」マタイ7:24
この言葉に続いて、砂の上に家を建てた愚かな人のことが語られています。確かに、何を土台にしているかによって、その上にあるものが左右されます。誰でも家を建てようとするとき、少しでも頑丈な土台に建てたいと願います。同様に、私たちの人生の土台をどこに置くかによって、大きく変わります。主のみ言葉、聖書の言葉を信じ、信頼し、それに従うとき、揺るがない生き方ができます。(KE)
9月13日
「人が富を得るときも、その家の栄えが増し加わるときも、恐れてはならない。彼が死ぬときは何ひとつ携え行くことができず、その栄えも彼に従って下って行くことはないからである。」詩篇49:16-17
人は富や財産を自分の所有としますが、それらはこの世にある間、使わせてもらっている借り物にすぎません。地上の生活が終わると、全てをここに置いて出て行くほかないのです。私たちが生きている間、楽しむようにと神様が備えてくださったものですから、残そうと考えず、感謝して喜び楽しんだらいいのです。(KE)
9月12日
「あなたがたは空の模様を見分けることを知りながら、時のしるしを見分けることができないのか。」マタイ16:3b
日本は四季折々の変化に富んだ国です。それだけに常々自然の変化によって「時」を読み取る生活が身についています。イエス様はそのように今の時を知れと勧めています。始まりのあるものはすべて終りがあります。大宇宙も、私たちの小さな人生も、終りに向かって進んでいる今の時代、どれだけの時間が残されているでしょうか。終りのときの間近きことを知り、いかに生きるべきか真剣に求めましょう。(KE)
9月11日
「わたしをつかわされた父が引きよせて下さらなければ、だれもわたしに来ることはできない。」ヨハネ6:44
イエス様の救いはすべての人に開かれたものです。それなのに、多くの人々は主のもとに来ようとしません。熱心に誘ったり、勧めたりしますが、徒労に終わります。それは聖書的と言えます。なぜなら、父なる神様が引き寄せてくださらなければ、誰もイエス様のところに来ることが出来ないのです。今、主のもとに来ることが出来たあなたはまことに幸いです。神様が引き寄せてくださったのですから。(KE)
9月10日
「あなたがたのからだを、神に喜ばれる、生きた、聖なる供え物としてささげなさい。それが、あなたがたのなすべき霊的な礼拝である。」ローマ12:1bc
そもそも礼拝とはなんでしょうか。それは神様が全てのものの主であり、支配者であり、私達は神様のものであることを告白することです。「ささげなさい」と言われますが、そもそも自分のものではありません。自分の体も含めて、家庭も、仕事も、家族も、ことごとく神様の所有です。そのことを徹底して認めようではありませんか。(KE)
9月9日
「御子は、見えない神のかたちであって、すべての造られたものに先だって生れたかたである。」コロサイ1:15
神様は霊的な存在ですから、私たちの五感を通して知ることはできません。しかし、ただひとり、イエス様は神の位を離れて世に来てくださいました。それは神様の栄光を人の目に見えるように現すためでもあったのです。「見えない神のかたち」を見えるものとしたのがイエス様です。しかも、イエス様は世にこられる遥か以前、創世のときに、すでに神様と共におられたのです。(KE)
9月8日
「この大祭司は、わたしたちの弱さを思いやることのできないようなかたではない。罪は犯されなかったが、すべてのことについて、わたしたちと同じように試錬に会われたのである。」ヘブル4:15
大祭司となられたイエス様は、わたしたちの味方となってくださるのです。「同病相哀れむ」と言う様に、私たちと同じように苦しみや弱さを知り、憐み深い方です。そのような方が大祭司となり、神様との間で執り成しておられます。だから、どんなことでもまずこの方に打ち明けようではありませんか。(KE)
9月7日
「愚かで無知な論議をやめなさい。それは、あなたが知っているとおり、ただ争いに終るだけである。」第二テモテ2:23
若い頃は喧々諤々と論議することが好きでした。しかし、何十年か経ってみると、一体何をそんなに議論することがあっただろうかと思います。他の人から徹底的に論破されようと、その人の信念や心は変わりません。むしろ怒りや憎しみが残るだけです。人は神様から諭されなければ悟ることも出来ないし、人は神様によらなければ変われません。今は論議するより祈るほうが楽しく幸いです。(KE)