神様から離れると、力が去ってしまうのです。

1月15日

「彼はろばの新しいあご骨一つを見つけたので、手を伸べて取り、それをもって一千人を打ち殺した。」士師15:15

大力サムソンの記事ですが、そもそも生まれながらに大力だったのではありません。このときも、「主の霊」が臨んで彼に力を注いでくれたのです。神様の力に満たされるとき、並外れた力を振るうことができました。神様から離れると、力が去ってしまうのです。デリラの誘惑に負けたとき、神様の力が抜けて、捕らえられました。私たちにも力がありません。サタンに勝つため、神様の力を求めましょう。(KE)

ただ神様の一方的な愛によるのです。

1月14日

「あなたはあなたの神、主の聖なる民である。あなたの神、主は地のおもてのすべての民のうちからあなたを選んで、自分の宝の民とされた。」 申命記7:6

神様は私たちを「聖なる」「宝の」民としたと言われます。なにゆえにこのような特段の恵みを受けるのでしょうか。私たちには認められるべき値打ちも、価値もありません。ただ神様の一方的な愛によるのです。愛するには理由や理屈はいりません。神様の愛もそうです。ただ、素直に愛されていることを信じるだけです。この愛に応えていこうではありませんか。(KE)

神様ご自身が昼夜を分かたず共に居られたのです。

1月13日

「主は彼らの前に行かれ、昼は雲の柱をもって彼らを導き、夜は火の柱をもって彼らを照し、昼も夜も彼らを進み行かせられた。」出エジプト13:21

エジプトでの奴隷の生涯から救い出された神の民は、荒野の旅路をたどりました。危険と困難の伴う苦しい旅路でしたが、奴隷の時代と全く違った恵みを受けました。神様ご自身が昼夜を分かたず共に居られたのです。雲や火の柱は神様の臨在(共にいますこと)をあかしするものです。そのように、主は今もあなたの先立ちとなり、後ろ盾となって、導いておられます。(KE)

あなたが神様と共にあゆむなら、祝福を受けることができるのです。

1月12日

「主がヨセフと共におられたので、彼は幸運な者となり、その主人エジプトびとの家におった。」創世記39:2

ヨセフは兄弟から妬まれ、隊商に売られました。やがてエジプト人ポテパルの奴隷となりましたが、神様はどんな境遇に置かれても、ヨセフと共にいて彼のわざを祝福してくださいました。彼のゆえにポテパルの家も祝福されました。そのようにあなたが神様と共にあゆむなら、あなただけではなく、あなたの家族も、会社も、学校も、祝福を受けることができるのです。あなたの信仰のゆえに神様が恵まれるのです。(KE)

基礎となる部分をきちんとすれば後のことは自ずから整ってきます。

1月11日

「ただ、内側にあるものをきよめなさい。そうすれば、いっさいがあなたがたにとって、清いものとなる。」ルカ11:41

どんなことにも、肝心要となるもの、土台となるものがあります。そのような基礎となる部分をきちんとすれば後のことは自ずから整ってきます。人にあっては外側のことではなく、内側です。内なるもの、心を清くするなら、口の言葉、手のわざ、足の歩みなど、そとに現れたものも清くなります。最新の美しい衣装をまとうより、高価な化粧をするよりも、清くすべきは心です。(KE)

率直に、飾らず、神様に心をぶつけましょう。

1月10日

「イエスは彼に言われた、『もしできれば、と言うのか。信ずる者には、どんな事でもできる』。」マルコ9:23

日本人の私たちにはどこかに謙譲の美徳が潜んでいて、信仰の足を引っ張ってしまいます。あからさまに気持を表現できないで、回りくどい言い方になります。神様に求める時、そのような気遣いは無用です。できる、できないに囚われず、率直に、飾らず、神様に心をぶつけましょう。信ずる以外に救われる道はないのですから。信仰は追い詰められ逃げ場のない時、真価が明らかになります。(KE)

「求めよ」と言われます。どうぞ、遠慮なく神様に求めてください。

1月9日

「天にいますあなたがたの父はなおさら、求めてくる者に良いものを下さらないことがあろうか。」マタイ7:11

この言葉の前半に人の親でもその子のために良いものを与えるではないかと語られています。ひとり子をすら惜しまないで死に渡された方が、あなたに何を惜しむことがありましょうか。神様は私たちのお父さんになってくださったのですから。だから、「求めよ」と言われます。どうぞ、遠慮なく神様に求めてください。あなたの願いどおりではなくても、それ以上に良いことを備えておられます。(KE)

命がけで一途に信じ続けることです。

1月8日

「たといそうでなくても、王よ、ご承知ください。わたしたちはあなたの神々に仕えず、またあなたの立てた金の像を拝みません。」ダニエル3:18

人は自分に都合のよいことをしてくれる神様を求めようとします。また、願いがこたえられないと神様を捨てるようなこともします。まことに身勝手で傲慢なふるまいです。神様を畏れ敬うとは、自分の都合に左右されず、困難や苦しみのなかでも命がけで一途に信じ続けることです。なぜなら、神様は神であるゆえに尊ばれるべきだからです。(KE)

神様から離れて私たちの幸せはないからです。

1月7日

「主は言われる、背信の子らよ、帰れ。わたしはあなたがたの夫だからである。」エレミヤ3:14a

人と神様との関係は愛に基づく婚姻関係のようなものです。ところが、人は愛してくださる花婿、主から離れて、他のものを慕い、罪を犯したのです。それでもなお神様は背いた妻である私たちを愛するがゆえに「帰れ」と切なる思いを抱いて待っておられます。この方から離れて私たちの幸せはないからです。それほどに深い愛を注いでくださっています。主の心と思いを知って主のもとに帰りましょう。(KE)

しかし、神様のことばは不変にして不動のものです。

1月6日

「主の息がその上に吹けば、草は枯れ、花はしぼむ。たしかに人は草だ。草は枯れ、花はしぼむ。しかし、われわれの神の言葉はとこしえに変ることはない。」イザヤ40:7-8

人は、朝に萌出て夕べに枯れる草木のように、はかなく脆い存在です。最近の世界情勢を見ても、ちょっと歯車が違うと積み木崩しのように壊れてしまいます。しかし、神様のことばは不変にして不動のものです。弱い私たちが神様のことばに結びつく時、堅牢なカプセルに守られるごとく、永遠のいのちに生きることが出来ます。(KE)