3月30日
「しかし、わたしはひとりでいるのではない。父がわたしと一緒におられるのである。」ヨハネ16:32cd
イエス様は捕らえられて裁かれます。これまで寝食を共にしてきた弟子達は逃げ去って、主はたった一人になられました。しかし、父なる神様が共におられるゆえに孤独を恐れません。どんな状況におかれても神様に対する絶大な信頼こそ力であり、慰めと望みでした。ともすると、孤独を恐れて人を頼ろうとします。イエス様はこの平安をあなたに与えたいと願っておられるのです。そのための十字架です。(KE)
3月30日
「しかし、わたしはひとりでいるのではない。父がわたしと一緒におられるのである。」ヨハネ16:32cd
イエス様は捕らえられて裁かれます。これまで寝食を共にしてきた弟子達は逃げ去って、主はたった一人になられました。しかし、父なる神様が共におられるゆえに孤独を恐れません。どんな状況におかれても神様に対する絶大な信頼こそ力であり、慰めと望みでした。ともすると、孤独を恐れて人を頼ろうとします。イエス様はこの平安をあなたに与えたいと願っておられるのです。そのための十字架です。(KE)
3月29日
「そして少し進んで行き、うつぶしになり、祈って言われた、『わが父よ、もしできることでしたらどうか、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの思いのままにではなく、みこころのままになさって下さい』。」マタイ26:39
ゲッセマネの園で祈られた主の祈りです。イエス様は決してスーパーマンではありません。私たちと同じ肉体を持ち、弱さを知り、悲しみの人でした。それだけに激しい肉と霊との戦いにありました。「みこころのままに」と、これが自分に死ぬことです。ここに至るまで祈りましょう。(KE)
3月28日
「イエスは彼に答えて言われた、『わたしのしていることは今あなたにはわからないが、あとでわかるようになるだろう』。」ヨハネ13:7
晩餐の席で、イエス様は弟子達の足を洗いました。それには間もなく起る十字架の目的を語る意図がありましたが、弟子達はどうしてこんなことをするのだろうと訳がわかりません。そのように神様のなさるわざを見極めることも、その意図を知ることも、私たちにはできません。しかし、あとになってみると、神様の綿密なご計画、布石を知ることになります。(KE)
3月27日
「そして、彼らに教えて言われた、『「わたしの家は、すべての国民の祈の家ととなえらるべきである」と書いてあるではないか。それだのに、あなたがたはそれを強盗の巣にしてしまった』。」マルコ11:17
イエス様は神殿で商売をする人々を怒って、追い出されました。彼らは神殿で礼拝する人々の便宜(犠牲の動物をうり、献金の両替)のためにしたことです。しかし、主は神様に対する姿勢を正すことを求められます。神様を信じるとは理屈を越えたことです。人は合理的な信仰を求めますが、それは間違いです。(KE)
3月26日
「そして外へ出て、激しく泣いた。」ルカ22:62
イエス様が捕らえられて、大祭司の屋敷で取調べを受けました。ペテロは人目を避けてついていきましたが、イエス様の仲間だと言われて、「わたしはその人を知らない」と強く否定しました。一度ならず三度も繰り返して拒んだとき、「主は振りむいてペテロを見つめられた」とあります。どこまでも主に従うと強弁していたペテロ、自分に危険が迫った時、心意気は脆くも崩れます。彼の号泣する姿を思うとき、私も涙せずにはおれません。人の弱さを深く思います。(KE)
3月25日
「しかし彼らは、わめきたてて『十字架につけよ、彼を十字架につけよ』と言いつづけた。」ルカ23:21
「過ぎ越しの祭り」を守るために、イエス様はエルサレムに来ました。このとき、主は弟子たちに命じてロバの子を引いてこさせ、それに乗ってエルサレムへ進まれたのです。多くの人々が沿道に出てきて、イエス様を喜びの声で神様を讃美して迎えました。しかし、人の心はまことに変わりやすいものです。総督ピラトの前で、同じ人々は憎しみとねたみとで、主を十字架に追いやりました。その姿は私たちにほかなりません。(KE)
3月24日
「たとい人は百人の子をもうけ、また命長く、そのよわいの日が多くても、その心が幸福に満足せず、また葬られることがなければ、わたしは言う、流産の子はその人にまさると。」伝道6:3
人の幸福は何によって計るか。これは大切なことです。「足るを知る」ことこそ、幸いなことではないでしょうか。それを計る尺度は自分の外側にあるのではありません。人生の終りにあたって心から満ち足りて、感謝しつつ終わることが出来ればこれに勝る幸いはありません。そのような生き方を今日も続けようではありませんか。(KE)
3月23日
「わが心のくずおれるとき、わたしは地のはてからあなたに呼ばわります。」詩篇61:2
自分の心の状態を見るとき、神様との距離があまりに隔たって近づきがたい思いがします。自分より清く、正しく生きる人々こそ、神様の近くにあると思われて失望しますが、どんなに遠く、地のはてのようであっても、神様を呼び求めなければおれません。神様は哀れみの尽きない方ですから耳を傾けてくださると信じるからです。「心のくずおれる」とき、すがるべき方はただ主のみです。(KE)
3月22日
「争いの初めは水がもれるのに似ている、それゆえ、けんかの起らないうちにそれをやめよ。」箴言17:14
家を灰にしてしまう火災も、初めは小さな火にすぎません。一息で吹き消せるようなものです。同様に、けんかやいさかいも始まりはごく些細なことですが、売り言葉に買い言葉、次第にエスカレートして収拾がつかなくなります。そうならないうちに、言いたい言葉を飲み込もうではありませんか。あなたが黙ってしまえばそれで消えてしまいます。相手を沈黙させることはできません。(KE)
3月21日
「愚かな者は心のうちに『神はない』と言う。彼らは腐れはて、憎むべき事をなし、善を行う者はない。」詩篇14:1
私たちも「神なし」と言わないまでも、気がつかないうちにそのような言動を取っているのではないでしょうか。神様を恐れる(または畏れる)ことはその人の生き方を決定する重要な要件です。「神はない」との前提で生きるなら、みことばのように腐敗と無秩序に陥るでしょう。神様がいらっしゃると信じるとき、人は人としての生き方がはじめてできるのです。あなたはどちらの生き方を選びますか。(KE)