自分のことであっても、将来についてはさっぱりわかりません。

「ああ深いかな、神の知恵と知識との富は。そのさばきは窮めがたく、その道は測りがたい。」ローマ11:33

神様の考え、ご計画、備えられた道など、私達は知り尽くすことができません。殊に、これからどうなるのか、自分のことであっても、将来についてはさっぱりわかりません。私達はすべて神様のみ手に導かれ、ご計画のうちに生きているのです。過ぎて来た人生を振り返ると、「なるほどこの為に」と理解できるのです。今、どうしてなのか分からなくても、神様の確かな愛の手を信じ、委ねましょう。(KE)

神様が共にいてくださる約束でもあります。

「『見よ、おとめがみごもって男の子を産むであろう。その名はインマヌエルと呼ばれるであろう』。これは、『神われらと共にいます』という意味である。」マタイ1:23

クリスマスおめでとうございます。御子イエス様がお生まれになったことを記念し、その恵みを味わう幸いなときです。御子が世にきてくださったことによって、私たちが神様に遠慮なく近づくことが出来るばかりか、神様が共にいてくださる約束でもあります。これはなんと大きな恵み、憐みでしょうか。神様の臨在と共に日々生きる喜びを体験してください。(KE)

人がどんなにうまく隠したところで神様の目から隠すことはできません。

12月24日

「主は暗い中に隠れていることを明るみに出し、心の中で企てられていることを、あらわにされるであろう。」第一コリント4:5b

人は表に現れた事象を見て、事を判断します。背後にある隠れたことを知ることができません。そういうものであることをまず自覚すべきです。しかし、神様は見えないところまで知り尽くしておられます。人がどんなにうまく隠したところで神様の目から隠すことはできません。しかも、隠れたことを白日のもとに現わされます。そのような方の前にいることを覚えておきましょう。(KE)

神様のために生きるものとなったのです。

12月23日

「そして、あなたのすることはすべて、言葉によるとわざによるとを問わず、いっさい主イエスの名によってなし、彼によって父なる神に感謝しなさい。」コロサイ3:17

イエス様によって救われた者たちは、もはや自分のために生きるのではなく、主のため、神様のために生きるものとなったのです。だから、私たちのする事、なす事、ことごとく主の名に相応しいものでなければ、救われた恵みを味わうことができません。自分の利益や名誉のためではなく、主の名に恥じない言葉であり、わざをしようではありませんか。(KE)

神様のみ心を知り、生活に生かす訓練、神様を敬う訓練をしましょう。

12月22日

「しかし、俗悪で愚にもつかない作り話は避けなさい。信心のために自分を訓練しなさい。」 第一テモテ4:7

聖書ほど矛盾や錯誤に満ちた書はありません。それだけに、細かく詮索すれば膨大な論争の種になりますが、それは「俗悪で愚にもつかない作り話」です。それよりも、聖書の言葉を単純に信じて、みことばが語る神様のみ心を知り、生活に生かす訓練、神様を敬う訓練をしましょう。説明できなくても、首尾一貫しなくても、信じて喜び、安心を得て、感謝が溢れるなら、それ以上の幸いはありません。(KE)

よみがえられた主が共におられることを実体験させてくださいます

12月21日

「キリストがわたしたちのために死なれたのは、さめていても眠っていても、わたしたちが主と共に生きるためである。」第一テサロニケ5:10

神様は罪人と共にいることが出来ないから、主は私たちの罪を贖う犠牲として十字架に死んでくださいました。それによって罪が許され、神様と共に生きるようにしてくださったのです。今は、聖霊は昼も夜も、どんなところにいても、よみがえられた主が共におられることを実体験させてくださいます。神様がともにいてくださるなんて、なんと幸いなことでしょうか。(KE)

人は弱いもので、神様を頼るように造られたからです。

12月20日

「神は、わたしたちをやみの力から救い出して、その愛する御子の支配下に移して下さった。」コロサイ1:13

人は弱いもので、何かにすがっていなければ立てません。それは神様を頼るように造られたからです。しかし、神様を離れて、別の力、「やみの力」に頼るようになり、命を失いました。神様は救い主イエス様を遣わして、「やみの力」から解放し、御子の支配下に置いてくださいました。誰に支配されているかによって、その人は変わります。悪魔の子とも、神の子ともなるのです。あなたはだれに支配されていますか。(KE)

神様と人との関係は本来愛に根ざしたものです。

「主はあわれみに富み、めぐみふかく、怒ること遅く、いつくしみ豊かでいらせられる。」詩篇103:8

神様はご自分の像に似たものとして人を造られました。ですから、神様と人との関係は本来愛に根ざしたものです。しかし、人は神様が厳格で峻厳な方であって、どんな酷いことをされるかわからないという、不信感が根深くあります。それは罪の結果です。確かに、そのような厳しさはありますが、それ以上に、愛にあふれたご性質です。本来の関係を回復させようと、神様はひとり子を世に遣わされたのですから。(KE)

神様の哀れみと恵みを盗んで自分の手柄にしないこと。

12月18日

「その言葉がなお王の口にあるうちに、天から声がくだって言った、『ネブカデネザル王よ、あなたに告げる。国はあなたを離れ去った』。」ダニエル4:31

バビロンの王、ネブカデネザルは王宮から栄華を極めたバビロンの都をながめて、自分の力と威光を誇った時、その言葉が終わらないうちに神様は王を不遇の境地に落とされました。まさに、驕るものは久しからず、神様の報いを受けます。それは過去の話ではなく、今でも変りません。神様の哀れみと恵みを盗んで自分の手柄にしないこと。謙るものを恵んでくださいます。(KE)

わたしたちも神様の手に握られた粘土にすぎません。

 

「陶器師の手に粘土があるように、あなたがたはわたしの手のうちにある。」エレミヤ18:6b

陶工の手にある粘土はこねられたり、つぶされたりします。まさに意のままです。実はわたしたちも神様の手に握られた粘土にすぎません。気に入らなければ即座に壊されてしまうでしょう。造られる器は陶工のすることに口をはさむ余地がまったくないのです。考えると怖い話ですが、私たちを握っておられる神様は愛なる方、けっして悪いことをなさいません。ひとり子を惜しまないほどにあなたを愛しているのですから。(KE)