彼女の心を開いて信じさせたのは神様のわざです。

「主は彼女の心を開いて、パウロの語ることに耳を傾けさせた。」使徒16:14b

パウロは第二回目の伝道旅行中にピリピの町に立ち寄りました。安息日に川のほとりにある「祈り場」で、ルデヤという婦人に出会います。婦人はパウロの話を聞いて、イエス様を信じ、家族共々バプテスマを受けました。ピリピの教会の出発点です。これはパウロの努力や話術による結果ではありません。彼女の心を開いて信じさせたのは神様のわざです。これは今も変りません。あなたがみことばを聞いて喜ぶのも、神様がなさっているのです。(KE)

私たちの心には「肉」の思いと「霊」の思いが常に衝突しています。

「肉の思いは死であるが、霊の思いは、いのちと平安とである。」ローマ8:6

聖書には「肉」という言葉がしばしば使われます。勿論、牛肉、豚肉などの「肉」ではありません。人間の自我性、神様を抜きにした世界、即物的な考えや価値観などを総称する言葉です。その反意語が「霊」です。霊は目に見えない神様を信じさせ、畏れ敬う心を育て、神様の知識を得させ、「肉」に打ち勝つ力を与えてくれます。私たちの心には「肉」の思いと「霊」の思いが常に衝突して、主導権を握ろうとしています。勝敗はあなたの選択と決断にかかっています。(KE)

よみがえられたイエス様がいつもどこにでも共にいてくださるのです。

「キリストがわたしたちのために死なれたのは、さめていても眠っていても、わたしたちが主と共に生きるためである。」第一テサロニケ5:10

イエス様は十字架にかかって、私たちの罪の犠牲となってくださいました。それによって神様との間にあった障害が取り除かれ、よみがえられたイエス様がいつもどこにでも共にいてくださるのです。主はわたしたちの目には見えませんが、すぐそばにおられます。たえず、そのことを自覚して生きようではありませんか。確かな手ごたえを感じるはずです。(KE)

真の神様は、「隠れたところ」にいらっしゃる方です。

12月27日

「こうして、人々が熱心に追い求めて捜しさえすれば、神を見いだせるようにして下さった。事実、神はわれわれひとりびとりから遠く離れておいでになるのではない。」使徒17:27

聖書を通して語られる真の神様は、「隠れたところ」にいらっしゃる方です。そのため、多くの人が神様を認めることが出来ないと言います。しかし、みことばのように、求めれば見いだすことが出来るのです。しかも、あなたのすぐそばにおられます。大切なのは、あなたの「求める心」です。(KE)

 

自分のことであっても、将来についてはさっぱりわかりません。

「ああ深いかな、神の知恵と知識との富は。そのさばきは窮めがたく、その道は測りがたい。」ローマ11:33

神様の考え、ご計画、備えられた道など、私達は知り尽くすことができません。殊に、これからどうなるのか、自分のことであっても、将来についてはさっぱりわかりません。私達はすべて神様のみ手に導かれ、ご計画のうちに生きているのです。過ぎて来た人生を振り返ると、「なるほどこの為に」と理解できるのです。今、どうしてなのか分からなくても、神様の確かな愛の手を信じ、委ねましょう。(KE)

神様が共にいてくださる約束でもあります。

「『見よ、おとめがみごもって男の子を産むであろう。その名はインマヌエルと呼ばれるであろう』。これは、『神われらと共にいます』という意味である。」マタイ1:23

クリスマスおめでとうございます。御子イエス様がお生まれになったことを記念し、その恵みを味わう幸いなときです。御子が世にきてくださったことによって、私たちが神様に遠慮なく近づくことが出来るばかりか、神様が共にいてくださる約束でもあります。これはなんと大きな恵み、憐みでしょうか。神様の臨在と共に日々生きる喜びを体験してください。(KE)

人がどんなにうまく隠したところで神様の目から隠すことはできません。

12月24日

「主は暗い中に隠れていることを明るみに出し、心の中で企てられていることを、あらわにされるであろう。」第一コリント4:5b

人は表に現れた事象を見て、事を判断します。背後にある隠れたことを知ることができません。そういうものであることをまず自覚すべきです。しかし、神様は見えないところまで知り尽くしておられます。人がどんなにうまく隠したところで神様の目から隠すことはできません。しかも、隠れたことを白日のもとに現わされます。そのような方の前にいることを覚えておきましょう。(KE)

神様のために生きるものとなったのです。

12月23日

「そして、あなたのすることはすべて、言葉によるとわざによるとを問わず、いっさい主イエスの名によってなし、彼によって父なる神に感謝しなさい。」コロサイ3:17

イエス様によって救われた者たちは、もはや自分のために生きるのではなく、主のため、神様のために生きるものとなったのです。だから、私たちのする事、なす事、ことごとく主の名に相応しいものでなければ、救われた恵みを味わうことができません。自分の利益や名誉のためではなく、主の名に恥じない言葉であり、わざをしようではありませんか。(KE)

神様のみ心を知り、生活に生かす訓練、神様を敬う訓練をしましょう。

12月22日

「しかし、俗悪で愚にもつかない作り話は避けなさい。信心のために自分を訓練しなさい。」 第一テモテ4:7

聖書ほど矛盾や錯誤に満ちた書はありません。それだけに、細かく詮索すれば膨大な論争の種になりますが、それは「俗悪で愚にもつかない作り話」です。それよりも、聖書の言葉を単純に信じて、みことばが語る神様のみ心を知り、生活に生かす訓練、神様を敬う訓練をしましょう。説明できなくても、首尾一貫しなくても、信じて喜び、安心を得て、感謝が溢れるなら、それ以上の幸いはありません。(KE)

よみがえられた主が共におられることを実体験させてくださいます

12月21日

「キリストがわたしたちのために死なれたのは、さめていても眠っていても、わたしたちが主と共に生きるためである。」第一テサロニケ5:10

神様は罪人と共にいることが出来ないから、主は私たちの罪を贖う犠牲として十字架に死んでくださいました。それによって罪が許され、神様と共に生きるようにしてくださったのです。今は、聖霊は昼も夜も、どんなところにいても、よみがえられた主が共におられることを実体験させてくださいます。神様がともにいてくださるなんて、なんと幸いなことでしょうか。(KE)