人は自分の栄誉、栄光を求めて、神様を拒んでしまったのです。

7月28日

「しかしわたしたちは、この宝を土の器の中に持っている。その測り知れない力は神のものであって、わたしたちから出たものでないことが、あらわれるためである。」第二コリント4:7

神様は人を含めてすべての創造物を通して、ご自分の栄光をあらわそうとされます。ところが、人は自分の栄誉、栄光を求めて、神様を拒んでしまったのです。その中から、あなたを選んで救われたのは、あなたを通して神様の栄光を明らかにするためです。だから、神様の力、わざとしか言い得ない事態や状況に置かれるのです。(KE)

何のため、誰のため、それをしようとしているか、それが大切です。

7月27日

「何をするにも、人に対してではなく、主に対してするように、心から働きなさい。」コロサイ3:23

どんなことにも、背後に動機が隠れています。事柄自体の良し悪しより、何のため、誰のため、それをしようとしているか、それが大切です。また、神様が問題にされるのもそのことです。自分の欲得のためであったり、人のためであったり、義理人情に操られたり、そうであるなら神様に喜ばれることはできません。イエス様のため、主のためにするとなると、そのわざは清いものとなり、主から報いを受けます。(KE)

落ち込んだ心を持ち上げてくださるのは神様です。

7月26日

「どうか、彼らが主のいつくしみと、人の子らになされたくすしきみわざとのために、主に感謝するように。」詩篇107:8

猛暑がつづいていると寒かった冬のことなど忘れています。気候変動はあっても、季節はまちがいなく移っていきます。これもまた主の恵みと言うほかありません。神様の確かな愛のみ手にありながら、それを忘れて、落胆し、無気力になり、スランプに落ち込みます。落ち込んだ心を持ち上げてくださるのは神様です。心を主に向けるには、主の恵みを振り返り、感謝することです。この夏の恵みを味わってください。(KE)

神様を信じても、どこかで疑う思いが消えません。

7月25日

「彼はこの神、すなわち、死人を生かし、無から有を呼び出される神を信じたのである。」ローマ4:17b

これはアブラハムの信仰を語った言葉ですが、私たちにも信じる神様がどのような方であるか、はっきり示したものです。神様を信じても、どこかで疑う思いが消えません。神様より自分のほうが確かなように思ってしまうのです。そうである限り、心に確信がなく、信仰がゆれて、不安が続きます。アブラハムのように、神様にはできないことがない、全能者であると信じてしまうことが幸いです。(KE)

底岩のように不動のものは神様以外にありません。

7月24日

「神よ、わが心は定まりました。わが心は定まりました。わたしは歌い、かつほめたたえます。わが魂よ、さめよ。」 詩篇108:1

心が動揺して、落ち着かないときほど苦しいことはありません。「溺れるものは藁をもつかむ」のように、何とか安定を得ようとしますが、掴んだものが揺れ動いているので、どうしても安定しません。この世の何かによって、落ち着こうとしても不可能です。底岩のように不動のものは神様以外にありません。じたばたしないで、はやく神様に立ち返って、心を定めましょう。(KE)

いまなお問題や苦しみにあるとしても、まず、感謝しましょう。

7月23日

「主に感謝せよ、主は恵みふかく、そのいつくしみはとこしえに絶えることがない。」詩篇118:1

今日は主の日、聖なる日です。一週間の旅路が終り、また新しい旅が始まります。その終りと始まりに神様へ感謝讃美を奉げることはまことに幸いなことです。過ぎてきた日々も、いろんなことがありましたが、神様の慈愛に満たされ、守られてきました。いまなお問題や苦しみにあるとしても、まず、感謝しましょう。また、これから世に遣わされる日々を、主の恵みに期待しつつ、信仰をもって踏み出そうではありませんか。(KE)

私たちもその命に生かされて生きるものとなりました。

7月22日

「いつもイエスの死をこの身に負うている。それはまた、イエスのいのちが、この身に現れるためである。」第二コリント4:10

イエス様の十字架は「死」と「いのち」の交差点です。主は私達の罪を負うてくださって、神様の刑罰を受けてくださいました。その結果が「死」です。言うならば私たちが死んだのです。後に、主は墓からよみがえって、新しい命の始まりとなりました。私たちもその命に生かされて生きるものとなりました。日々、キリストの死と一体化して、自分に死んで、よみがえりの命を頂き、生きる者となってください。(KE)

御霊は全ての人に与えられる力です。

7月21日

「すなわち、謙遜の限りをつくし、涙を流し、ユダヤ人の陰謀によってわたしの身に及んだ数々の試練の中にあって、主に仕えてきた。」使徒20:19

使徒パウロの生き様を語った言葉ですが、「主に仕えてきた」に注目してください。イエス様の救いを受けることは、イエス様に仕える者となることです。と言われても、どうやって見えない方に仕えるのかと思われます。それは聖霊、神の霊に導かれ、従うことです。御霊は全ての人に与えられる力です。聖霊を信じて、心に促される導きに謙遜に従うとき、自分にない力を体験します。(KE)

「見て」「手で触り」「味わう」など、実体験にまさるものはありません。

7月20日

「ピリポは彼に言った、『きて見なさい』。」ヨハネ1:46b

ピリポはイエス様に会って、大喜びをしましたが、ナタナエルはナザレから立派な人物など出るはずがないと主張しました。何とかイエス様を伝えたいと願い、ピリポが言った言葉です。「きて見なさい」。「百聞は一見にしかず」といわれるように、言葉巧みに説明を尽くしても、ものの実相は伝わりません。まさに「見て」「手で触り」「味わう」など、実体験にまさるものはありません。イエス様も、万巻の書より、みことばを信じて体験して悟ることが大切です。(KE)

苦しみや悩みがなくなるわけではありません。むしろ、多くなることもあります。

7月19日

「あなたがたをキリストにある永遠の栄光に招き入れて下さったあふるる恵みの神は、しばらくの苦しみの後、あなたがたをいやし、強め、力づけ、不動のものとして下さるであろう。」第一ペテロ5:10

イエス様に救われたからと言って、苦しみや悩みがなくなるわけではありません。むしろ、多くなることもあります。しかし、それらの苦しみ悩みは、イエス様の救いによって、私たちを損なうためのものではなく、私達の益のため、「いやし、強め、力づけ、不動」にするためのものです。しかも、それは「しばらく」の期間です。(KE)