人は弱いもので、神様を頼るように造られたからです。

12月20日

「神は、わたしたちをやみの力から救い出して、その愛する御子の支配下に移して下さった。」コロサイ1:13

人は弱いもので、何かにすがっていなければ立てません。それは神様を頼るように造られたからです。しかし、神様を離れて、別の力、「やみの力」に頼るようになり、命を失いました。神様は救い主イエス様を遣わして、「やみの力」から解放し、御子の支配下に置いてくださいました。誰に支配されているかによって、その人は変わります。悪魔の子とも、神の子ともなるのです。あなたはだれに支配されていますか。(KE)

神様と人との関係は本来愛に根ざしたものです。

「主はあわれみに富み、めぐみふかく、怒ること遅く、いつくしみ豊かでいらせられる。」詩篇103:8

神様はご自分の像に似たものとして人を造られました。ですから、神様と人との関係は本来愛に根ざしたものです。しかし、人は神様が厳格で峻厳な方であって、どんな酷いことをされるかわからないという、不信感が根深くあります。それは罪の結果です。確かに、そのような厳しさはありますが、それ以上に、愛にあふれたご性質です。本来の関係を回復させようと、神様はひとり子を世に遣わされたのですから。(KE)

神様の哀れみと恵みを盗んで自分の手柄にしないこと。

12月18日

「その言葉がなお王の口にあるうちに、天から声がくだって言った、『ネブカデネザル王よ、あなたに告げる。国はあなたを離れ去った』。」ダニエル4:31

バビロンの王、ネブカデネザルは王宮から栄華を極めたバビロンの都をながめて、自分の力と威光を誇った時、その言葉が終わらないうちに神様は王を不遇の境地に落とされました。まさに、驕るものは久しからず、神様の報いを受けます。それは過去の話ではなく、今でも変りません。神様の哀れみと恵みを盗んで自分の手柄にしないこと。謙るものを恵んでくださいます。(KE)

わたしたちも神様の手に握られた粘土にすぎません。

 

「陶器師の手に粘土があるように、あなたがたはわたしの手のうちにある。」エレミヤ18:6b

陶工の手にある粘土はこねられたり、つぶされたりします。まさに意のままです。実はわたしたちも神様の手に握られた粘土にすぎません。気に入らなければ即座に壊されてしまうでしょう。造られる器は陶工のすることに口をはさむ余地がまったくないのです。考えると怖い話ですが、私たちを握っておられる神様は愛なる方、けっして悪いことをなさいません。ひとり子を惜しまないほどにあなたを愛しているのですから。(KE)

 

自分はまだ救われていないのではないかと焦る思いにかられます。

12月16日

「そして、あなたがたのうちに良いわざを始められたかたが、キリスト・イエスの日までにそれを完成して下さるにちがいないと、確信している。」ピリピ1:6

「良いわざ」とはイエス様による救いです。救いの道筋は完成していますが、それを具体化するには時間のずれがあります。そのため、自分はまだ救われていないのではないかと心配し、なんとかしなければと焦る思いにかられます。しかし、救いは神様のわざであり、人の努力や知恵は役に立ちません。ただ、主が取り扱われるままに身を任せて仕上げを待ち望むだけです。(KE)

みことばにあるような尊い者として生かされているのです

12月15日

「だから、あなたがたは、神に選ばれた者、聖なる、愛されている者であるから、あわれみの心、慈愛、謙そん、柔和、寛容を身に着けなさい。」コロサイ3:12

「宝の持ち腐れ」などと言います。それは持っている宝の真価を知らないで、ほかに宝があると思うことです。私たちも自分の恵まれた身分を忘れて、嘆いたり悲しんだりしているのではないでしょうか。みことばにあるような尊い者として生かされているのですから、大いに感謝し、喜んで、それにふさわしい品性・性情を求めましょう。(KE)

神様も私たちのために一方的に愛のわざをしてくださったのです。

12月14日

「しかし、わたしは、あなたの承諾なしには何もしたくない。あなたが強制されて良い行いをするのではなく、自発的にすることを願っている。」ピレモン14

神様は私たちがみこころに適って良いことをするのを願っていますが、それが強制されたり、義務的になされることを嫌われます。神様も私たちのために一方的に愛のわざをしてくださったのです。決して恩着せがましいことは言いません。私たちがそれを無視しても咎めません。ですから、なにごとでも、愛の応答としてなすわざを主に捧げようではありませんか。(KE)

「自分のこころのまま」を行うのか、それとも「みこころ」に従うのか

「わたしが天から下ってきたのは、自分のこころのままを行うためではなく、わたしをつかわされたかたのみこころを行うためである。」ヨハネ6:38

イエス様の生涯と私たちを比べる時、大きな違いは「自分のこころのまま」を行うのか、それとも「みこころ」に従うのか、このことです。イエス様は人としての正しい生き方の模範を示すために人の世にきてくださいました。人は神様から離れて、自分のこころのままに生きていた、また、そうしたいともがき苦しんでいたのです。キリストに倣う者となってください。(KE)

謙遜になって、悔改めて神様を信じるならもれなく救われるのです。

12月12日

「あなたのかたくなな、悔改めのない心のゆえに、あなたは、神の正しいさばきの現れる怒りの日のために神の怒りを、自分の身に積んでいるのである。」ローマ2:5

世間では「自業自得」と言いますが、イエス様による神様の救いも同じです。愛なる神様はすべての人が滅びから救われる道を開いてくださいました。ただ、多くの人々はそれを認めず、自分を義人と称して、永遠の滅びへと落ちているのです。謙遜になって、悔改めて神様を信じるならもれなく救われるのです。救いはひとえにあなたにかかっています。(KE)

「自分のこころのまま」を行うのか、それとも「みこころ」に従うのか

12月11日

「わたしが天から下ってきたのは、自分のこころのままを行うためではなく、わたしをつかわされたかたのみこころを行うためである。」ヨハネ6:38

イエス様の生涯と私たちを比べる時、大きな違いは「自分のこころのまま」を行うのか、それとも「みこころ」に従うのか、このことです。イエス様は人としての正しい生き方の模範を示すために人の世にきてくださいました。人は神様から離れて、自分のこころのままに生きていた、また、そうしたいともがき苦しんでいたのです。キリストに倣う者となってください。(KE)