準備したものはなにひとつ役に立たないことが多々あります。

5月12日

「神はわれらの避け所また力である。悩める時のいと近き助けである。」詩篇46:1

人はいざという時のため、いろいろな手立てを考え、準備します。しかし、実際に事が起ると、準備したものはなにひとつ役に立たないことが多々あります。それは人が心を忘れて、物質的な方策に頼るからです。軍備、医療、経済、人脈など、周到に用意しても、それを用いる人の心が動揺し、くじけてしまうなら、それらは無用の長物です。まず大切なのは何があっても揺るがない、不動の心を得ることです。そのためには神様を信頼するほかありません。(KE)

自分が踏み出すとき、あなたは平和を創る者となります。

5月11日

悪に負けてはいけない。かえって、善をもって悪に勝ちなさい。」ローマ12:21

国家間の争いにしろ、個人同士の争いにしろ、非難の応酬がエスカレートした結果です。相手の非をあげつらう限り、平和は得られません。向けられた非難中傷悪意に対して、どんなに小さくても、「善」をもって応えるとき、事態は大きく変ります。その一歩を相手に求めるのではなく、自分が踏み出すとき、あなたは平和を創る者となります。まず、身近な家族、友人のなかに、平和を創ってみませんか。神様はそれを喜び、報いてくださいます。(KE)

繰り返すことの出来ない「時」を生きています。

5月10日

「兄弟たちよ。わたしはすでに捕えたとは思っていない。ただこの一事を努めている。すなわち、後のものを忘れ、前のものに向かってからだを伸ばしつつ、…。」ピリピ3:13

時は川のように流れているといわれます。確かに、とどまることなく進んで行きます。私たちはその流れに持ち運ばれて、繰り返すことの出来ない「時」を生きています。しかし、人は過去を手繰り寄せて、今の時に亡霊の如く呼び戻そうとします。それはまことに無駄・無益なことです。「後のもの」をすっかり忘れて、前に向かって踏み出してください。(KE)

あなたは何を大切なこととして生きていますか。

5月9日

「そういうわけだから、肉体を宿としているにしても、それから離れているにしても、ただ主に喜ばれる者となるのが、心からの願いである。」第二コリント5:9

何を大切なこととして生きるかによって、人生は変ってきます。お金や友達であったり、家族であったり、仕事である人もいるでしょう。イエス様の救に入れられた者たちは、生と死にかかわらず「主に喜ばれる」ことを大切なこととして生きる者です。今日、ことばと行いを問わず、主に喜ばれる者となりましょう。(KE)

約束された恵みがどれほど貴重なものであるか、自覚していません

5月8日

「また、一杯の食のために長子の権利を売ったエサウのように、不品行な俗悪な者にならないようにしなさい。」ヘブル12:16

イサクの長子エサウは自分に約束された恵みがどれほど貴重なものであるか、自覚していません。そのため、空腹を満たすために、その権利を「煮豆」と引き換えて弟ヤコブに与えてしまったのです。やがて父イサクの晩年、祝福をうけることができませんでした。私たちも尊い十字架の贖いによって罪を赦され、神の国の世継ぎとされました。情欲に負けて、「長子の権利」を粗末にしないように気をつけてください。(KE)

まさに日々の生活の中を通して獲得していくものです。

5月7日

「わたしがすでにそれを得たとか、すでに完全な者になっているとか言うのではなく、ただ捕えようとして追い求めているのである。」ピリピ3:12a

信仰生活に卒業年限はありません。終身のものですから、つねに完成を追い求めているのです。目指すべきことは主イエス・キリストに似るものとなり、その身丈に達することです。しかも、それは沈思黙考、面壁九年なる瞑想によって得られるのではありません。まさに日々の生活の中で、様々な戦い、思い煩いなどを通して獲得していくものです。地上の命が終わる時まで、生涯求道者です。(KE)

神様の許しがなければどんなことも起らないというのです。

5月6日
「それだから、恐れることはない。あなたがたは多くのすずめよりも、まさった者である。」マタイ10:31

この言葉の前に、「父の許しがなければ、その一羽も地に落ちることはない」と言われています。神様の許しがなければどんなことも起らないというのです。神様を信じるとはまさにこのことです。人の知恵や力、計画や努力によって事が成り、事が持ち運ばれるのではありません。すべてが神様の支配の中にあって存在しているのです。しかも、私たちは他のどんな被造物よりも神様に深く愛されているのです。徹底して、神様の愛の御手に信頼しましょう。(KE)

不忠不義なものであることを認める。それがすべてのことの始まりです。

5月5日
「自分は真実だという人が多い、しかし、だれが忠信な人に会うであろうか。」箴言20:6

 人は自分に対して寛容であり、自信家ですから、自分ほど正しい、真実な者はいないと自惚れます。しかし、どんなに品行方正、欠けたところのない人であっても、神様の目からご覧になると、実に噴飯ものです。取るに足らない不足だらけの、不忠不義なものであることを認める。それがすべてのことの始まりです。そのような自覚のない人に会うと、人生の恵みを半分捨てているように思います。欠陥者を哀れんで赦し、恵んでくださる主の愛を感謝しつつ過ごしてください。(KE)

神様を信じるとは、神様のみこころに自分を沿わせることです

5月4日
「人はみな、自分のことを求めるだけで、キリスト・イエスのことは求めていない。」ピリピ2:21

 痛烈な一言です。私たちの思うこと、考えることなど、すべてが自分を中心にしたことであり、自分の願うこと、望み、計画などばかりです。そこには、自分を離れて「主は何を願っているか」を求める思いは少しもありません。神様を信じるとは、神様のみこころに自分を沿わせることです。どこまでも自分を押し立てるなら、信仰を捨てることになります。自分を捨てて、キリスト・イエスを求めようではありませんか。(KE)

この「救」は一方的な神様の恵みであり、賜物です。

5月3日
「あなたがたの救われたのは、実に、恵みにより、信仰によるのである。それは、あなたがた自身から出たものではなく、神の賜物である。」エペソ2:8

 イエス様を信じ、救われた者となって、日々、感謝しつつ喜んで生きる幸いを味わっていますが、この「救」は一方的な神様の恵みであり、賜物です。私たちは救われるために何もできず、ただ失われた、滅び行く者にすぎなかったのです。この救をどれほど感謝し、尊んでいるでしょうか。救を当然のことと思い、軽んじるなら、それを失うことになります。(KE)