7月8日
「わたしは、むかし年若かった時も、年老いた今も、正しい人が捨てられ、あるいはその子孫が食物を請いあるくのを見たことがない。」詩篇37:25
「正しい人」とは、神様に信頼し、御心にかなう者のことです。神様は今も生きておられる方、報いてくださる方です。信頼する者を裏切ることはありません。自分の力と努力で命を永らえようとする時、正しい道を歩むことが出来ませんが、主に信頼して、忠実に従う生涯は決して乏しいことなく、辱められることはありません。神様はご自分の民を守られるからです。(KE)
7月8日
「わたしは、むかし年若かった時も、年老いた今も、正しい人が捨てられ、あるいはその子孫が食物を請いあるくのを見たことがない。」詩篇37:25
「正しい人」とは、神様に信頼し、御心にかなう者のことです。神様は今も生きておられる方、報いてくださる方です。信頼する者を裏切ることはありません。自分の力と努力で命を永らえようとする時、正しい道を歩むことが出来ませんが、主に信頼して、忠実に従う生涯は決して乏しいことなく、辱められることはありません。神様はご自分の民を守られるからです。(KE)
7月7日
「だから、あなたの内なる光が暗くならないように注意しなさい。」ルカ11:35
心が明るくなるときはどんなときでしょうか。希望があるとき、優しさに出会うときなど、いろいろありますが、人生にあってはいつも明るくというわけにいきません。苦しみ、悩み、失望など、漆黒の闇に閉ざされるときがあります。しかし、そのような雲に覆われても、消えることのない光が輝いています。それが「まことの光」と言われるイエス様です。「まことの光」はみことばを通して注がれます。事情・境遇がどうあっても、この光は消えることがありません。(KE)
7月6日
「イエスは言われた、『石を取りのけなさい』。」ヨハネ11:39a
イエス様の親しいラザロは死んで墓に葬られました。主が来られたとき、四日も経って、家族のマルタ、マリヤは悲しみにくれていました。生きているうちにイエス様が居てくれたら、死ななかったに違いない。しかし、死んでしまったから、もはや何も出来ないと思いました。主は「石を取りのけなさい」と命じました。主は神でいらっしゃいます。しかも全能の神です。神様を信じるとは、神様はどんなことでも出来ますと信じることです。不信仰の「石」を取りのけましょう。(KE)
7月5日
「信仰の戦いをりっぱに戦いぬいて、永遠のいのちを獲得しなさい。」第一テモテ6:12a
信仰に生きる道は楽なようですが、そうとは言えません。「信仰の戦い」とあるように、まさに戦争です。日本にキリスト教が伝えられたとき迫害をうけました。そのような意味でも戦いですが、今はむしろ真の意味での「信仰の戦い」があります。それは自分の内にあるもの、自我、自己中心性などとの戦いであり、この世のさまざまな勢力との戦いです。神様から力を与えられて、自分に勝ち、世に勝つ者となりましょう。(KE)
7月4日
「良い地に落ちたのは、御言を聞いたのち、これを正しい良い心でしっかりと守り、耐え忍んで実を結ぶに至る人たちのことである。」ルカ8:15
イエス様の「種まきのたとえ」の一節です。「種は神の言(ことば)」です。種は畑の土に埋められ、根をのばし、芽を出し、成長します。私たちの心は畑ですが、耕され、良い地にならなければ、まかれた種は成長しません。また、種が実を結ぶまで、どんなことがあっても耐え忍ぶ事が必要です。聖書の言は命が秘められているから、言葉をしっかり守って結果を待ちましょう。(KE)
7月3日
「すべてのことを、つぶやかず疑わないでしなさい。」ピリピ2:14
周囲の人の目には自信たっぷりに見えても、自分のしていることに自信がもてないことがしばしばあります。これでいいのだろうかと疑いつつやっています。その原因は知恵、知識、能力、経験など、自信になるものがないからです。それらに秀でている人でも、決して自信に溢れているわけではありません。自信をもって生きるには、「自分がしている」のではなく、神様が「させておられる」と信じることです。(KE)
7月2日
「そして、彼がすべての人のために死んだのは、生きている者がもはや自分のためにではなく、自分のために死んでよみがえったかたのために、生きるためである。」第二コリント5:15
この言葉はイエス様の救いが何であるかを語ったものです。イエス様を信じる時、自分の生きる目的が変ります。十字架の死によって自分の過去が抹殺され、主のよみがえりの命に生きる生涯となります。私達はキリストのために生き、キリストのものとなり、キリストのために死ぬのです。あなたの人生はキリストのものとなっていますか。(KE)
7月1日
「他人の僕をさばくあなたは、いったい、何者であるか。彼が立つのも倒れるのも、その主人によるのである。しかし、彼は立つようになる。主は彼を立たせることができるからである。」ローマ14:4
私達は他人のことが気になる性分のようです。他人の一挙手一投足、言葉の端々まであれこれ口をはさんで争いになるのです。私達は神様のもとにある「僕」にすぎません。お互いしもべですから、私たちの所作言動を裁かれるのは、主人である神様です。他人のことよりもあなた自身がどうであるか神様は問われます。(KE)
6月30日
「見よ、わたしは新しい事をなす。やがてそれは起る、あなたがたはそれを知らないのか。わたしは荒野に道を設け、さばくに川を流れさせる。」イザヤ43:19
神様はすべてのものの根源です。私たちの生活も人の知恵やわざによらず、神様の力、知恵、わざによるものです。毎日、神様は私たちのために新しいことを始めてくださいます。時には、願わないこと、いやな事であるかもしれませんが、それらの背後に隠された神様の意図、摂理が必ずあります。人の想像、知識を超えた神様のわざに期待しましょう。(KE)
6月29日
「わたしはみ言葉を与えられて、それを食べました。み言葉は、わたしに喜びとなり、心の楽しみとなりました。万軍の神、主よ、わたしは、あなたの名をもってとなえられている者です。」エレミヤ15:16
神様の言葉は鑑賞したり、批評し、研究するためではなく、「食べる」ためのものです。食べたものは岨嚼され、形はなくなり、分解されて吸収されます。それが血となり肉となり、エネルギーを生み出すのです。同様に、「み言葉」を自分自身に取り込み、生活の力とするとき、喜び、楽しみが生まれてきます。(KE)