7月4日
「地と、それに満ちるもの、世界と、そのなかに住む者とは主のものである。」詩篇24:1
人は勝手に自分のものだと決めていますが、全ての創られたものは創造者である神様のものです。私たちの体も、健康も、家族も、仕事も、すべて主のもので、私たちに使用権が付与されているだけです。だから、所有者の意向に従って用いなければならないばかりか、誰のものであるかを常にあきらかにしておくべきです。それを忘れて、まるで自分の所有物であるかのように扱うことが、神様に対する罪の一つです。(KE)
7月4日
「地と、それに満ちるもの、世界と、そのなかに住む者とは主のものである。」詩篇24:1
人は勝手に自分のものだと決めていますが、全ての創られたものは創造者である神様のものです。私たちの体も、健康も、家族も、仕事も、すべて主のもので、私たちに使用権が付与されているだけです。だから、所有者の意向に従って用いなければならないばかりか、誰のものであるかを常にあきらかにしておくべきです。それを忘れて、まるで自分の所有物であるかのように扱うことが、神様に対する罪の一つです。(KE)
7月3日
「主は、わたしたちの罪過のために死に渡され、わたしたちが義とされるために、よみがえらされたのである。」ローマ4:25
イエス様の死とよみがえりは、私たちにとって信仰の原点です。神様のひとり子であるイエス様が罪人である私のために、神様からの刑罰を受けてくださった。それによって、私たちの罪は完全に赦されました。さらに進んで、神様はイエス様を死からよみがえらせて、私たちの命として与えてくださったのです。今日も、その命に生きているものであることを自覚し、感謝しようではありませんか。(KE)
7月2日
「あなたは善にして善を行われます。あなたの定めをわたしに教えてください。」詩篇119:68
神様は「善」だと言われています。新約では神様を「愛」と呼びます。いずれにしても、神様は私たちによきことをなそうとされる、心の温かい、情愛に溢れた方です。ところが、人はそれを信じようとしないで、人の優しさや、情け深さに期待して、裏切られ、失望します。期待すべき相手を間違えているのですから、自業自得です。信頼すべき方は神様だけです。また、神様は常に「善」をあなたに図っておられます。(KE)
7月1日
「わが思いは、あなたがたの思いとは異なり、わが道は、あなたがたの道とは異なっていると主は言われる。天が地よりも高いように、わが道は、あなたがたの道よりも高く、わが思いは、あなたがたの思いよりも高い。」イザヤ55:8-9
神様が思い計られることと、人が計画することはまったく違います。自分の人生だと思って、計画通りに事を運ぼうとしますが、そうはなりません。実は、神様が導かれるものです。神様は思いがけない、想像すらしないことをおこなわれます。今日も、神様の知恵とわざに導かれましょう。(KE)
6月30日
「モーセは死んだ時、百二十歳であったが、目はかすまず、気力は衰えていなかった。」申命記34:7
神様から大事業に召されたモーセはやがて使命をおわり、神様のもとに召されました。そのとき、約束の地カナンが目前にありましたが、彼はそこに渡ることができなかったのです。これは彼の事業ではなく、神様のみわざだからです。彼は老いさらばえて、見るも無残な老人となって亡くなったのではなく、まだ元気に満ち、溌剌としたままで召されました。それは神様の祝福であり、神様が引き上げられたゆえです。(KE)
6月29日
「しかしダビデはアビシャイに言った、『彼を殺してはならない。主が油を注がれた者に向かって、手をのべ、罪を得ない者があろうか』。」サムエル上26:9
ダビデにとって宿敵サウル王を討つ絶好の機会が巡ってきました。忠実な部下アビシャイは一突きで殺そうとしますが、ダビデは止めます。神様を畏れるからです。サウル王がどうあろうと神様が王として立てられた以上、神様が除かれるに違いない。これがダビデの信仰です。主を待たずに手っ取り早く事を済ませようとしやすい私たちです。そのとき、神様から離れます。(KE)
6月28日
「彼女は言った、『どうぞ、はしためにも、あなたの前に恵みを得させてください』。こうして、その女は去って食事し、その顔は、もはや悲しげではなくなった。」サムエル上1:18
エルカナの妻ハンナは子供がなく、肩身の狭い思いをしていました。そのため、切に祈っていました。ある年、神殿で祭司エリに打ち明け、執り成しの祈りをしてもらいました。それ以来、彼女は確信を与えられ、もはや憂いはなくなったのです。いつまでも憂えず、祈って信仰に堅く立って、身も心も新しくなろうではありませんか。(KE)
6月27日
「わたしは命と死および祝福とのろいをあなたの前に置いた。あなたは命を選ばなければならない。」申命記30:19bc
神様の救のみわざはイエス様の十字架によって完成しています。それに付け加えるものはなにもありません。ただ選択と決断が私たちに委ねられています。事の大小を問わず、すべてのことには「命と死」「祝福とのろい」のいずれかを選び、決断することです。神様が私たちを滅ぼされるのではなく、自分が死とのろいを選ぶからです。どうぞ命を選んでください。(KE)
6月26日
「モーセは言った、『行ってこの大きな見ものを見、なぜしばが燃えてしまわないかを知ろう』。」出エジプト3:3
モーセは羊の群れを飼っていたとき、神の山ホレブで柴が燃えているのを見ました。すぐに燃え尽きるはずのものが、なかなか消えないので、不思議に思って近づいたのです。それによって彼の人生が大転回します。私たちも神様の霊に満たされ、どんななかでも喜び、讃美、感謝していれば、多くの人がその秘密を知りたいと近づいてきます。それによって主に出会い、人生が変るのです。あなたが燃える柴となってください。(KE)
6月25日
「カインは弟アベルに立ちかかって、これを殺した。」創世記4:8b
人類最初の殺人事件です。下手人はカインであることがはっきりしています。ただその動機は不可解です。彼の言い分は神様がアベルの供え物を顧みられたからです。だからといって、アベルは殺されるほどの悪行をカインにしたのでしょうか。いいえ、なにもしていません。真の動機は神様の取り扱いに憤った結果、怒りの矛先が罪なきアベルに向かったのです。これが罪の実相です。私たちは神様のなさるわざに憤ることがなんと多いことでしょうか。(KE)