10月20日
「しかし、弟子たちがパウロを取り囲んでいる間に、彼は起きあがって町にはいって行った。」使徒14:20a
パウロがルステラの町で伝道しているとき、反対する者達が押しかけてきて、彼を石で打ち、町の外へ捨てました。弟子達が見守っていると、やわら起き上がり、また再び町に入っていくのです。なんと驚くべきパウロの信仰でしょうか。私たちは福音のゆえに少しでも痛い思いをすると、すぐに逃げ出します。まことに恥ずかしいかぎりです。パウロは弱いところに働くキリストの力が与えられたのです。(KE)
10月20日
「しかし、弟子たちがパウロを取り囲んでいる間に、彼は起きあがって町にはいって行った。」使徒14:20a
パウロがルステラの町で伝道しているとき、反対する者達が押しかけてきて、彼を石で打ち、町の外へ捨てました。弟子達が見守っていると、やわら起き上がり、また再び町に入っていくのです。なんと驚くべきパウロの信仰でしょうか。私たちは福音のゆえに少しでも痛い思いをすると、すぐに逃げ出します。まことに恥ずかしいかぎりです。パウロは弱いところに働くキリストの力が与えられたのです。(KE)
10月19日
「すると、二度目に天から声がかかってきた、『神がきよめたものを、清くないなどと言ってはならない』。」使徒11:9
ペテロが空腹で夢うつつになっているとき、生き物が入った布の入れ物が吊り下げられ、これらを食べなさいと声が聞こえました。彼は律法に立って、それを拒みました。しかし、神様が「よし」と言われることを「それはだめです」と言い逆らうなど許されません。案外、私たちも同じことをしているのではないでしょうか。人の知識・知恵・考えで、神様のみこころを損なう事のないよう謙虚な心で従いましょう。(KE)
10月18日
「主なる神はこれらの骨にこう言われる、見よ、わたしはあなたがたのうちに息を入れて、あなたがたを生かす。」エゼキエル37:5
預言者エゼキエルは枯れた骨が満ちている谷へ導かれてきました。そのとき神様は骨に預言して語られたのです。すると四方から息が吹いて来て骨に筋ができ、肉が覆い、生きたものとなりました。これはまさに神様の息、聖霊に生かされる私たちの姿です。罪と咎とに死んでいた私たちは主の復活の力、御霊に満たされて今日も生きるものとされています。(KE)
10月17日
「信仰によって、彼は王の憤りをも恐れず、エジプトを立ち去った。彼は、見えないかたを見ているようにして、忍びとおした。」ヘブル11:27
モーセはパロ王様の子として成長しましたが、自分の出生の秘密を知り、王宮を出て神の民と共に生きる道を選んだのです。その結果神様は彼の信仰にこたえて、神様の臨在を鮮やかに示し、彼もまた神様をまるで目の前に見ているごとく神様と共に生きたのです。今日もあなたと共にいてくださる見えない方を心の目に見つつ耐え忍び勝利を得てください。(KE)
10月16日
「こういうわけだから、わたしたちは聞かされていることを、いっそう強く心に留めねばならない。そうでないと、おし流されてしまう。」ヘブル2:1
信仰に立って生きようとするとき、それを阻もうとするサタンの力が強力に働きます。信仰は福音を聞くことから始まりますが、聞いたことをしっかり心にとどめて信じ続けなければ簡単に失われます。現実の事情や境遇、人の言葉、世間の習慣、心に忍び込む不信、自我の抵抗などが怒涛の如く押し寄せて、私たちを神様から引き離そうとします。ご用心ください。(KE)
10月15日
「最後に言う。主にあって、その偉大な力によって、強くなりなさい。」エペソ6:10
「強くなる」ことは、すべての人の願いです。そのために体力だけではなく、様々な「力」、経済力、政治力、知力など、「力」と名のつくものを少しでも多く得ようとします。しかし、それらはすべて肉の力であって人を生かす力ではありません。真の力は神様から与えられます。神様は全能者であり、力の根源です。自分の無能無力を認めて、へりくだり求める者に惜しみなく、与えてくださいます。今日も神様の力に満たされ生きてください。(KE)
10月14日
「見よ、わたしはまことに卑しい者です、なんとあなたに答えましょうか。ただ手を口に当てるのみです。」ヨブ40:4
不幸な目に会ったヨブはそのわけが分らず悶々と悩んでいました。やがて神様はヨブに声をかけ、彼に無知な者であることを知らせるため質問攻めにしました。ヨブは何ひとつ答えることが出来ず、「手を口に当てる」以外にありません。神様の絶大な力の前に出る時、祭司ザカリヤのように人は言葉を失います。黙するのみです。つぶやいたり、不平不満を言っているときはまだ余裕があるのではないでしょうか。(KE)
10月13日
「主に喜ばれるものがなんであるかを、わきまえ知りなさい。」 エペソ5:10
イエス様の救いは私たちを神様の家族にしてくださったことです。「アバ、父よ」と呼ぶ御子の霊を与えて、私たちを神の子としておられます。父は子供たちが喜び楽しんでいることを願いますし、子供たちは父が何を喜ぶだろうかと思います。そこに親子の交わりが生まれます。自分を喜ばせることばかりを求めるのではなく、父なる神様を喜ばせることを務めようではありませんか。それが子としての役目です。(KE)
10月12日
「そこで、高慢にならないように、わたしの肉体に一つのとげが与えられた。それは、高慢にならないように、わたしを打つサタンの使なのである。」第二コリント12:7
これさえなければというものを人は必ずもっています。聖徒パウロもそうでした。それはサタンのわざのように見えますが、その背後に神様のみこころがあるのです。そのことによって私たちが謙遜になるためです。それがなかったら、高慢になって罪を犯すことを神様はご存知なのです。その「とげ」のゆえに守られていることを感謝しましょう。(KE)
10月11日
「しかし、すべて競技をする者は、何ごとにも節制をする。彼らは朽ちる冠を得るためにそうするが、わたしたちは朽ちない冠を得るためにそうするのである。」第一コリント9:25
オリンピック選手やその他の運動選手は、それぞれの競技で賞を得ようと日々訓練を怠りません。その努力は涙ぐましいものです。自分の好きなこと、食べることや遊ぶことも止めて、栄冠を得ることに努めます。しかし、それは次の世代に取って代わられるものです。私たちの目指すべきは永遠の命の冠です。目標をしっかり見据えて励み努めましょう。(KE)