11月8日
「おのれを低くして、死に至るまで、しかも十字架の死に至るまで従順であられた。」ピリピ2:8
人は自分より強い者には卑屈なまでに従順になり、弱い者には高慢不遜になりやすいものです。そのために、行動や存在が不安定になり、根ざすところの無い浮き草のようです。イエス様は本来人のあるべき姿です。絶対不動の神様に徹底して従うことを努めるのです。たとえそれが死の道であっても、神様のみこころに服従するとき、神様もまたそれに応答してくださいます。主に倣う者となってください。(KE)
11月8日
「おのれを低くして、死に至るまで、しかも十字架の死に至るまで従順であられた。」ピリピ2:8
人は自分より強い者には卑屈なまでに従順になり、弱い者には高慢不遜になりやすいものです。そのために、行動や存在が不安定になり、根ざすところの無い浮き草のようです。イエス様は本来人のあるべき姿です。絶対不動の神様に徹底して従うことを努めるのです。たとえそれが死の道であっても、神様のみこころに服従するとき、神様もまたそれに応答してくださいます。主に倣う者となってください。(KE)
11月7日
「わたしたちの戦いは、血肉に対するものではなく、もろもろの支配と、権威と、やみの世の主権者、また天上にいる悪の霊に対する戦いである。」エペソ6:12
信仰生活はある意味で戦いの連続です。神様を知らなかったら有りえない戦いです。神様に敵対する力は私たちのうちにあるもので、外側の境遇などではありません。私たちを不安に落としいれ、怒りに駆り立て、恐れを抱かせて、失望落胆させ、絶望的な死へ追いやる力、これがサタンの姿です。自分のなかに働く悪の力に打ち勝つには十字架による以外にありません。(KE)
11月6日
「だから、植える者も水をそそぐ者も、ともに取るに足りない。大事なのは、成長させて下さる神のみである。」第一コリント3:7
人はどんなに小さなことでも、自分の手柄、誇りにしようとしますが、考えると自分は有っても無くてもいいもの、取って代わる者はいくらでもいます。しかし、神様に代わる者はなく、また神様がいらっしゃらなければ何ひとつことは起らないし、ありえません。だからこそ、すべての栄光を主に帰すこと、これが私たちのすべきことであって、誇るものは何もありません。(KE)
11月5日
「神は、神を愛する者たち、すなわち、ご計画に従って召された者たちと共に働いて、万事を益となるようにして下さることを、わたしたちは知っている。」ローマ8:28
神様は救いを信じる者たちと共に生きてくださって、人生の隅々まで干渉しておられます。私達は無知蒙昧であっても、神様は全知全能な方、これ以外にないと言えることを備え導いてくださいます。ですから、失望したり落胆したりしないでください。失敗を成功に、悲しみを喜びに、つぶやきを感謝に、対立を和解へ変えてくださいます。(KE)
11月4日
「神の御旨を行って約束のものを受けるため、あなたがたに必要なのは、忍耐である。」ヘブル10:36
私達は「信仰」とよく言いますが、それはまた「忍耐」と言い換えることが出来ます。ただ、一般的な「忍耐」は、どうなるかわからないが、ほかに方法や手段がないから、ただ我慢することです。しかし、ここで言われる「忍耐」は神様の約束、み言葉を信じて、その結果を楽しみつつ待つことです。だから、信仰に生きるとき、お先真っ暗ではなく、お先はばら色、よろこびです。大いに期待しつつ待ち望みましょう。(KE)
11月2日
「弟子たちは皆イエスを見捨てて逃げ去った。」マルコ14:50
ゲッセマネの園で祈られたのち、イエス様は祭司長や律法学者らの手に捕らえられました。そのとき弟子達は皆逃げ去って、だれもいませんでした。あれほど慕っていた弟子達ですが、自分の身に害が及ぶことを恐れて、義理も人情もすべて吹っ飛んでしまったのです。しかし、私は彼らの弱さを非難できません。私も彼らの仲間です。どんな境遇・事態のなかでもたえず主のそばに留まる力と勇気を与えてくださるようにと祈るばかりです。(KE)
11月1日
「またあなたがたの頭の毛までも、みな数えられている。」マタイ10:30
野鳥を観察する人たちは餌場に集まる鳥をすばやく数えます。しかし、彼らでも自分の頭髪が何本あるのか知らないでしょう。神様はそれを数えていると言うのですから、なんだか恐ろしい気がします。この言葉に続いて、「それだから、恐れることはない」とあります。確かに神様はすべてお見通しですから、安心だとも言えます。知られているのが怖いと感じるか、それとも安心だと思うのか、これは神様への信頼のバロメーターです。(KE)
10月31日
「わたしはみ言葉を与えられて、それを食べました。み言葉は、わたしに喜びとなり、心の楽しみとなりました。万軍の神、主よ、わたしは、あなたの名をもってとなえられている者です。」エレミヤ15:16
言葉を食べるとは奇妙な言い方ですが、本意は神様の言葉に自分をぴったりと合わせることです。聞いてやり過ごすのではなく、食物の如く、咀嚼し、飲み込み、自分の一部にするのです。体に入ったものは姿かたちがなくなってもエネルギーとなり、行動を生み出します。(KE)
10月30日
「主はわれらの神であり、われらはその牧の民、そのみ手の羊である。どうか、あなたがたは、きょう、そのみ声を聞くように。」詩篇95:7
羊を飼う習慣が日本にはありませんが、羊は飼う者がいなければ自分の力で生き延びることができないそうです。牙も、角も、爪も、速い足も、戦うためのものはなにもありません。ただ、羊飼いの導かれるままに従う事が命を保つ秘訣です。それは私たちと神様との関係でもあります。神様に守られ養われる羊であることを自覚して、心の耳をひらき、その声を聞き、従いましょう。(KE)
10月29日
「地と、それに満ちるもの、世界と、そのなかに住む者とは主のものである。」詩篇24:1
人は神様に造られ、神様の所有でした。ところが、神様の位を奪い、自分を神とするようになり、人は神様のものを盗み取ったのです。その結果、世界は暗黒に覆われ、無秩序と混沌がはびこり、情欲によって穢されたものとなりました。神様は失われたものを取りもどすためイエス様を世に遣わしてくださいました。すべてのものを「主のもの」とするためです。イエス様の命を代価に買われたあなたは神様のものです。(KE)