神様は私たちの必要をすべてご存じです。

6月4日

「わたしたちは、何ひとつ持たないでこの世にきた。また、何ひとつ持たないでこの世を去って行く。」第一テモテ6:7

人は裸でこの世に生まれました。また、何ひとつ持たないで世を去ります。地上に生きている間だけ、衣食住が必要ですが、それとてもわが身一つを養うに十分ならば、それ以上は不要です。この世に置いてくださった神様は私たちの必要をすべてご存じです。時に応じて、必要なものを、必要な時に、必要なだけ供給してくださいます。今日の一日、主が備えられたものを感謝して、喜び楽しもうではありませんか。(KE)

あなたも主が喜ばれることがなんであるか知っているはずです

6月3日

「主に喜ばれるものがなんであるかを、わきまえ知りなさい。」エペソ5:10

家族や友達が喜ぶことをしてあげることは、自分にとっても嬉しいことです。しかし、どういうわけか人は天邪鬼で、喜ぶことを知っていながら、嫌われるようなことをやってしまいます。ましてや、神様に対しても同じ態度をとりやすいのです。あなたも主が喜ばれることがなんであるか知っているはずですが、それを素直に行えないでいます。祈りつつ、神様の力を頂いて、まず主に喜ばれることを知り、実行しようではありませんか。(KE)

人が造られた目的はただ一つ、神様の「栄光のために」です。

6月2日

「だから、飲むにも食べるにも、また何事をするにも、すべて神の栄光のためにすべきである。」第一コリント10:31

人が造られた目的はただ一つ、神様の「栄光のために」です。生まれてから死ぬまで、人の一生は神様の壮大な作品です。絵画や彫刻など芸術作品がそれを通して製作者の誉れと名誉を高めるのと同様に、私たちの全生涯をとおして、神様は栄光を受けようと願っています。そのために、今日の一日があり、生かされているのです。日常生活の隅から隅まで、神様の意図が行き渡るように生きてください。(KE)

人が自分を神としているからにほかなりません。

6月1日

「それだから、恐れることはない。あなたがたは多くのすずめよりも、まさった者である。」マタイ10:31

人は自らを「万物の霊長」と称します。確かに神様はそのように創って下さったのですが、実体はその名称にふさわしいものでしょうか。いつも何かを恐れ、苛立ち、不平不満のなかで、つぶやきながら、惨めな生き方をしています。その原因は創造者である神様を忘れ、人が自分を神としているからにほかなりません。神様はすべての被造物の中で人を「まさった者」としてくださいました。尊く創られた誇りを持とうではありませんか。(KE)

あなたを助ける方は神様以外にないのです。

5月31日

「そのとき、弟子たちは皆イエスを見捨てて逃げ去った。」マタイ26:56b

イエス様は捕らわれ、大祭司カヤパの屋敷へ連れて行かれましたが、弟子たちは皆逃げてしまい、イエス様だけになりました。しかし、イエス様はそのことを嘆かず、それどころか意に介しません。弟子たちに囲まれようと、群衆に賞賛されようと、常にイエス様は一人であり、父なる神様との交わりだけを頼みとしていました。どんなに親しい友であれ、家族であれ、結局はあなたから「去って」いくものです。あなたを助ける方は神様以外にないのです。(KE)

神様に仕え、わたしたちのためにとりなしをしてくださるためです

5月30日

「さて、わたしたちには、もろもろの天をとおって行かれた大祭司なる神の子イエスがいますのであるから、わたしたちの告白する信仰をかたく守ろうではないか。」ヘブル4:14

イエス様はよみがえられたのち、天にかえられました。それは私たちの「主」となり、祭司として父なる神様に仕え、わたしたちのためにとりなしをしてくださるためです。主は「もろもろの天」、すなわち裏切られ、捨てられ、十字架上での霊肉の苦しみを受け、死の闇などを通って天に凱旋しました。今日も、この主が大祭司となり、あなたの祈りを取次いでくださいます。(KE)

聖霊によって、心の目が開かれ、見えないものが見える者となって

5月29日

「するとたちどころに、サウロの目から、うろこのようなものが落ちて、元どおり見えるようになった。」使徒9:18a

クリスチャンを迫害したサウロ(のちのパウロ)はダマスコへの途中で、甦られたイエス様に出会い、人生が180度変りました。そのとき、彼は一時的な失明を体験します。これはそれまで見ていた世界とは違った新しい世界へ入ったことを証しした事態です。「目からうろこ」とはこのことです。聖霊によって、心の目が開かれ、見えないものが見える者となって、パウロのように主に仕える生涯を全うしましょう。(KE)

人はとかく他者に厳しく、自分に甘くなりがちです。

5月28日

「彼らが問い続けるので、イエスは身を起して彼らに言われた、『あなたがたの中で罪のない者が、まずこの女に石を投げつけるがよい』。」ヨハネ8:7

姦淫の現場で捕らえられた女の人をイエス様に訴えて来たときの言葉です。人の罪を糾弾するのは痛快なことで、私たちは「裁く」側に立とうとします。しかし、ここでイエス様は裁く者達に自分自身を吟味するように求めました。人はとかく他者に厳しく、自分に甘くなりがちです。私たちも、常に自分に向かって「罪のない者が投げつけるがよい」と語るべきです。あなたはいかがですか。(KE)

第一は先ず初めにあなたが事を始めることです。

5月27日

「人々にしてほしいと、あなたがたの望むことを、人々にもそのとおりにせよ。」ルカ6:31

イエス様が求められる行動基準です。第一は先ず初めにあなたが事を始めることです。相手の動きに対応しようとしますが、相手の動きがどうであれ、まずあなたが主導権をとって、するべきことをする。第二は「自分」を抜きにしてはならない。自分がしたくないことを人に要求してはなりません。また自分にされたら嫌なことを他者にしてはなりません。いずれにしても、相手の立場に自分を置くこと。これらを欠いた行動は偽善です。(KE)

私たちの信じるものはみ言葉だけです。

5月26日

「わたしは主を待ち望みます、わが魂は待ち望みます。そのみ言葉によって、わたしは望みをいだきます。」詩篇130:5

私たちの信仰は手でさわったり、目で見たり、耳で聞こえるようなものによって得られたものではありません。「待ち望む」とは信じることですが、私たちの信じるものはみ言葉だけです。聖書の言葉を通して伝えられる神様の約束、励まし、望み、諫言などを、神様からの語りかけと信じて生きるのが信仰です。み言葉を信じることが神様を信じることであり、み言葉によってのみ、力と命、望みが与えられます。(KE)