私達は創造者である神様に忠実であることを努めるのであって、事の大小に左右されません。

1月22日

「小事に忠実な人は、大事にも忠実である。そして、小事に不忠実な人は大事にも不忠実である。」ルカ16:10

「忠実」とは人のあり方の問題であって、他人との関係ではなく、自分自身の値打ちを測るものです。事の大小によって自分のありようが変るとするなら、自分の値打ちが「事」によって計られているといえます。私達は創造者である神様に忠実であることを努めるのであって、事の大小に左右されません。ヨセフのごとく、どのような境遇にあっても、神様の前に忠実な歩みをしましょう。(KE)

課題を克服するために助けようとしない人をイエス様は指摘しています。

1月21日

「また、重い荷物をくくって人々の肩にのせるが、それを動かすために、自分では指一本も貸そうとはしない。」マタイ23:4

「~すべきだ」と、困難な課題を人に押し付けて、強要するが、その課題を克服するために助けようとしない人をイエス様は指摘しています。こういうことは介護問題などを考えるとよくわかります。「あるべき」「すべき」と、建前を押し付けることは簡単です。また、自分の出来ないことを他人に求める場合も当てはまります。お互い気をつけたいものです。(KE)

まずは自分を点検吟味することが大切です。

1月20日

「なぜ、兄弟の目にあるちりを見ながら、自分の目にある梁を認めないのか。」マタイ7:3

「梁」とは屋根を支える横に渡した太い柱のことです。そんなものが自分の目にあるのに、それを取り除けようとせず他人の目にある小さな「ちり」を指摘する。このようなことはよくあることです。世間でも「人のふり見て、わがふり直せ」と言います。まずは自分を点検吟味することが大切です。お節介も過ぎると厄介です。また、それは自分は正しいとする偽善でもあります。お互い気をつけたいものです。(KE)

 

ルツは神様を畏れ仕える道を選んだのです。

「あなたの民はわたしの民、あなたの神はわたしの神です。」 ルツ1:16c

ナオミには二人の息子がいて、それぞれに嫁を取りました。しかし、二人の息子は亡くなり、嫁とナオミだけになりました。ナオミの勧めによって一人の嫁は実家に戻りましたが、ルツだけはとどまりました。ルツはモアブ人でしたが、神の民の祝福を受けることを選びました。彼女の選択と決断によってキリストの系図にまで名を残す者となりました。ルツは神様を畏れ仕える道を選んだのです。あなたは何を選ぼうとしていますか。(KE)

絶望的と思える状況でも、神様は出来ないことのない方

1月18日

「主がエリヤによって言われた言葉のように、かめの粉は尽きず、びんの油は絶えなかった。」列王紀上17:16

預言者エリヤのとき、数年間雨が降らず、飢饉に見舞われました。神様は預言者エリヤをケリテ川のほとりで、カラスによって食料を備えて守ってくださいました。川の水が尽きると、ザレパテの婦人のもとへ遣って、その家族によって養ったのです。絶望的と思える状況でも、神様は出来ないことのない方、不思議な道を開かれます。神様は信頼する者たちを決して見放すことはありません。(KE)

彼の罪は、神様の主権を犯したことです。

1月17日

「ダビデはナタンに言った、『わたしは主に罪をおかしました』。」サムエル記下12:13a

ダビデ王は神様を恐れ、深く信頼する信仰の人でした。しかし、国が安泰となり、彼の心にすきができて、罪を犯したのです。忠実な部下を殺し、その妻を奪いました。預言者ナタンに罪を指摘されたとき、彼は神様の前に罪を悔改めたのです。彼の罪は部下に酷いことをしたというよりも、神様の主権を犯したことです。私達は事柄や人を問題にしますが、大切なのは神様をどこに置いていたかということです。(KE)

神様は私たちが祈り求めることを喜んでくださいます。

1月16日

「ぶどう酒も濃い酒も飲んだのではありません。ただ主の前に心を注ぎ出していたのです。」サムエル記上1:15bc

ハンナには子供がいませんでした。そのため、肩身の狭い思いをしていました。なんとか子供が与えられるようにと、神様に祈り続けました。この日も神殿で祈っていたのです。祈りはまさに「心を注ぎ出す」ことです。神様は私たちが祈り求めることを喜んでくださいます。また、祈りに答えてくださいます。ただ、信じて心の思いをすべて打ち明けることです。中途半端はだめです。(KE)

神様から離れると、力が去ってしまうのです。

1月15日

「彼はろばの新しいあご骨一つを見つけたので、手を伸べて取り、それをもって一千人を打ち殺した。」士師15:15

大力サムソンの記事ですが、そもそも生まれながらに大力だったのではありません。このときも、「主の霊」が臨んで彼に力を注いでくれたのです。神様の力に満たされるとき、並外れた力を振るうことができました。神様から離れると、力が去ってしまうのです。デリラの誘惑に負けたとき、神様の力が抜けて、捕らえられました。私たちにも力がありません。サタンに勝つため、神様の力を求めましょう。(KE)

ただ神様の一方的な愛によるのです。

1月14日

「あなたはあなたの神、主の聖なる民である。あなたの神、主は地のおもてのすべての民のうちからあなたを選んで、自分の宝の民とされた。」 申命記7:6

神様は私たちを「聖なる」「宝の」民としたと言われます。なにゆえにこのような特段の恵みを受けるのでしょうか。私たちには認められるべき値打ちも、価値もありません。ただ神様の一方的な愛によるのです。愛するには理由や理屈はいりません。神様の愛もそうです。ただ、素直に愛されていることを信じるだけです。この愛に応えていこうではありませんか。(KE)

神様ご自身が昼夜を分かたず共に居られたのです。

1月13日

「主は彼らの前に行かれ、昼は雲の柱をもって彼らを導き、夜は火の柱をもって彼らを照し、昼も夜も彼らを進み行かせられた。」出エジプト13:21

エジプトでの奴隷の生涯から救い出された神の民は、荒野の旅路をたどりました。危険と困難の伴う苦しい旅路でしたが、奴隷の時代と全く違った恵みを受けました。神様ご自身が昼夜を分かたず共に居られたのです。雲や火の柱は神様の臨在(共にいますこと)をあかしするものです。そのように、主は今もあなたの先立ちとなり、後ろ盾となって、導いておられます。(KE)