4月17日
「いつもイエスの死をこの身に負うている。それはまた、イエスのいのちが、この身に現れるためである。」第二コリント4:10
死を打ち破って新しい命に生きるためには、イエス様と一緒に十字架に死ななければ甦ることができません。パウロは常に「キリストと共に十字架につけられた」と告白しました。それはキリストが自分を生かしておられるとの告白でもあります。私たちも、よみがえりの命に生かされるために、「イエスの死」に自分を重ねましょう。キリストの新しい命を体験できます。(KE)
4月17日
「いつもイエスの死をこの身に負うている。それはまた、イエスのいのちが、この身に現れるためである。」第二コリント4:10
死を打ち破って新しい命に生きるためには、イエス様と一緒に十字架に死ななければ甦ることができません。パウロは常に「キリストと共に十字架につけられた」と告白しました。それはキリストが自分を生かしておられるとの告白でもあります。私たちも、よみがえりの命に生かされるために、「イエスの死」に自分を重ねましょう。キリストの新しい命を体験できます。(KE)
4月16日
「もうここにはおられない。かねて言われたとおりに、よみがえられたのである。さあ、イエスが納められていた場所をごらんなさい。」マタイ28:6
イースター、おめでとうございます。主はよみがえられたのです。それは死の砦、墓を貫いてその先へ続く道を開いてくださったことです。死はすべてのものを飲み込む暗黒のブラックホールでなく、新しい命への入り口となったのです。蘇られたイエス様とともに生きるなら、体の死はもはや何の力もありません。死を超えた望みに生きてください。(KE)
4月15日
「あなたがたは弱った手を強くし、よろめくひざを健やかにせよ。」イザヤ35:3
「弱った手」、「よろめくひざ」とは祈りが途絶え信仰が萎えた様子を語った言葉です。昔、立って手を上げて祈りました。そのため疲れて手が下がり、ひざがよろめいたのです。今はそのような姿勢で祈ることはありません。しかし、信仰が弱って祈りが少なくなり、周囲の状況に振り回され、恐れたり不安になったりします。まさに手が弱り、ひざがよろめいたときです。そのようなとき、状況を変えることより信仰を新しくすることです。(KE)
4月14日
「わたしに呼び求めよ、そうすれば、わたしはあなたに答える。そしてあなたの知らない大きな隠されている事を、あなたに示す。」エレミヤ33:3
「求めよ」と言われる方はどなたでしょうか。力も知恵もない方であれば求めても役に立ちません。しかし、ここで言われる方は万物の創造者、全てのものの根源であり主である方です。こんな嬉しい話はありません。自分では手に負えない問題や事態に遭遇すると、つい人を頼ろうとします。それでは本当の解決になりません。遠慮せず、主を呼び求めようではありませんか。(KE)
4月13日
「あなたがたは、心を騒がせないがよい。神を信じ、またわたしを信じなさい。」ヨハネ14:1
心が騒ぐとき、不安や恐れを感じています。原因は心が錨の切れた船のように、風や波に翻弄されているからです。それを静止するには不動のものに心を繋ぎ止める以外にありません。神様を信じること、イエス様を信頼することはまさに堅固な大岩に乗っているようなものです。周囲の状況、事情・境遇に頼って心を静めようとしてもすぐに脆く崩れます。主のみことばを信じて、神様の大能の手に委ねましょう。(KE)
4月12日
「主の使は彼女に言った、『あなたは女主人のもとに帰って、その手に身を任せなさい』。」創世記16:9
女主人サライに代ってアブラムの子を宿したハガルは、サライに苦しめられて荒野へ逃れます。死をも覚悟したでしょう。神様はハガルに目を留め憐れんでくださいましたが、もう一度サライのもとへ帰るように命じました。過酷な試練です。神様の助けを受けるにはどんなに苦しくてもその言葉に従う以外にありません。しかし、信じて従うなら、必ず神様は真実に応えてくださいます。ハガルはそれを体験しました。(KE)
4月11日
「わたしたちが信じているように、イエスが死んで復活されたからには、同様に神はイエスにあって眠っている人々をも、イエスと一緒に導き出して下さるであろう。」第一テサロニケ4:14
死んだ後、人はどうなるのかと多くの人が疑問に思うようです。確かに死んで生き返った人はいませんから、なんとも分からないのが実情です。しかし、聖書にははっきりとそのことが語られています。大切なことは、理解できなくても、それを否定するものもありませんから、聖書の言葉を素直に信じることです。(KE)
4月10日
「わたしはあなたのとがを雲のように吹き払い、あなたの罪を霧のように消した。わたしに立ち返れ、わたしはあなたをあがなったから。」イザヤ44:22
神様は私たちを創造された方であり、本来の所有者です。しかし、サタンのかしら、罪に捕らえられ、神様から遠くはなれて失われた者となっていました。神様は愛のゆえに、泥まみれの私たちを御子の血で洗い、とがも罪も消して御子の命を代価に買い取ってくださいました。私達は自分のものどころか、誰のものでもなく、今や神様のものです。大いに感謝しましょう。(KE)
4月9日
「しかし主を待ち望む者は新たなる力を得、わしのように翼をはって、のぼることができる。走っても疲れることなく、歩いても弱ることはない。」イザヤ40:31
この言葉の前段には、「年若い者も弱り、かつ疲れ、壮年の者も疲れはてて倒れる」とあります。どんなに健康な人であっても、弱り疲れます。どうしても休むときが必要です。体を休ませるばかりではなく、心を休息させることが不可欠です。そのためには世の煩いから離れて、神様に心を向け、御霊に満たされるために静まる時が必要です。(KE)
4月8日
「涙をもって種まく者は、喜びの声をもって刈り取る。種を携え、涙を流して出て行く者は、束を携え、喜びの声をあげて帰ってくるであろう。」詩篇126:5-6
労苦する者がその報いを受けるのは当然のことですが、現実はそのようになりません。ことに昨今の社会では、報われないことの多く、不公平、不公正がはびこっています。しかし、神様は真実な方です。決して涙を流し労苦する者を見過ごしになさいません。喜びの声をあげて、主を褒め称える者としてくださいます。神様を信じて、その報いを大いに期待して、力を尽くしましょう。(KE)