イエス様に救われた私たちは前に向かって進むのみです。

3月5日

「彼らを外に連れ出した時そのひとりは言った、『のがれて、自分の命を救いなさい。うしろをふりかえって見てはならない』。」創世記19:17a

ソドムの町が滅ぼされるとき、神様はロトの家族を憐み、救ってくださいました。神の使いは彼らを町から連れ出して、「うしろをふりかえるな」と命じました。イエス様に救われた私たちは前に向かって進むのみです。過去の様々な事態や状況がどんなであれ、善悪にかかわらず、振り返ってはダメです。命を失います。振り返ったロトの妻は「塩の柱」になったといわれています。(KE)

主は恵み豊かな方ですから、決して絶望に終わらせることはありません

3月4日

「その怒りはただつかのまで、その恵みはいのちのかぎり長いからである。夜はよもすがら泣きかなしんでも、朝と共に喜びが来る。」詩篇30:5

明けない夜はなく、出口のないトンネルはありません。主の試練に会うとき永遠に続くもののごとく思われますが、主は恵み豊かな方ですから、決して絶望に終わらせることはありません。ご愛のみ手を信じて、耐え忍びましょう。また、泣きたい時にはおおいに泣き、遠慮なく悲しもうではありませんか。必ず、喜びの朝が来ます。(KE)

全ての人が救われることを願って忍耐しているときです。

3月3日

「わたしは、国のために石がきを築き、わたしの前にあって、破れ口に立ち、わたしにこれを滅ぼさせないようにする者を、彼らのうちに尋ねたが得られなかった。」エゼキエル22:30

イエス様は世の終りの時、裁き主として世に再び来られると約束しています。今は、神様の怒りが注がれる前に全ての人が救われることを願って忍耐しているときです。神様は決して滅ぼすことを願いません。振り上げた拳を下ろす仲立ちを求めておられます。あなたが、家族の、友人知人の執り成し手とならなければ、誰がそれをするでしょうか。(KE)

心惑わされて祈る力を失っている姿です。

3月2日

「あなたがたは弱った手を強くし、よろめくひざを健やかにせよ。」イザヤ35:3

これは加齢によって足腰が弱ったというのではありません。かつて祈る時、立って両手を天に差し伸べて祈ったのです。「弱った手」「よろめくひざ」とは信仰が萎えたたとえです。周囲の事情・境遇、見える状態、耳に入る情報などに心惑わされて祈る力を失っている姿です。私たちも知らないうちにそのような状況に落ちます。謙って、神様を求め、力を与えられ、確信に満たされて祈る者となりましょう。(KE)

目指すべき規範は「良心に責められることのない」生き方です。

3月1日

「わたしはまた、神に対しまた人に対して、良心に責められることのないように、常に努めています。」使徒24:16

人は天涯孤独で絶海の孤島に住んでいるのではありません。神様との関係、人との関係の中で生きています。そのかかわりから自分の行動や思考が左右され、自分が正しい道に歩んでいるのかどうかわからなくなります。そのなかで、目指すべき規範は「良心に責められることのない」生き方です。自らの行動や言葉によって「良心」に咎められる思い、呵責を感じるなら、悔改めて道を正すべきです。(KE)

私たちの魂もみことばによって成長します。

2月28日

「今生れたばかりの乳飲み子のように、混じりけのない霊の乳を慕い求めなさい。それによっておい育ち、救に入るようになるためである。」第一ペテロ2:2

生まれたばかりの赤ちゃんは乳を飲み、眠り、排泄するだけですが、それによって成長していきます。また、飲むべきものは乳であって、スープやジュースではダメです。私たちの魂も「霊の乳」であるみことばによって成長します。みことばを薄めたり、他のものを混ぜたりしては害となっても益にはなりません。単純素朴にみことばだけを素直に信じ心に蓄えましょう。(KE)

私達が自分を捨てて、むなしくなり、主に捧げる以外にありません。

2月27日

「わたしはまたわが霊をあなたがたのうちに置いて、わが定めに歩ませ、わがおきてを守ってこれを行わせる。」エゼキエル36:27

神様は私達が何かをすることを求めているのではありません。むしろ、神様がしようとされることがあるのです。そのために、霊を与えて、歩ませ、守らせ、行わせるのです。全く神様に握られ、操られ、振り回されることが求められています。そうなるには、今日も自由自在に主のみ手に振り回されましょう。(KE)

自己実現が幸せであるか大いに疑問です。

2月25日

「わたしが天から下ってきたのは、自分のこころのままを行うためではなく、わたしをつかわされたかたのみこころを行うためである。」ヨハネ6:38

世間では自分の思いのままに生きることが最高に幸せなことだと考えられています。しかし、実際問題として、それは不可能です。出来ないゆえに、悩み苦しみ、失望しているのではないでしょうか。また、果たして自己実現が幸せであるか大いに疑問です。イエス様の生涯は遣わされた者として神様に従い仕えるものでした。私達も主にならって、みこころを行う一日を送りましょう。(KE)

永遠の命に生かされていることを常に新鮮な感動で受け止めるためです。

 

「あなたがたの切り出された岩と、あなたがたの掘り出された穴とを思いみよ。」イザヤ51:1b

忘れることはある意味で幸いなことです。苦しみや悲しみを忘れるから、今を生きることが出来るとも言えます。しかし、忘れてはならないこともあります。その一つは、自分がどのような状況から今に至ったのか、殊にイエス様の救いを受けた恵みです。永遠の滅びから永遠の命に生かされていることを常に新鮮な感動で受け止めるためです。感謝と喜びを日々新しくするために自らの出発点をはっきりしておきましょう。(KE)

神様以外にことの始まりはないし、また、そうであるとしか言えません。

2月23日

「主が命じられたのでなければ、だれが命じて、その事の成ったことがあるか。災もさいわいも、いと高き者の口から出るではないか。」哀歌3:37-38

何事かに出会うと、よきにつけ、悪しきにつけ、原因探し、犯人探しをします。因果関係がつながると安心する傾向がありますが、それが正しいものかどうかを問いません。時にはそれがわからず、いつまでも悩みます。しかし、結局のところ、神様以外にことの始まりはないし、また、そうであるとしか言えません。義人ヨブの場合も、あなたの場合もそうです。(KE)