信仰に生きる道は楽なようですが、そうとは言えません。

7月5日

「信仰の戦いをりっぱに戦いぬいて、永遠のいのちを獲得しなさい。」第一テモテ6:12a

信仰に生きる道は楽なようですが、そうとは言えません。「信仰の戦い」とあるように、まさに戦争です。日本にキリスト教が伝えられたとき迫害をうけました。そのような意味でも戦いですが、今はむしろ真の意味での「信仰の戦い」があります。それは自分の内にあるもの、自我、自己中心性などとの戦いであり、この世のさまざまな勢力との戦いです。神様から力を与えられて、自分に勝ち、世に勝つ者となりましょう。(KE)

 

「種は神の言(ことば)」です。

7月4日

「良い地に落ちたのは、御言を聞いたのち、これを正しい良い心でしっかりと守り、耐え忍んで実を結ぶに至る人たちのことである。」ルカ8:15

イエス様の「種まきのたとえ」の一節です。「種は神の言(ことば)」です。種は畑の土に埋められ、根をのばし、芽を出し、成長します。私たちの心は畑ですが、耕され、良い地にならなければ、まかれた種は成長しません。また、種が実を結ぶまで、どんなことがあっても耐え忍ぶ事が必要です。聖書の言は命が秘められているから、言葉をしっかり守って結果を待ちましょう。(KE)

「自分がしている」のではなく、神様が「させておられる」と信じることです。

7月3日

「すべてのことを、つぶやかず疑わないでしなさい。」ピリピ2:14

周囲の人の目には自信たっぷりに見えても、自分のしていることに自信がもてないことがしばしばあります。これでいいのだろうかと疑いつつやっています。その原因は知恵、知識、能力、経験など、自信になるものがないからです。それらに秀でている人でも、決して自信に溢れているわけではありません。自信をもって生きるには、「自分がしている」のではなく、神様が「させておられる」と信じることです。(KE)

あなたの人生はキリストのものとなっていますか。

7月2日

「そして、彼がすべての人のために死んだのは、生きている者がもはや自分のためにではなく、自分のために死んでよみがえったかたのために、生きるためである。」第二コリント5:15

この言葉はイエス様の救いが何であるかを語ったものです。イエス様を信じる時、自分の生きる目的が変ります。十字架の死によって自分の過去が抹殺され、主のよみがえりの命に生きる生涯となります。私達はキリストのために生き、キリストのものとなり、キリストのために死ぬのです。あなたの人生はキリストのものとなっていますか。(KE)

他人のことよりもあなた自身がどうであるか神様は問われます。

7月1日

「他人の僕をさばくあなたは、いったい、何者であるか。彼が立つのも倒れるのも、その主人によるのである。しかし、彼は立つようになる。主は彼を立たせることができるからである。」ローマ14:4

私達は他人のことが気になる性分のようです。他人の一挙手一投足、言葉の端々まであれこれ口をはさんで争いになるのです。私達は神様のもとにある「僕」にすぎません。お互いしもべですから、私たちの所作言動を裁かれるのは、主人である神様です。他人のことよりもあなた自身がどうであるか神様は問われます。(KE)

毎日、神様は私たちのために新しいことを始めてくださいます。

6月30日

「見よ、わたしは新しい事をなす。やがてそれは起る、あなたがたはそれを知らないのか。わたしは荒野に道を設け、さばくに川を流れさせる。」イザヤ43:19

神様はすべてのものの根源です。私たちの生活も人の知恵やわざによらず、神様の力、知恵、わざによるものです。毎日、神様は私たちのために新しいことを始めてくださいます。時には、願わないこと、いやな事であるかもしれませんが、それらの背後に隠された神様の意図、摂理が必ずあります。人の想像、知識を超えた神様のわざに期待しましょう。(KE)

神様の言葉は「食べる」ためのものです。

6月29日

「わたしはみ言葉を与えられて、それを食べました。み言葉は、わたしに喜びとなり、心の楽しみとなりました。万軍の神、主よ、わたしは、あなたの名をもってとなえられている者です。」エレミヤ15:16

神様の言葉は鑑賞したり、批評し、研究するためではなく、「食べる」ためのものです。食べたものは岨嚼され、形はなくなり、分解されて吸収されます。それが血となり肉となり、エネルギーを生み出すのです。同様に、「み言葉」を自分自身に取り込み、生活の力とするとき、喜び、楽しみが生まれてきます。(KE)

神様は大きな力ある方。目を高く上げて神様を見てください。

6月28日

「目を高くあげて、だれが、これらのものを創造したかを見よ。」イザヤ40:26a

普段の生活では上を向くより下を見るほうが多いようです。そのため、小さなこと、些細なことに囚われて、大きなものに気がつきません。心のありようも同じです。目先のこと周囲の小さなことに心が支配されて、暗く沈んだものになります。神様は大きな力ある方。目を高く上げて神様を見てください。目の前の悩みも問題も何と小さく、なんとつまらないものかと思われます。心を常に神様へ向けておきましょう。不安も恐れも心配も消えます。(KE)

神様に頼らなければならない者であることを誇り、公言したのです。

6月27日

「主はわが岩、わが城、わたしを救う者、わが神、わが寄り頼む岩、わが盾、わが救の角、わが高きやぐらです。」詩篇18:2

ダビデ王の歌と表題に書かれていますが、一国の王が何かにすがらなければならないのでは勤まりません。民に信頼されてこそ王です。しかし、ダビデ王は自分の弱さを隠さず、むしろ神様に頼らなければならない者であることを誇り、公言したのです。神様は彼の絶大な信頼に答えてくださいました。私たちは神様をどのような方としているでしょうか。「主はわが○○」と言い得るなら幸いです。(KE)

あなたを料理と譬えたらどんな味でしょうか。

6月26日

「塩はよいものである。しかし、もしその塩の味がぬけたら、何によってその味が取りもどされようか。あなたがた自身の内に塩を持ちなさい。そして、互に和らぎなさい。」マルコ9:50

日本語に「塩梅」がいい、悪いという言葉があります。料理の味加減を表すことばですが、殊に、料理をするとき塩は不可欠です。塩気のない食事ほど不味いものはありません。また、「ぜんざい」などの甘いものでも適度な塩を隠し味とします。それによって深みが出るからです。あなたを料理と譬えたらどんな味でしょうか。(KE)