6月25日
「そのとき、ふたりの者が畑にいると、ひとりは取り去られ、ひとりは取り残されるであろう。ふたりの女がうすをひいていると、ひとりは取り去られ、ひとりは残されるであろう。」マタイ24:40,41
神様はすべての人が救われるように願って、哀れみのゆえに忍耐しておられます。神様は愛の方ですが、同時に「義」なる方でもあります。世の終りのとき、全てのものが裁かれます。みことばのように、その裁きは曖昧ではなく、過酷で峻厳です。神様のご愛と恵みを軽んじるなら救われる道は失われます。(KE)
6月25日
「そのとき、ふたりの者が畑にいると、ひとりは取り去られ、ひとりは取り残されるであろう。ふたりの女がうすをひいていると、ひとりは取り去られ、ひとりは残されるであろう。」マタイ24:40,41
神様はすべての人が救われるように願って、哀れみのゆえに忍耐しておられます。神様は愛の方ですが、同時に「義」なる方でもあります。世の終りのとき、全てのものが裁かれます。みことばのように、その裁きは曖昧ではなく、過酷で峻厳です。神様のご愛と恵みを軽んじるなら救われる道は失われます。(KE)
6月24日
「あなたがたは、神のいましめをさしおいて、人間の言伝えを固執している。」マルコ7:8
世の人の言葉や先祖伝来の言い伝えなどはたやすく信じ込みます。ところが、神様の言葉、聖書の言葉をなかなか信じようとしません。神様の言葉(いましめ)を素直に信じるにはこの世の常識、言い伝え、習慣などを離れなければ信じられないからです。神様の言葉は人の知識や理解力を超えたものです。私達は固定観念に縛られ、そのため狭く限られた選択肢しかありませんが、神様の言葉を信じると無限の可能性が出てきます。(KE)
6月23日
「それから人々にむかって言われた、『あらゆる貪欲に対してよくよく警戒しなさい。たといたくさんの物を持っていても、人のいのちは、持ち物にはよらないのである』。」ルカ12:15
日本をはじめ世界の各国々は豊かさを求めて自然を破壊し、地球の温暖化を引き起こしています。その根本は豊かな物質によって命が増し加わると誤解した結果です。「貪欲」は偶像礼拝であって罪だと言われています。必要以上のものを持ちたいと言う欲求から、与えられているものを感謝する心へ変ることが今求められています。(KE)
6月22日
「王は彼女に言った、『王妃エステルよ、何を求めるのか。あなたの願いは何か。国の半ばでもあなたに与えよう』。」エステル5:3
ペルシャ王国の王妃となったエステルは、同胞の危機にあたって大胆に王の前に出ました。必死の覚悟で立つ王妃にかけた王の言葉です。これはまた神様が私たちにかけてくださる呼びかけです。「何を求めるのか。あなたの願いは何か」と。神様は御子イエス様の命をも惜しまない方。まして、私たちの願いを聞いてくださらないはずはありません。ただ王妃のような切なる願いが必要です。(KE)
6月21日
「そこで主は彼のうしろの戸を閉ざされた。」創世記7:16b
ノアは神様の命によって箱舟を作りました。はじめた時、彼はその全体計画を全く知らず、ただ神様の言葉だけをたよりに作業を進めたのです。命じられたように全ての生き物を箱舟に入れおわったとき、箱舟の戸が閉ざされました。ノアが閉めたのではありません。「主は・・・閉ざされた」のです。もはや内側からも外側からも、それを開くことはできません。箱舟はイエス様の十字架です。今は救いの戸が今や閉ざされようとしている終末です。あなたは大丈夫?(KE)
6月20日
「主よ、あなたはわたしを探り、わたしを知りつくされました。あなたはわがすわるをも、立つをも知り、遠くからわが思いをわきまえられます。」詩篇139:1-2
自分のことを誰も知ってくれないと嘆きますが、どんなに身近な家族であっても、その人の思いや心の隅々を知り尽くすことは出来ません。人と人との関係には限界があります。しかし、創造者である神様はあなたのことを内外共にすべて知っています。これはなんと慰められることでしょう。ことごとく知られているのだから、神様の前で飾らず裸になりましょう。(KE)
6月19日
「わざわいなるかな、おのが計りごとを主に深く隠す者。彼らは暗い中でわざを行い、『だれがわれわれを見るか、だれがわれわれのことを知るか』と言う。」イザヤ29:15
人が悪しきことを思い計る時、誰も知るものがいないと思っています。しかし、「頭隠して尻隠さず」のように、隠しているつもりでも、神様の目には全て明らかです。神様の視線を絶えず感じることができるなら、幸いな生涯を送ることが出来ます。企業は政治家の不公正な行為や虚偽も、その原因は神様に見られている事を忘れるからです。(KE)
6月18日
「すると、イエスはそのぶどう酒を受けて、『すべてが終った』と言われ、首をたれて息をひきとられた。」ヨハネ19:30
「すべてが終わった」とは、何が終わったのでしょうか。イエス様の生涯が終わっただけでなく、人々の罪を贖うわざが完成したことであり、イエス様を信じる者の古き人生も終わったのです。今なお、解決のつかない問題、悩み、先の見えない闇にあるとも、「すべてが終わった」と信じて、大胆に主の十字架を見上げてください。無条件で信じることがすべてです。(KE)
6月17日
「よく聞いておくがよい。だれでもこの山に、動き出して、海の中にはいれと言い、その言ったことは必ず成ると、心に疑わないで信じるなら、そのとおりに成るであろう。」 マルコ11:23
力強い言葉ではないでしょうか。神様を信じる信仰に立って生きるとき、絶望、行き止まり、お先真っ暗とはなりません。いや、むしろ常に暗やみを押しのけ、明るい光を見つつ生きる生活です。どんなことも肯定的に受け取ることができるのです。祈りは神様の無限の力を引き出すカギです。(KE)
6月16日
「信仰によって、アブラハムは、受け継ぐべき地に出て行けとの召しをこうむった時、それに従い、行く先を知らないで出て行った。」 ヘブル11:8
信仰に生きるのは「石橋を叩いて渡る」生活ではなく、神様を知らない人から見ると無謀な冒険的な生き方に見えるでしょう。予算を組み、スケジュールを立て、根回しも終り、何もかも確かだとなって始めるのではありません。「行き先を知らない」で、ただ神様の約束を信じて踏み出すとき、道なきところに道が備えられ神様の祝福を受けるのです。(KE)