9月24日
「あなたはわが目に尊く、重んぜられるもの、わたしはあなたを愛するがゆえに、あなたの代りに人を与え、あなたの命の代りに民を与える。」イザヤ43:4
神様が私たちをどんなに愛しているかを語った、愛の言葉です。愛するゆえにどんなものでも犠牲にしても惜しくない。その証拠として、神様のひとり子、御子を世に遣わし、私たちの罪を贖う供え物とされたのです。これほどまでにあなたを愛してくれるものがいるでしょうか。この愛を心に抱いて生きてください。どんな困難にも打ち勝つことができます。(KE)
9月24日
「あなたはわが目に尊く、重んぜられるもの、わたしはあなたを愛するがゆえに、あなたの代りに人を与え、あなたの命の代りに民を与える。」イザヤ43:4
神様が私たちをどんなに愛しているかを語った、愛の言葉です。愛するゆえにどんなものでも犠牲にしても惜しくない。その証拠として、神様のひとり子、御子を世に遣わし、私たちの罪を贖う供え物とされたのです。これほどまでにあなたを愛してくれるものがいるでしょうか。この愛を心に抱いて生きてください。どんな困難にも打ち勝つことができます。(KE)
9月23日
「このように、あなたがたは子であるのだから、神はわたしたちの心の中に、『アバ、父よ』と呼ぶ御子の霊を送って下さったのである。」ガラテヤ4:6
あなたも、私も、神様の「子」であると言われます。なんと驚くべきことでしょうか。私たちのどこを取っても神様の子らしいところは全くありません。しかし、どんな状態にあっても、ただ聖霊が宿ってくださるゆえに神様の子であり、その実証が「祈り」です。あなたも「アバ、父よ」と、子になりきって、神様を呼びましょう。(KE)
9月22日
「事の終りはその初めよりも良い。耐え忍ぶ心は、おごり高ぶる心にまさる。」伝道7:8
世間でも「終わりよければすべて良し」と言います。それは結果を見て言えることです。しかし、常にこの先は今より悪くなると考えがちです。昨今の世界情勢を見聞きすると、悪くなる一方としか思われませんが、神様のご支配を信じる時、必ずや「終りは初めよりも良い」と期待することができます。神様は悪いことではなく、良いことをされるからです。神様を信じて耐え忍ぶとき、あなたの人生の終りは今よりも良いものになります。(KE)
9月21日
「ユダは一きれの食物を受けると、すぐに出て行った。時は夜であった。」ヨハネ13:30
このとき、ユダは過越しの晩餐の席から離れて、出て行きました。明るく、楽しい歓談の場から、たった一人で夜の闇の中へ消えて行きます。その後姿を想像すると、やりきれなさと切なさがこみ上げてきます。自分が何をしているのか、どこへ向かっているのか、なにも自覚していません。私達も主の声を遮断し、サタンの誘惑に目をふさがれると、ユダと同じ闇の道を歩むことになります。(KE)
9月20日
「ペテロは、『にわとりが二度鳴く前に、三度わたしを知らないと言うであろう』と言われたイエスの言葉を思い出し、そして思いかえして泣きつづけた。」マルコ14:72b
この事はペテロの生涯において最も痛恨事であったろうと思います。死をも、牢獄をもいとわない覚悟であったのですが、厳しい現実に会う時、自分の弱さがすぐ出ます。泣きつづけるペテロの心情を察するとき、同情を禁じえません。しかし、主は意志薄弱な者を造り変えて、栄光の生涯へ入れてくださったのですから、私達も大いに希望を持つことができます。(KE)
9月19日
「彼らは神を知っていると、口では言うが、行いではそれを否定している。」テトス1:16a
「本音と建前」、「裏と表」など、二面的なあり方を表しますが、信仰の上でも同じことが起ります。口で言うことと、実際の行いとが食い違っている。そのような人をこのみ言葉に続いて「忌まわしい者」、「不従順な者」、「失格者」と言っています。確かに、そうありたいと願いつつも、実際になると何もできない現実があります。しかし、なんとか言行一致させようと努めなければ、信仰の恵みを知ることができません。(KE)
9月18日
「わたしはいにしえの日を思い出し、あなたが行われたすべての事を考え、あなたのみ手のわざを思います。」詩篇143:5
年を取るにつれて、今のことより過去のことを思い出すことが多くなります。そのような話ばかりするため、若い人から敬遠されますが、幼少のころから今に至るまで、数々の出来事を通り越してきました。しかし、ただ懐かしみ、武勇談を語るのではなく、すべての事の中に、神様の測り知れない摂理、み思いがあり、備えられたことを感謝することが大切です。(KE)
9月17日
「見よ、わたしは主である、すべて命ある者の神である。わたしにできない事があろうか。」エレミヤ32:27
神様は「主」であり、「神」であると繰り返し聖書で語っています。それは、私たちが神様を忘れて、自分が「主」となり、「神」になっているからです。人生にはいろんなことが起ってきますが、あのことも、このことも、それら全てを司り、統べ治めているのは神様であることを信じましょう。その方は「できない事」のない方です。今日も神様の前にひれ伏して従いましょう。(KE)
「そのとき、ふたりの者が畑にいると、ひとりは取り去られ、ひとりは取り残されるであろう。」マタイ24:40
「そのとき」とは、終末の時のことですが、この言葉をとおして救いが極めて個人的なものであることが分かります。家族や教会など、集団としてではなく、あなた個人が問われることです。どんなに仲の良い夫婦であっても、神様の前に立つのは一人一人です。他人のことも大切でしょうが、先ずは「わたし」です。あなたが真剣に神様を信じ、イエス様に従って、救いを確信することが求められています。(KE)
9月15日
「彼を信じる者は、さばかれない。信じない者は、すでにさばかれている。神のひとり子の名を信じることをしないからである。」ヨハネ3:18
イエス様は救い主として世に来てくださいました。しかも、その救いは老若男女、貴賎貧富にかかわらず、全ての人に与えられるものです。ただ、イエス様を信じて、心を開いて求めなければ得られません。神様のさばきとは、神様が積極的にしかけられることではなく、私たちが自分で選び、招く結果です。すなわち、イエス様を信じないこと自体が「さばき」となるのです。(KE)