神様の許しがなければどんなこともありえないからです。

1月4日

「朝のうちに種をまけ、夕まで手を休めてはならない。実るのは、これであるか、あれであるか、あるいは二つともに良いのであるか、あなたは知らないからである。」伝道11:6

人は功利的に事の成り行きを考え、その結果を想定した上で、するかしないかを決めます。しかし、実際には人が考え予想した通りには進みません。神様の許しがなければどんなこともありえないからです。結果は神様に委ねて今なすべきことに全力を尽くしましょう。神様はあなたのわざに必ず報いてくださいます。(KE)

 

イエス様の救いは、自分の足で立ち歩く者へと変えることです。

1月3日

「ペテロが言った、『金銀はわたしには無い。しかし、わたしにあるものをあげよう。ナザレ人イエス・キリストの名によって歩きなさい』。」使徒3:6

施しを乞うていた足のきかない男に語ったペテロの言葉です。この男は「金銀」を期待しましたが、それではいつまでも今の状態から抜け出すことはできません。イエス様の救いはあなたの人生の根底をひっくり返して、自分の足で立ち歩く者へと変えることです。「金銀」があれば歩けると思うのは間違いです。私たちが自立するのはイエス様によって立つときです。(KE)

今、「無くてならぬもの」はなんだろうか

1月2日

「しかし、無くてならぬものは多くはない。いや、一つだけである。」ルカ10:42ab

お正月は人の出入りの多いときです。来客の応接に忙しくなり、そのために焦ったり、苛立ったり、落ち着かなくなり、家族ともめたりして、慌しさがすぎると、疲労と後悔がずしんと重くなります。一体自分は何をやっているのだろうかと悔やむことばかりです。そんなとき、このみことばを自分に語りかけてください。今、「無くてならぬもの」はなんだろうかと。主のみこえを聞くこと、これが失われる時、全てが空しくなるのです。(KE)

みことばを信じて、神様に期待したいと思います。

1月1日

「あなたはその田みぞを豊かにうるおし、そのうねを整え、夕立をもってそれを柔らかにし、そのもえ出るのを祝福し、またその恵みをもって年の冠とされる。あなたの道にはあぶらがしたたる。」詩篇65:10-11

新しい年を迎えました。これからの一年がどのような年になるのかわかりませんが、神様は祝福と恵みを約束しておられます。世相を見るとき、望みはありません。しかし、みことばを信じて、神様に期待したいと思います。神様はすべてのものの根源であり完成者です。導かれるままに従っていきましょう。(KE)

過去に引きずられては前進できません。

「ただこの一事を努めている。すなわち、後のものを忘れ、前のものにむかってからだを伸ばしつつ…。」ピリピ3:13cd

2017年も今日で終ります。世間では除夜の鐘とともに、煩悩を吹き飛ばして新年に向かおうとしますが、私達は十字架に罪を消され、備えられた目標を目指し、神様の報いを得たいと願って新年に向かいます。そのためには過去に引きずられては前進できません。良いことも悪いことも、主にお返しして、目指すべきところをしっかりと見据えて、与えられた道を歩みましょう。(KE)

彼女の心を開いて信じさせたのは神様のわざです。

「主は彼女の心を開いて、パウロの語ることに耳を傾けさせた。」使徒16:14b

パウロは第二回目の伝道旅行中にピリピの町に立ち寄りました。安息日に川のほとりにある「祈り場」で、ルデヤという婦人に出会います。婦人はパウロの話を聞いて、イエス様を信じ、家族共々バプテスマを受けました。ピリピの教会の出発点です。これはパウロの努力や話術による結果ではありません。彼女の心を開いて信じさせたのは神様のわざです。これは今も変りません。あなたがみことばを聞いて喜ぶのも、神様がなさっているのです。(KE)

私たちの心には「肉」の思いと「霊」の思いが常に衝突しています。

「肉の思いは死であるが、霊の思いは、いのちと平安とである。」ローマ8:6

聖書には「肉」という言葉がしばしば使われます。勿論、牛肉、豚肉などの「肉」ではありません。人間の自我性、神様を抜きにした世界、即物的な考えや価値観などを総称する言葉です。その反意語が「霊」です。霊は目に見えない神様を信じさせ、畏れ敬う心を育て、神様の知識を得させ、「肉」に打ち勝つ力を与えてくれます。私たちの心には「肉」の思いと「霊」の思いが常に衝突して、主導権を握ろうとしています。勝敗はあなたの選択と決断にかかっています。(KE)

よみがえられたイエス様がいつもどこにでも共にいてくださるのです。

「キリストがわたしたちのために死なれたのは、さめていても眠っていても、わたしたちが主と共に生きるためである。」第一テサロニケ5:10

イエス様は十字架にかかって、私たちの罪の犠牲となってくださいました。それによって神様との間にあった障害が取り除かれ、よみがえられたイエス様がいつもどこにでも共にいてくださるのです。主はわたしたちの目には見えませんが、すぐそばにおられます。たえず、そのことを自覚して生きようではありませんか。確かな手ごたえを感じるはずです。(KE)

真の神様は、「隠れたところ」にいらっしゃる方です。

12月27日

「こうして、人々が熱心に追い求めて捜しさえすれば、神を見いだせるようにして下さった。事実、神はわれわれひとりびとりから遠く離れておいでになるのではない。」使徒17:27

聖書を通して語られる真の神様は、「隠れたところ」にいらっしゃる方です。そのため、多くの人が神様を認めることが出来ないと言います。しかし、みことばのように、求めれば見いだすことが出来るのです。しかも、あなたのすぐそばにおられます。大切なのは、あなたの「求める心」です。(KE)

 

自分のことであっても、将来についてはさっぱりわかりません。

「ああ深いかな、神の知恵と知識との富は。そのさばきは窮めがたく、その道は測りがたい。」ローマ11:33

神様の考え、ご計画、備えられた道など、私達は知り尽くすことができません。殊に、これからどうなるのか、自分のことであっても、将来についてはさっぱりわかりません。私達はすべて神様のみ手に導かれ、ご計画のうちに生きているのです。過ぎて来た人生を振り返ると、「なるほどこの為に」と理解できるのです。今、どうしてなのか分からなくても、神様の確かな愛の手を信じ、委ねましょう。(KE)