4月25日
「この世界と、その中にある万物とを造った神は、天地の主であるのだから、手で造った宮などにはお住みにならない。」使徒17:24
日本には各地に神社仏閣があります。そこは神仏の宿るところとして大切にされていますが、本来、神なる方は人の手で造られたものなど必要ありません。この言葉に続いて、「また、何か不足でもしておるかのように、人の手によって仕えられる必要もない」とあります。神様はご自身で完結充足した存在です。神様が私たちを求めてくださるのはただ憐れみによるのです。(KE)
4月25日
「この世界と、その中にある万物とを造った神は、天地の主であるのだから、手で造った宮などにはお住みにならない。」使徒17:24
日本には各地に神社仏閣があります。そこは神仏の宿るところとして大切にされていますが、本来、神なる方は人の手で造られたものなど必要ありません。この言葉に続いて、「また、何か不足でもしておるかのように、人の手によって仕えられる必要もない」とあります。神様はご自身で完結充足した存在です。神様が私たちを求めてくださるのはただ憐れみによるのです。(KE)
4月24日
「イエスは、また人々に語ってこう言われた、『わたしは世の光である。わたしに従って来る者は、やみのうちを歩くことがなく、命の光をもつであろう』。」ヨハネ8:12
昔、ギリシャのある哲人は日中ランプを灯して、「暗い、暗い」と言いながら町中を歩き回ったとのこと。彼は日の光があっても人心は暗く世は闇だと語ったのでしょう。勿論、ランプではどうにもなりません。イエス様こそが「世の光」です。現代は彼の時代よりももっと漆黒の闇の中です。イエス様のみことばに従って光の中を歩いてください。(KE)
4月23日
「しかし、助け主、すなわち、父がわたしの名によってつかわされる聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、またわたしが話しておいたことを、ことごとく思い起させるであろう。」ヨハネ14:26
イエス様は父なる神様の元に帰り、ご自分に代って聖霊を送ってくださいました。今や聖霊が私たちのうちに宿っています。それは私たちに神様のみこころを教え、み旨を行わせるためです。御霊はあなたが忘れていることも、知らないことも、どんなことでも教えてくださいます。心の耳を傾けてみ声を聞いてください。(KE)
4月22日
「五羽のすずめは二アサリオンで売られているではないか。しかも、その一羽も神のみまえで忘れられてはいない。」ルカ12:6
「すずめ」ほどありふれた鳥はいません。また誰一人見向きもしません。そのような鳥でさえ神様は忘れていないのです。まして、万物の霊長と言う私たちを忘れることがあるでしょうか。神様の知恵、力、知識は人の計り知ることのできない大きなものです。人が不可能と思うことでも神様には出来ます。人の知恵で神様を小さく限ることなく思いっきり信頼しようではありませんか。(KE)
4月21日
「それから人々にむかって言われた、『あらゆる貪欲に対してよくよく警戒しなさい。たといたくさんの物を持っていても、人のいのちは、持ち物にはよらないのである』。」ルカ12:15
最新の医療設備があり、最新の居住区間に住み、栄養管理された食事をして、物質的には全く不自由のない生活が出来ても、それが命ではありません。では、何が命なのでしょうか。創世記には「命の息」を吹きいれられて生きるものとなったとあります。まさに、神様の命を頂く以外に生きることが出来ないのです。(KE)
4月20日
「また、あなたが呼ぶとき、主は答えられ、あなたが叫ぶとき、『わたしはここにおる』と言われる。」イザヤ58:9a
幼い子供は親の存在を絶えず確かめようとします。ちょっとでも顔が見えないと不安になって泣き出します。その声を聞くと、親はすぐに答えます。神様もまるで子供の親のように、私たちの叫ぶ声を聞いて答えてくださいます。子供が安心するのは親の存在を確信するからです。どのような問題・悩みにあっても、神様がいらっしゃることを知れば、これにまさる平安はありません。(KE)
4月19日
「主よ、わが口に門守を置いて、わがくちびるの戸を守ってください。」詩篇141:3
「口は災いの元」とも世間で言われますが、言葉の上での失敗は数多くあります。感情に任せ、思いのままに語る言葉で人を傷つけ、怒りを引き起こします。その意味で言葉は力です。一方、寡黙で口数少ない人は奥ゆかしく見えますが、何を思っているのか分かりません。小さな口ひとつ自分ではいかんともしがたいもの。みことばのように祈りつつ主に守っていただくほかありません。(KE)
4月18日
「あなたがたは、主にあっていつも喜びなさい。繰り返して言うが、喜びなさい。」ピリピ4:4
現実の生活を見ると、不安や心配、恐れがあって「喜ぶ」ことができません。事情や境遇によって喜ぼうとする限り、喜べないのは確かです。しかし、ここでは「主にあって」と言われています。「主にあって」とはイエス様を通して物事を見るのです。神様が私たちに注いでくださった限りない愛の証であるイエス様の目線に立って見てください。恐れは消え、不安や心配は祈りと望みに変わります。(KE)
4月17日
「いつもイエスの死をこの身に負うている。それはまた、イエスのいのちが、この身に現れるためである。」第二コリント4:10
死を打ち破って新しい命に生きるためには、イエス様と一緒に十字架に死ななければ甦ることができません。パウロは常に「キリストと共に十字架につけられた」と告白しました。それはキリストが自分を生かしておられるとの告白でもあります。私たちも、よみがえりの命に生かされるために、「イエスの死」に自分を重ねましょう。キリストの新しい命を体験できます。(KE)
4月16日
「もうここにはおられない。かねて言われたとおりに、よみがえられたのである。さあ、イエスが納められていた場所をごらんなさい。」マタイ28:6
イースター、おめでとうございます。主はよみがえられたのです。それは死の砦、墓を貫いてその先へ続く道を開いてくださったことです。死はすべてのものを飲み込む暗黒のブラックホールでなく、新しい命への入り口となったのです。蘇られたイエス様とともに生きるなら、体の死はもはや何の力もありません。死を超えた望みに生きてください。(KE)