7月25日
「彼はこの神、すなわち、死人を生かし、無から有を呼び出される神を信じたのである。」ローマ4:17b
これはアブラハムの信仰を語った言葉ですが、私たちにも信じる神様がどのような方であるか、はっきり示したものです。神様を信じても、どこかで疑う思いが消えません。神様より自分のほうが確かなように思ってしまうのです。そうである限り、心に確信がなく、信仰がゆれて、不安が続きます。アブラハムのように、神様にはできないことがない、全能者であると信じてしまうことが幸いです。(KE)
7月25日
「彼はこの神、すなわち、死人を生かし、無から有を呼び出される神を信じたのである。」ローマ4:17b
これはアブラハムの信仰を語った言葉ですが、私たちにも信じる神様がどのような方であるか、はっきり示したものです。神様を信じても、どこかで疑う思いが消えません。神様より自分のほうが確かなように思ってしまうのです。そうである限り、心に確信がなく、信仰がゆれて、不安が続きます。アブラハムのように、神様にはできないことがない、全能者であると信じてしまうことが幸いです。(KE)
7月24日
「神よ、わが心は定まりました。わが心は定まりました。わたしは歌い、かつほめたたえます。わが魂よ、さめよ。」 詩篇108:1
心が動揺して、落ち着かないときほど苦しいことはありません。「溺れるものは藁をもつかむ」のように、何とか安定を得ようとしますが、掴んだものが揺れ動いているので、どうしても安定しません。この世の何かによって、落ち着こうとしても不可能です。底岩のように不動のものは神様以外にありません。じたばたしないで、はやく神様に立ち返って、心を定めましょう。(KE)
7月23日
「主に感謝せよ、主は恵みふかく、そのいつくしみはとこしえに絶えることがない。」詩篇118:1
今日は主の日、聖なる日です。一週間の旅路が終り、また新しい旅が始まります。その終りと始まりに神様へ感謝讃美を奉げることはまことに幸いなことです。過ぎてきた日々も、いろんなことがありましたが、神様の慈愛に満たされ、守られてきました。いまなお問題や苦しみにあるとしても、まず、感謝しましょう。また、これから世に遣わされる日々を、主の恵みに期待しつつ、信仰をもって踏み出そうではありませんか。(KE)
7月22日
「いつもイエスの死をこの身に負うている。それはまた、イエスのいのちが、この身に現れるためである。」第二コリント4:10
イエス様の十字架は「死」と「いのち」の交差点です。主は私達の罪を負うてくださって、神様の刑罰を受けてくださいました。その結果が「死」です。言うならば私たちが死んだのです。後に、主は墓からよみがえって、新しい命の始まりとなりました。私たちもその命に生かされて生きるものとなりました。日々、キリストの死と一体化して、自分に死んで、よみがえりの命を頂き、生きる者となってください。(KE)
7月21日
「すなわち、謙遜の限りをつくし、涙を流し、ユダヤ人の陰謀によってわたしの身に及んだ数々の試練の中にあって、主に仕えてきた。」使徒20:19
使徒パウロの生き様を語った言葉ですが、「主に仕えてきた」に注目してください。イエス様の救いを受けることは、イエス様に仕える者となることです。と言われても、どうやって見えない方に仕えるのかと思われます。それは聖霊、神の霊に導かれ、従うことです。御霊は全ての人に与えられる力です。聖霊を信じて、心に促される導きに謙遜に従うとき、自分にない力を体験します。(KE)
7月20日
「ピリポは彼に言った、『きて見なさい』。」ヨハネ1:46b
ピリポはイエス様に会って、大喜びをしましたが、ナタナエルはナザレから立派な人物など出るはずがないと主張しました。何とかイエス様を伝えたいと願い、ピリポが言った言葉です。「きて見なさい」。「百聞は一見にしかず」といわれるように、言葉巧みに説明を尽くしても、ものの実相は伝わりません。まさに「見て」「手で触り」「味わう」など、実体験にまさるものはありません。イエス様も、万巻の書より、みことばを信じて体験して悟ることが大切です。(KE)
7月19日
「あなたがたをキリストにある永遠の栄光に招き入れて下さったあふるる恵みの神は、しばらくの苦しみの後、あなたがたをいやし、強め、力づけ、不動のものとして下さるであろう。」第一ペテロ5:10
イエス様に救われたからと言って、苦しみや悩みがなくなるわけではありません。むしろ、多くなることもあります。しかし、それらの苦しみ悩みは、イエス様の救いによって、私たちを損なうためのものではなく、私達の益のため、「いやし、強め、力づけ、不動」にするためのものです。しかも、それは「しばらく」の期間です。(KE)
7月18日
「あなたがたは主を求めよ、そして生きよ。」アモス5:6a
私達は日々何を求めて生きているでしょうか。健康を、お金を、地位・名誉を、いろんなものを求めて生きようとします。それらが命の源だと思うからです。しかし、生きるため、命のために求めるべきものはただ一つ、「主を求めよ」だけです。神様には私たちが求める以上のものが、どんなものでも豊かに備わっているのです。しかも、主は気前のよい方です。求めるならば惜しみなく、豊かに溢れるばかりに与えてくださいます。(KE)
7月17日
「こうして彼らはそのつるぎを打ちかえて、すきとし、そのやりを打ちかえて、かまとし、国は国にむかって、つるぎをあげず、彼らはもはや戦いのことを学ばない。」イザヤ2:4b
平和を願い、国連本部の庭にこのみ言葉を題材にした彫像があります。しかし、この半世紀以上にわたって、戦争のなかった日は一日として世界にはありません。このみことばが成就するのは、全ての人が神様を畏れ敬い、神様に仲裁者となっていただくときです。それには「○○運動」も、「○○会議」も、役に立ちません。ただ、神様のわざを祈り求めることです。(KE)
7月16日
「宮は建てる時に、石切り場で切り整えた石をもって造ったので、建てている間は宮のうちには、つちも、おのも、その他の鉄器もその音が聞えなかった。」 列王上6:7
ソロモン王が手がけた神殿建設の記事ですが、実に不思議な話です。大きな建造物でありながら、道具を使う音がしません。静けさの中で工事が着々と進行していきます。これは聖霊の宮として造り上げられる私達の姿でもあります。主はいまも私達の内外をきよめ、整え、宮に相応しいものにしようと、物音一つ立てないで、わざを進めているのです。(KE)