「見えないかた」を見ていますか。

6月3日

「信仰によって、彼は王の憤りをも恐れず、エジプトを立ち去った。彼は、見えないかたを見ているようにして、忍びとおした。」ヘブル11:27

信仰はある種の「賭け」です。宝くじを買う時、僅かでも当るかもしれないと、その期待に賭けます。ただ、信仰は限られた金額を賭けるのではなく、命を賭けるのです。モーセは様々な問題・困難のなかで、「見えないかた」に全身全霊を賭けて決断し、忍耐し続けました。「忍びとおす」とは結果を考えないで、命の尽きるまで忍ぶのです。「見えないかた」を見ていますか。(KE)

イエス様が願っておられることは、私たちが神様を褒め称え、感謝することです。

6月2日

「きよめられたのは、十人ではなかったか。ほかの九人は、どこにいるのか。神をほめたたえるために帰ってきたものは、この他国人のほかにはいないのか。」ルカ17:17-18

イエス様によって病を癒された十人のうち、サマリヤ人がひとり主のもとに感謝を奉げました。私達は神様からどんな大きな恵みをいただいていることか考えると、どんなに感謝しても足りません。イエス様が願っておられることは、私たちが神様を褒め称え、感謝することです。それによって神様の栄光があらわされるのです。(KE)

神様が私たちに求めておられることは、「自分」という殻を出ることです。

6月1日

「自分を愛してくれる者を愛したからとて、どれほどの手柄になろうか。罪人でさえ、自分を愛してくれる者を愛している。」ルカ6:32

神様が私たちに求めておられることは、「自分」という殻を出ることです。「愛してくれる者を愛する」世界にとどまる限り、神様の力、恵み、愛を知ることができません。その境界線を一歩でも、半歩でも越えるとき、神様の世界に入ることができます。自分の力では出来ませんが、死からよみがえった主の力にすがる時、あなたも未知の世界に入れます。勇気を出して、踏み出してください。(KE)

何を拠り所にしているか、その土台が何であるかによって結果が出ます。

5月31日

「それで、わたしのこれらの言葉を聞いて行うものを、岩の上に自分の家を建てた賢い人に比べることができよう。」マタイ7:24

地震や大雨による被害が伝えられています。思いがけないときにとんでもない災害が起ります。しかし、そのとき、いろんなものの真価が問われます。人生においても同じです。事もなく順調なときには皆同じに見えますが、ひとたび問題にぶつかると、揺さぶられ崩れます。何を拠り所にしているか、その土台が何であるかによって結果が出ます。あなたの土台は大丈夫ですか。(KE)

人に知られて、賞賛され、褒められると、神様からの報いをいただけません。

5月30日

「あなたは施しをする場合、右の手のしていることを左の手に知らせるな。」マタイ6:3

左右の手は最も近い関係にあるものでしょう。双子のような関係でしょうか、いろんなことを共有します。そのような密接な関係であっても、「知らせるな」と言われます。それは目に見えない神様を信頼するためです。人に知られて、賞賛され、褒められると、神様からの報いをいただけません。信仰に生きる生活は神様の報いを体験することです。人間的な関係を捨てて、神様と私の関係に生きようではありませんか。(KE)

 

人の意表をつき予測しがたいことこそ「神様らしい」のです。

5月29日

「主の使は彼に言った、『わたしの名は不思議です。どうしてあなたはそれをたずねるのですか』。」士師13:18

神様の名は「不思議」です。まさに、その名のごとく、人が感嘆の声をあげて、「不思議だ!」と言うほかないことをされます。浅はかな知恵しかもたない私たちが想像できることしかできないなら、神様とは言えません。人の意表をつき予測しがたいことこそ「神様らしい」のです。神様が事を起し、わざをなさるのですから、身近な自分を含め、理解しがたいのは当然です。(KE)

そこそこの感謝ではなく溢れるばかりに感謝するとき、それが神様の栄光となるのです。

5月28日

「すべてのことは、あなたがたの益であって、恵みがますます多くの人に増し加わるにつれ、感謝が満ちあふれて、神の栄光となるのである。」第二コリント4:15

「神様の栄光」を現すなどと言うと、大変なことだと思ってしまいます。何をすればいいのかと戸惑いますが、実はとても簡単なことです。みことばにあるように神様の恵みを感謝することです。しかも、そこそこの感謝ではなく溢れるばかりに感謝するとき、それが神様の栄光となるのです。あなたが神様を褒め称え、感謝讃美することを願っておられます。(KE)

今日、あなたはどちらを選びますか。

5月27日

「見よ、わたしは、きょう、あなたがたの前に祝福と、のろいとを置く。」申命記11:26

私たちの人生はまさに選択と決断の連続です。右にするか左にするか、毎日判断を迫られます。しばしばその選択と決断は損得利害、情欲に絡んだことが多くありますが、利益不利益を基準に考えるばかりでは神様に「よし」とされる正しい行動はとれません。あなたの選択と決断は神様が置かれた「祝福とのろい」の選択に直結しています。さて、今日、あなたはどちらを選びますか。(KE)

 

「神様によろこばれる」ことであるかどうか。

5月26日

「わが岩、わがあがないぬしなる主よ、どうか、わたしの口の言葉と、心の思いがあなたの前に喜ばれますように。」詩篇19:14

人それぞれに生き方があり、何を大切にするかも違います。しかし、人として生きるために欠くことができない基本は一つです。それは神様を畏れ敬うこと。具体的に言うなら「神様によろこばれる」ことであるかどうか。あなたの生活の全てに言葉とわざとを問わず、この基準を当てはめてください。また、そうなるように求めて祈りましょう。(KE)

自分が幸福だと感じていればそれが全てです。

5月25日

「たとい人は百人の子をもうけ、また命長く、そのよわいの日が多くても、その心が幸福に満足せず、また葬られることがなければ、わたしは言う、流産の子はその人にまさると。」伝道6:3

人生の値打ちは持ち物や業績など、客観的な尺度で測ることはできません。ましてや他人と比べることもできません。それはきわめて主観的なもの。たとえ短命であれ、長命であれ、自分が幸福だと感じていればそれが全てです。神様に生かされた生涯をあなた自身がどのように受けとめるか、評価するかにかかっています。(KE)