「しかし主を待ち望む者は新たなる力を得、わしのように翼をはって、のぼることができる。走っても疲れることなく、歩いても弱ることはない。」イザヤ40:31
人は元気でいたいと願いますが、残念ながらスーパーマンではありません。必ず、弱り元気を失います。肉体的な疲れは休養すれば回復するでしょうが、心が弱るとき何によって力を得るでしょうか。それは神様の力によらなければ回復できません。神様を信頼して待ち望むとき、神様の力が弱った心を持ち上げ、聖霊の風によって持ち運んでくださいます。(KE)
「しかし主を待ち望む者は新たなる力を得、わしのように翼をはって、のぼることができる。走っても疲れることなく、歩いても弱ることはない。」イザヤ40:31
人は元気でいたいと願いますが、残念ながらスーパーマンではありません。必ず、弱り元気を失います。肉体的な疲れは休養すれば回復するでしょうが、心が弱るとき何によって力を得るでしょうか。それは神様の力によらなければ回復できません。神様を信頼して待ち望むとき、神様の力が弱った心を持ち上げ、聖霊の風によって持ち運んでくださいます。(KE)
5月13日
「わたしたちは主を知ろう、せつに主を知ることを求めよう。主はあしたの光のように必ず現れいで、冬の雨のように、わたしたちに臨み、春の雨のように地を潤される。」ホセア6:3
何事でも知ろうと求めなければ得られません。神様を知るにも積極的に求めなければ知ることが出来ません。また、知識として頭で知ることと、体験的に知る方法とがあります。しかし、神様については知識として知っても役に立ちません。毎日の出来事をとおして、神様に手で触れ、交わり、味わうことで深く主を知りたいものです。(KE)
「すなわち、およそ百歳となって、彼自身のからだが死んだ状態であり、また、サラの胎が不妊であるのを認めながらも、なお彼の信仰は弱らなかった。」ローマ4:19
信仰の父と言われるアブラハムについて語られた言葉ですが、彼の信仰の真骨頂は、「認めながらも」の姿勢です。とかく人は「見ざる」「聞かざる」で盲目的に信じようとしますが、それでは真の信仰といえません。悪い知らせを聞いても、状態を見ても、神様にはできない事がありませんと信じ続けることが大切です。(KE)
5月11日
「主に感謝せよ、主は恵みふかく、そのいつくしみはとこしえに絶えることがない。」詩篇118:1
今年もはや五月となりました。この間にもいろいろなことがありましたし、今もその中で悩んでいるでしょう。しかし、どのような事情・境遇にあってもすべてのことをつかさどり、持ち運ばれる神様は、「恵みふかく、そのいつくしみ」豊かな方です。その方の手にゆだねて、今あることを心から感謝しようではありませんか。(KE)
5月10日
「柔らかい答は憤りをとどめ、激しい言葉は怒りをひきおこす。」箴言15:1
人と人との争いは、ごく些細な口論から始まります。「売り言葉に買い言葉」というように、相手の態度に振り回される結果です。問題は相手にあるのではなく、自分にあるのです。相手の激しい言葉に支配され影響されるとき、こちらも一層激しくなります。そうである限り、相手の土俵に引き込まれているのです。それを断ち切るには柔をもって剛を制すること。イエス様の生涯はそのような生き方です。まず、平和をつくる者となってください。(KE)
5月9日
「翌日、一同が山を降りて来ると、大ぜいの群衆がイエスを出迎えた。」ルカ9:37
これは不思議な体験をした「変貌山」の記事に続いた言葉です。イエス様と弟子達は神様の栄光に包まれ、天国の体験をしました。いつまでもそこに留まることを願いましたが、現実の世界へともどってきました。信仰生活は浮世離れした世界で生きるのではなく、苦しみと悩み、病気や貧困などの満ちた人々の中で生きることです。現実の問題や困難をさけるのではなく、その只中に生きる力こそイエス様を信じる信仰です。(KE)
5月8日
「子たちよ。わたしたちは言葉や口先だけで愛するのではなく、行いと真実とをもって愛し合おうではないか。」第一ヨハネ3:18
言葉だけであったり、口先だけの話なら、絵に書いた餅にすぎません。信仰はそのようなものではなく、実態を伴うものです。イエス様の自分を捨てた犠牲的愛を信じるなら、そのように体験しなければ信仰の完成はありません。また、信じたこと、聞いたことを、身をもって経験するとき、それらがはじめて自分のものとなります。「できない」と言わずに、み言葉を信じて踏み出してください。(KE)
5月7日
「シモンは答えて言った、『先生、わたしたちは夜通し働きましたが、何も取れませんでした。しかし、お言葉ですから、網をおろしてみましょう』。」ルカ5:5
ゲネサレ湖畔で群衆に教えられたのち、イエス様はシモンに沖へこぎ出し漁をするよう言いました。シモンは代々漁師の子で、漁の専門家、イエス様は大工の子、どちらが正確な知識があるでしょうか。シモンは自分の経験や知識を捨ててイエス様の言葉を信じました。そして、その通りに行動したのです。主の言葉に従うとき、あなたも神の業を体験します。(KE)
5月6日
「よく聞きなさい。それと同じように、罪人がひとりでも悔い改めるなら、神の御使たちの前でよろこびがあるであろう。」ルカ15:10
世間では数が多ければ勢いを誇示できると思いがちです。しかし、神様が求めておられるのはただあなた一人です。ひとりの悔い改めが天での大きな喜びを引き起こします。それほどに、神様はあなたに心を注いでおられるのです。そのあかしがイエス様の十字架です。どんな境遇にあっても、今日、主のご愛と顧みを感じつつ生きてください。(KE)
5月5日
「すると園丁は答えて言った、『ご主人様、ことしも、そのままにして置いてください。そのまわりを掘って肥料をやって見ますから』。」ルカ13:8
ぶどう園の主人はイチジクの木を植えていました。しかし、実が実らないので切り倒すように命じました。イチジクの木は私たちのことです。いつまでも、神様のみこころに従わないで、自分勝手な生き方をしているゆえに、切り倒そうとしています。園丁であるイエス様は今日も十字架の血を携えてとりなしておられます。悔改めて、主のみこころに従い、実を結ぶ者となりましょう。(KE)