11月11日
「良い地に落ちたのは、御言を聞いたのち、これを正しい良い心でしっかりと守り、耐え忍んで実を結ぶに至る人たちのことである。」ルカ8:15
種まきのたとえです。種とはみことばのこと。種は地にまかれて、やがて実を結びます。水や日照り、肥料も必要ですが、何といっても種がまかれた土壌が問題です。こころが素直で、やわらかく、深く耕されたところであれば、みことばは育ち結果がでます。そのために必要なのは忍耐です。あなたの日々聞く聖言が実となるようにしっかり守り、忍耐しましょう。(KE)
11月11日
「良い地に落ちたのは、御言を聞いたのち、これを正しい良い心でしっかりと守り、耐え忍んで実を結ぶに至る人たちのことである。」ルカ8:15
種まきのたとえです。種とはみことばのこと。種は地にまかれて、やがて実を結びます。水や日照り、肥料も必要ですが、何といっても種がまかれた土壌が問題です。こころが素直で、やわらかく、深く耕されたところであれば、みことばは育ち結果がでます。そのために必要なのは忍耐です。あなたの日々聞く聖言が実となるようにしっかり守り、忍耐しましょう。(KE)
11月10日
「だれも悪をもって悪に報いないように心がけ、お互に、またみんなに対して、いつも善を追い求めなさい。」第一テサロニケ5:15
神様が私たちに求めておられることは、実に小さなことです。みことばのように、日々の生活のなかで、小さな悪に善をもって答えるだけです。ところが、現実ではこれが大変困難です。売り言葉に買い言葉、一言の悪口に非難の応酬へと拡大して収拾がつかなくなります。そうならないために、相手に善いことをしようと「心がける」、心の向きをかえることが大切です。(KE)
11月9日
「このように、あなたがたは主キリスト・イエスを受けいれたのだから、彼にあって歩きなさい。」コロサイ2:6
イエス様を主と信じること、これが「受け入れる」ことです。「主」でありますから、イエス様の命令に従います。また、イエス様のしもべであります。そうなると、当然日々の生き方が変るはずです。自分の損得利害や情欲・感情に従えなくなります。そのように、生き方が変らなければ信じるとはいえません。イエス様にあって歩くことが私たちの救いであり、幸いを得る道です。(KE)
11月8日
「おのれを低くして、死に至るまで、しかも十字架の死に至るまで従順であられた。」ピリピ2:8
人は自分より強い者には卑屈なまでに従順になり、弱い者には高慢不遜になりやすいものです。そのために、行動や存在が不安定になり、根ざすところの無い浮き草のようです。イエス様は本来人のあるべき姿です。絶対不動の神様に徹底して従うことを努めるのです。たとえそれが死の道であっても、神様のみこころに服従するとき、神様もまたそれに応答してくださいます。主に倣う者となってください。(KE)
11月7日
「わたしたちの戦いは、血肉に対するものではなく、もろもろの支配と、権威と、やみの世の主権者、また天上にいる悪の霊に対する戦いである。」エペソ6:12
信仰生活はある意味で戦いの連続です。神様を知らなかったら有りえない戦いです。神様に敵対する力は私たちのうちにあるもので、外側の境遇などではありません。私たちを不安に落としいれ、怒りに駆り立て、恐れを抱かせて、失望落胆させ、絶望的な死へ追いやる力、これがサタンの姿です。自分のなかに働く悪の力に打ち勝つには十字架による以外にありません。(KE)
11月6日
「だから、植える者も水をそそぐ者も、ともに取るに足りない。大事なのは、成長させて下さる神のみである。」第一コリント3:7
人はどんなに小さなことでも、自分の手柄、誇りにしようとしますが、考えると自分は有っても無くてもいいもの、取って代わる者はいくらでもいます。しかし、神様に代わる者はなく、また神様がいらっしゃらなければ何ひとつことは起らないし、ありえません。だからこそ、すべての栄光を主に帰すこと、これが私たちのすべきことであって、誇るものは何もありません。(KE)
11月5日
「神は、神を愛する者たち、すなわち、ご計画に従って召された者たちと共に働いて、万事を益となるようにして下さることを、わたしたちは知っている。」ローマ8:28
神様は救いを信じる者たちと共に生きてくださって、人生の隅々まで干渉しておられます。私達は無知蒙昧であっても、神様は全知全能な方、これ以外にないと言えることを備え導いてくださいます。ですから、失望したり落胆したりしないでください。失敗を成功に、悲しみを喜びに、つぶやきを感謝に、対立を和解へ変えてくださいます。(KE)
11月4日
「神の御旨を行って約束のものを受けるため、あなたがたに必要なのは、忍耐である。」ヘブル10:36
私達は「信仰」とよく言いますが、それはまた「忍耐」と言い換えることが出来ます。ただ、一般的な「忍耐」は、どうなるかわからないが、ほかに方法や手段がないから、ただ我慢することです。しかし、ここで言われる「忍耐」は神様の約束、み言葉を信じて、その結果を楽しみつつ待つことです。だから、信仰に生きるとき、お先真っ暗ではなく、お先はばら色、よろこびです。大いに期待しつつ待ち望みましょう。(KE)
11月2日
「弟子たちは皆イエスを見捨てて逃げ去った。」マルコ14:50
ゲッセマネの園で祈られたのち、イエス様は祭司長や律法学者らの手に捕らえられました。そのとき弟子達は皆逃げ去って、だれもいませんでした。あれほど慕っていた弟子達ですが、自分の身に害が及ぶことを恐れて、義理も人情もすべて吹っ飛んでしまったのです。しかし、私は彼らの弱さを非難できません。私も彼らの仲間です。どんな境遇・事態のなかでもたえず主のそばに留まる力と勇気を与えてくださるようにと祈るばかりです。(KE)
11月1日
「またあなたがたの頭の毛までも、みな数えられている。」マタイ10:30
野鳥を観察する人たちは餌場に集まる鳥をすばやく数えます。しかし、彼らでも自分の頭髪が何本あるのか知らないでしょう。神様はそれを数えていると言うのですから、なんだか恐ろしい気がします。この言葉に続いて、「それだから、恐れることはない」とあります。確かに神様はすべてお見通しですから、安心だとも言えます。知られているのが怖いと感じるか、それとも安心だと思うのか、これは神様への信頼のバロメーターです。(KE)