御霊は全ての人に与えられる力です。

7月21日

「すなわち、謙遜の限りをつくし、涙を流し、ユダヤ人の陰謀によってわたしの身に及んだ数々の試練の中にあって、主に仕えてきた。」使徒20:19

使徒パウロの生き様を語った言葉ですが、「主に仕えてきた」に注目してください。イエス様の救いを受けることは、イエス様に仕える者となることです。と言われても、どうやって見えない方に仕えるのかと思われます。それは聖霊、神の霊に導かれ、従うことです。御霊は全ての人に与えられる力です。聖霊を信じて、心に促される導きに謙遜に従うとき、自分にない力を体験します。(KE)

「見て」「手で触り」「味わう」など、実体験にまさるものはありません。

7月20日

「ピリポは彼に言った、『きて見なさい』。」ヨハネ1:46b

ピリポはイエス様に会って、大喜びをしましたが、ナタナエルはナザレから立派な人物など出るはずがないと主張しました。何とかイエス様を伝えたいと願い、ピリポが言った言葉です。「きて見なさい」。「百聞は一見にしかず」といわれるように、言葉巧みに説明を尽くしても、ものの実相は伝わりません。まさに「見て」「手で触り」「味わう」など、実体験にまさるものはありません。イエス様も、万巻の書より、みことばを信じて体験して悟ることが大切です。(KE)

苦しみや悩みがなくなるわけではありません。むしろ、多くなることもあります。

7月19日

「あなたがたをキリストにある永遠の栄光に招き入れて下さったあふるる恵みの神は、しばらくの苦しみの後、あなたがたをいやし、強め、力づけ、不動のものとして下さるであろう。」第一ペテロ5:10

イエス様に救われたからと言って、苦しみや悩みがなくなるわけではありません。むしろ、多くなることもあります。しかし、それらの苦しみ悩みは、イエス様の救いによって、私たちを損なうためのものではなく、私達の益のため、「いやし、強め、力づけ、不動」にするためのものです。しかも、それは「しばらく」の期間です。(KE)

命のために求めるべきものはただ一つ、「主を求めよ」だけです。

7月18日

「あなたがたは主を求めよ、そして生きよ。」アモス5:6a

私達は日々何を求めて生きているでしょうか。健康を、お金を、地位・名誉を、いろんなものを求めて生きようとします。それらが命の源だと思うからです。しかし、生きるため、命のために求めるべきものはただ一つ、「主を求めよ」だけです。神様には私たちが求める以上のものが、どんなものでも豊かに備わっているのです。しかも、主は気前のよい方です。求めるならば惜しみなく、豊かに溢れるばかりに与えてくださいます。(KE)

ただ、神様のわざを祈り求めることです。

7月17日

「こうして彼らはそのつるぎを打ちかえて、すきとし、そのやりを打ちかえて、かまとし、国は国にむかって、つるぎをあげず、彼らはもはや戦いのことを学ばない。」イザヤ2:4b

平和を願い、国連本部の庭にこのみ言葉を題材にした彫像があります。しかし、この半世紀以上にわたって、戦争のなかった日は一日として世界にはありません。このみことばが成就するのは、全ての人が神様を畏れ敬い、神様に仲裁者となっていただくときです。それには「○○運動」も、「○○会議」も、役に立ちません。ただ、神様のわざを祈り求めることです。(KE)

 

聖霊の宮として造り上げられる私達の姿でもあります。

7月16日

「宮は建てる時に、石切り場で切り整えた石をもって造ったので、建てている間は宮のうちには、つちも、おのも、その他の鉄器もその音が聞えなかった。」 列王上6:7

ソロモン王が手がけた神殿建設の記事ですが、実に不思議な話です。大きな建造物でありながら、道具を使う音がしません。静けさの中で工事が着々と進行していきます。これは聖霊の宮として造り上げられる私達の姿でもあります。主はいまも私達の内外をきよめ、整え、宮に相応しいものにしようと、物音一つ立てないで、わざを進めているのです。(KE)

イエス様の救いは人をつくりかえることです。

7月15日

「あなたがたが新たに生れたのは、朽ちる種からではなく、朽ちない種から、すなわち、神の変ることのない生ける御言によったのである。」第一ペテロ1:23

多くの人は何とか自分を変えたいと願っています。そのため、苦しい修行や自己改革のさまざまな方法を試みますが、自分の力ではどうにもなりません。ところが、イエス様の救いは人をつくりかえることです。その方法は神様の「みことば」を素直に信じ、従うだけです。神様の言葉は種のように命が秘められています。今日も、「みことば」の命を頂きましょう。(KE)

主は常にあなたの側にあります。

7月14日

「わたしはふして眠り、また目をさます。主がわたしをささえられるからだ。わたしを囲んで立ち構えるちよろずの民をもわたしは恐れない。」詩篇3:5-6

この詩篇の記者のように、心からの安心を得て休むことができれば、どんなに幸いなことでしょう。これほど確信して、神様に信頼したいものです。その秘訣は十字架を信じる以外にありません。それは愛するゆえに、あなたのためにたてられたものだからです。神様はあなたと共にいて、味方となり、全ての敵から守ってくださいます。主は常にあなたの側にあります。(KE)

私たちもまた同じように歩む模範を残されたのです。

7月13日

「もしあなたのあだが飢えているならば、パンを与えて食べさせ、もしかわいているならば水を与えて飲ませよ。こうするのは、火を彼のこうべに積むのである、主はあなたに報いられる。」箴言25:21-22

「敵に塩を送る」という故事がありますが、神様は罪人であり、敵であった私達のためにイエス様をこの世に送って、この事を実践してくださいました。それは私たちもまた同じように歩む模範を残されたのです。しかし、それを実行するには、神様が報いてくださることを信じなければできません。(KE)

自立した人として生きるにはイエス様の御心を生きる以外にありません。

7月12日

「ペテロが言った、『金銀はわたしには無い。しかし、わたしにあるものをあげよう。ナザレ人イエス・キリストの名によって歩きなさい』。」使徒3:6

「歩く」とは生活すること、生きることです。あなたは何によって生活していますか。多くの人は「金銀」に代表される生活の糧、お金や健康、仕事などによって生きていると思っています。そうである限り、いつまでも「生まれながら足のきかない男」と同じく、「施し」で生きるようなものです。自立した人として生きるにはイエス様の御心を生きる以外にありません。(KE)