他人のことよりもあなた自身がどうであるか神様は問われます。

7月1日

「他人の僕をさばくあなたは、いったい、何者であるか。彼が立つのも倒れるのも、その主人によるのである。しかし、彼は立つようになる。主は彼を立たせることができるからである。」ローマ14:4

私達は他人のことが気になる性分のようです。他人の一挙手一投足、言葉の端々まであれこれ口をはさんで争いになるのです。私達は神様のもとにある「僕」にすぎません。お互いしもべですから、私たちの所作言動を裁かれるのは、主人である神様です。他人のことよりもあなた自身がどうであるか神様は問われます。(KE)

毎日、神様は私たちのために新しいことを始めてくださいます。

6月30日

「見よ、わたしは新しい事をなす。やがてそれは起る、あなたがたはそれを知らないのか。わたしは荒野に道を設け、さばくに川を流れさせる。」イザヤ43:19

神様はすべてのものの根源です。私たちの生活も人の知恵やわざによらず、神様の力、知恵、わざによるものです。毎日、神様は私たちのために新しいことを始めてくださいます。時には、願わないこと、いやな事であるかもしれませんが、それらの背後に隠された神様の意図、摂理が必ずあります。人の想像、知識を超えた神様のわざに期待しましょう。(KE)

神様の言葉は「食べる」ためのものです。

6月29日

「わたしはみ言葉を与えられて、それを食べました。み言葉は、わたしに喜びとなり、心の楽しみとなりました。万軍の神、主よ、わたしは、あなたの名をもってとなえられている者です。」エレミヤ15:16

神様の言葉は鑑賞したり、批評し、研究するためではなく、「食べる」ためのものです。食べたものは岨嚼され、形はなくなり、分解されて吸収されます。それが血となり肉となり、エネルギーを生み出すのです。同様に、「み言葉」を自分自身に取り込み、生活の力とするとき、喜び、楽しみが生まれてきます。(KE)

神様は大きな力ある方。目を高く上げて神様を見てください。

6月28日

「目を高くあげて、だれが、これらのものを創造したかを見よ。」イザヤ40:26a

普段の生活では上を向くより下を見るほうが多いようです。そのため、小さなこと、些細なことに囚われて、大きなものに気がつきません。心のありようも同じです。目先のこと周囲の小さなことに心が支配されて、暗く沈んだものになります。神様は大きな力ある方。目を高く上げて神様を見てください。目の前の悩みも問題も何と小さく、なんとつまらないものかと思われます。心を常に神様へ向けておきましょう。不安も恐れも心配も消えます。(KE)

神様に頼らなければならない者であることを誇り、公言したのです。

6月27日

「主はわが岩、わが城、わたしを救う者、わが神、わが寄り頼む岩、わが盾、わが救の角、わが高きやぐらです。」詩篇18:2

ダビデ王の歌と表題に書かれていますが、一国の王が何かにすがらなければならないのでは勤まりません。民に信頼されてこそ王です。しかし、ダビデ王は自分の弱さを隠さず、むしろ神様に頼らなければならない者であることを誇り、公言したのです。神様は彼の絶大な信頼に答えてくださいました。私たちは神様をどのような方としているでしょうか。「主はわが○○」と言い得るなら幸いです。(KE)

あなたを料理と譬えたらどんな味でしょうか。

6月26日

「塩はよいものである。しかし、もしその塩の味がぬけたら、何によってその味が取りもどされようか。あなたがた自身の内に塩を持ちなさい。そして、互に和らぎなさい。」マルコ9:50

日本語に「塩梅」がいい、悪いという言葉があります。料理の味加減を表すことばですが、殊に、料理をするとき塩は不可欠です。塩気のない食事ほど不味いものはありません。また、「ぜんざい」などの甘いものでも適度な塩を隠し味とします。それによって深みが出るからです。あなたを料理と譬えたらどんな味でしょうか。(KE)

神様は哀れみのゆえに忍耐しておられます。

6月25日

「そのとき、ふたりの者が畑にいると、ひとりは取り去られ、ひとりは取り残されるであろう。ふたりの女がうすをひいていると、ひとりは取り去られ、ひとりは残されるであろう。」マタイ24:40,41

神様はすべての人が救われるように願って、哀れみのゆえに忍耐しておられます。神様は愛の方ですが、同時に「義」なる方でもあります。世の終りのとき、全てのものが裁かれます。みことばのように、その裁きは曖昧ではなく、過酷で峻厳です。神様のご愛と恵みを軽んじるなら救われる道は失われます。(KE)

神様の言葉は人の知識や理解力を超えたものです。

6月24日

「あなたがたは、神のいましめをさしおいて、人間の言伝えを固執している。」マルコ7:8

世の人の言葉や先祖伝来の言い伝えなどはたやすく信じ込みます。ところが、神様の言葉、聖書の言葉をなかなか信じようとしません。神様の言葉(いましめ)を素直に信じるにはこの世の常識、言い伝え、習慣などを離れなければ信じられないからです。神様の言葉は人の知識や理解力を超えたものです。私達は固定観念に縛られ、そのため狭く限られた選択肢しかありませんが、神様の言葉を信じると無限の可能性が出てきます。(KE)

与えられているものを感謝する心へ変ることが今求められています。

6月23日

「それから人々にむかって言われた、『あらゆる貪欲に対してよくよく警戒しなさい。たといたくさんの物を持っていても、人のいのちは、持ち物にはよらないのである』。」ルカ12:15

日本をはじめ世界の各国々は豊かさを求めて自然を破壊し、地球の温暖化を引き起こしています。その根本は豊かな物質によって命が増し加わると誤解した結果です。「貪欲」は偶像礼拝であって罪だと言われています。必要以上のものを持ちたいと言う欲求から、与えられているものを感謝する心へ変ることが今求められています。(KE)

 

私たちの願いを聞いてくださらないはずはありません。

6月22日

「王は彼女に言った、『王妃エステルよ、何を求めるのか。あなたの願いは何か。国の半ばでもあなたに与えよう』。」エステル5:3

ペルシャ王国の王妃となったエステルは、同胞の危機にあたって大胆に王の前に出ました。必死の覚悟で立つ王妃にかけた王の言葉です。これはまた神様が私たちにかけてくださる呼びかけです。「何を求めるのか。あなたの願いは何か」と。神様は御子イエス様の命をも惜しまない方。まして、私たちの願いを聞いてくださらないはずはありません。ただ王妃のような切なる願いが必要です。(KE)