私たちの目指すべきは永遠の命の冠です。

10月11日

「しかし、すべて競技をする者は、何ごとにも節制をする。彼らは朽ちる冠を得るためにそうするが、わたしたちは朽ちない冠を得るためにそうするのである。」第一コリント9:25

オリンピック選手やその他の運動選手は、それぞれの競技で賞を得ようと日々訓練を怠りません。その努力は涙ぐましいものです。自分の好きなこと、食べることや遊ぶことも止めて、栄冠を得ることに努めます。しかし、それは次の世代に取って代わられるものです。私たちの目指すべきは永遠の命の冠です。目標をしっかり見据えて励み努めましょう。(KE)

自分の考え、計画が最善にして最高だと思いがちです。

10月10日

「ああ深いかな、神の知恵と知識との富は。そのさばきは窮めがたく、その道は測りがたい。」ローマ11:33

人は自分の考え、計画が最善にして最高だと思いがちです。しかし、どんなに賢い人であっても、神様の知恵、知識には到底かないません。それどころか、ゼロに等しいものです。しかも、私たちの人生、この世の生涯は神様のご計画とわざによって成り立っているのです。人の努力や力(知力・体力・財力など)で生きていると思い上がっているなら、笑止千万です。今日も、神様のみ手に導かれて生きてください。(KE)

何を模範とするかによって、その人の人生が変わります。

10月9日

「あなたがたは、実に、そうするようにと召されたのである。キリストも、あなたがたのために苦しみを受け、御足の跡を踏み従うようにと、模範を残されたのである。」第一ペテロ2:21

人は他人からすぐに影響を受けやすいものです。それだけに何を模範とするかによって、その人の人生が変わります。私たちの倣うべきものはイエス様の生涯です。主がどのような姿勢で神様に仕えてこられたか、自らの心をしっかり点検しつつ、私達も主の御心を共有し、その心を生きようではありませんか。そのために救いへ導かれたのですから。(KE)

神様が選びたてておられます。

10月8日

「しかし後になって、ダビデはサウルの上着のすそを切ったことに、心の責めを感じた。」サムエル上24:5

ダビデはサウル王様から命を狙われ、ユダの野を彷徨していました。偶然にも、寝ている王様に出会い、ダビデの部下はここで王様の命を取るよう進言しましたが、彼は害意のない事をあかしするため、「上着のすそ」を切り取って逃げ延びたのです。しかし、神様が選びたてておられるのに、それを尊ばず、神様の御心から逸れたように感じたのです。神様の思いを尊ぶダビデの姿勢に倣おうではありませんか。(KE)

神様はそのような役目のためにモーセを選ばれたとも言えます。

10月7日

「それゆえ、主は彼らを滅ぼそうと言われた。しかし主のお選びになったモーセは破れ口で主のみ前に立ち、み怒りを引きかえして、滅びを免れさせた。」詩篇106:23

神の民が神様の御心に背いて怒りを引き起こし、滅ぼされようとしたことがありました。モーセは神様の前に立ち、民のために神様の怒りをなだめ、心を翻させたのです。神様はそのような役目のためにモーセを選ばれたとも言えます。私たちも滅び行く民へ神様の哀れみを乞う者として選ばれたのではないでしょうか。(KE)

イエス様の十字架の死はすべての人々のための死です。例外はありません。

10月6日

「この弱い兄弟のためにも、キリストは死なれたのである。」第一コリント8:11b

イエス様の救いは、ある時代、ある民族に限られたようなものではなく、過去・現在・未来にわたってすべての人々に与えられたものです。イエス様の十字架の死はすべての人々のための死です。例外はありません。いうならば、天国行きの切符をすべての人がもらっているのですが、改札口を通ろうとしないので列車に乗り損なっているのです。「あなたも救われているのですよ」と教えてあげようではありませんか。(KE)

私たちがイエス様に出会ったのは、なんらかの機会に「聞いた」からにほかなりません。

「したがって、信仰は聞くことによるのであり、聞くことはキリストの言葉から来るのである。」ローマ10:17

私たちがイエス様に出会ったのは、手段や方法、時期や場合は千差万別でしょうが、なんらかの機会にイエス様について「聞いた」からにほかなりません。それはまさに千載一遇の出会いだったと言えます。気がつかないうちに、神様はそのように導いて、私達もイエス様のことばを語る時や場合が与えられ、他の人々が主と出会うきっかけになることができます。(KE)

十字架のあがないによって、私たちを「聖徒」としてくださったのです。

10月4日

「なぜなら、御霊は、聖徒のために、神の御旨にかなうとりなしをして下さるからである。」ローマ8:27b

「聖徒」とは私たちのことです。そういわれると、恥ずかしい気がしますが、神様は十字架のあがないによって、私たちを「聖徒」としてくださったのです。そればかりか、神の霊、御霊を送って、私たちのうちに住まわせ、神様との間を執り成してくださっています。私達は神様の御心に適うようなことは何ひとつできませんが、ただ御霊の執り成しによって神様の恵みと祝福を受けているのです。感謝しようではありませんか。(KE)

あなたが同じように信仰に生きるのでなければ、なんの意味もありません。

10月3日

「神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神である。あなたがたは非常な思い違いをしている。」マルコ12:27

過去に驚くべき奇跡や不思議を行った神様であっても、今を生きるあなたにとって、今もそのような神様でなければなんの役にもたちません。また、昔、信仰に生きた先祖や先輩がいても、あなたが同じように信仰に生きるのでなければ、それらは過去の勲章であって、現在にはなんの意味もありません。過去に囚われず、「あなたは私の神、全能の神です」と信じようではありませんか。(KE)

イエス様の言葉を信じ、ただ主だけを見上げておれば

 

「しかし、風を見て恐ろしくなり、そしておぼれかけたので、彼は叫んで、『主よ、お助けください』と言った。」マタイ14:30

ガリラヤ湖の水の上をあるいてイエス様が弟子達の舟に近づいてこられました。ペテロが水の上を渡ってみもとに行かせて下さいと求めた時、主はおいでなさいと招かれました。ペテロが水の上を歩きかけたとき、周囲の波を見ました。イエス様の言葉を信じ、ただ主だけを見上げておれば沈まなかったのですが、目をそらせたとき、失敗しました。今日も、みことばを信じ、主に目を注いで生きようではありませんか。(KE)