私たちの汚れ果てたどんなものも、神様に受けいれていただけるものはありません。

10月1日

「わたしは何をもって主のみ前に行き、高き神を拝すべきか。燔祭および当歳の子牛をもってそのみ前に行くべきか。」ミカ6:6

神様と私たちとの違いは天と地、月とすっぽん以上です。私たちの汚れ果てたどんなものも、神様に受けいれていただけるものはありません。まさに絶望的な存在です。それゆえに、神様はイエス様によって十字架の贖いを全うし、その裂かれた肉体の門を通って神様のみ前に立つ者としてくださいました。なんと大きな恵みでしょうか。今日も主の血汐を携え、み前に出ましょう。(KE)

「善」を求めるなら、神様と共にいることを喜ぶことが出来ます

9月30日

「善を求めよ、悪を求めるな。そうすればあなたがたは生きることができる。またあなたがたが言うように、万軍の神、主はあなたがたと共におられる。」アモス5:14

「善」とは人の世の善行ではなく、神様のみこころにほかなりません。また、「悪」とは神様を無視して自分勝手な歩みをすることです。あなたが「善」を求めるなら、神様と共にいることを喜ぶことが出来ますが、「悪」を求めるなら、神様と共に居ることができないばかりか、むしろ、神様の前から隠れようとするでしょう。(KE)

誉れや栄光を自分のものとして、神様の前に頭が高くなりがちです。

9月29日

「主よ、栄光をわれらにではなく、われらにではなく、あなたのいつくしみと、まこととのゆえに、ただ、み名にのみ帰してください。」詩篇115:1

「恥じはわがもの、誉は主のもの」と言われるように、主に栄光を帰すこと、これが私たちのなすべきことです。しかし、気がつかないうちに、誉れや栄光を自分のものとして、高慢になり、感謝を忘れ、神様の前に頭が高くなりがちです。み言葉に「われらにではなく」と二度繰り返しています。それほどに徹底して主を褒め称え、感謝讃美を奉げて、主を喜ぼうではありませんか。(KE)

この事業はモーセのためではなく、神様の事業なのです。

9月28日

「こうして主のしもべモーセは主の言葉のとおりにモアブの地で死んだ。」申命記34:5

モーセは神の民を約束の地、カナンへ導いて来ましたが、そこへ入ることが出来ませんでした。一大事業を完成させる直前に召されるなど、実に無念残念という感じがします。しかし、この事業はモーセのためではなく、神様の事業なのです。彼はその補助者に過ぎません。私共も同様に神様の壮大なドラマの一こまとして生かされています。使命が終わると、退場するほかありません。人情の入る隙間のない神様の厳粛な摂理です。(KE)

目の前の風雨に驚かされ、神様のみ手が見えないだけです。

9月27日

「とこしえにいます神はあなたのすみかであり、下には永遠の腕がある。」申命記33:27a

厚い雨雲に覆われた嵐の時でも、雲を突き抜けて上昇すると、そこには決して消えることのない太陽が輝いています。そのように、私たちがどんな境遇にあろうと、神様は過去、現在、未来にわたって、決して変らず、常に大能の腕で支え、持ち運んでおられます。目の前の風雨に驚かされ、揺れ動く木々の騒ぎに心奪われて、神様のみ手が見えないだけです。今日も、あなたを抱きかかえておられる主の腕を感じつつ生きてください。(KE)

 

私たちの求めるものは、平穏で安心して過ごす日ではないでしょうか。

9月26日

「片手に物を満たして平穏であるのは、両手に物を満たして労苦し、風を捕えるのにまさる。」伝道4:6

人は何を尊いとするか、その価値観が問われます。物質的な豊かさによって、心の安心、平安を失うとすれば、むしろ乏しくても平安であるほうがはるかに願わしいことです。あり余る豊かさは、それを得るための労苦を補うどころか、泡沫のごとく消え去ってしまいます。私たちの求めるものは、平穏で安心して過ごす日の一日でも多くあることではないでしょうか。あなたは何によって平穏を得ようとしていますか。(KE)

強くして下さる方によって、何事でもすることができる

9月25日

「あなたがたは、この世ではなやみがある。しかし、勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝っている。」ヨハネ16:33bc

イエス様を信じるクリスチャンにとって、いつまでも自分の弱さを嘆くことは正しいことではありません。イエス様は、これからではなく、「すでに」勝利してくださったのです。かつては弱く、力なく、役立たずでしたが、今は、「強くして下さる方によって、何事でもすることができる」のです。「無理です」「出来ません」などの逃げ口上はやめて、弱さを通してあらわれるキリストの力を発動しましょう。(KE)

これほどまでにあなたを愛してくれるものがいるでしょうか。

9月24日

「あなたはわが目に尊く、重んぜられるもの、わたしはあなたを愛するがゆえに、あなたの代りに人を与え、あなたの命の代りに民を与える。」イザヤ43:4

神様が私たちをどんなに愛しているかを語った、愛の言葉です。愛するゆえにどんなものでも犠牲にしても惜しくない。その証拠として、神様のひとり子、御子を世に遣わし、私たちの罪を贖う供え物とされたのです。これほどまでにあなたを愛してくれるものがいるでしょうか。この愛を心に抱いて生きてください。どんな困難にも打ち勝つことができます。(KE)

私たちのどこを取っても神様の子らしいところは全くありません。

9月23日

「このように、あなたがたは子であるのだから、神はわたしたちの心の中に、『アバ、父よ』と呼ぶ御子の霊を送って下さったのである。」ガラテヤ4:6

あなたも、私も、神様の「子」であると言われます。なんと驚くべきことでしょうか。私たちのどこを取っても神様の子らしいところは全くありません。しかし、どんな状態にあっても、ただ聖霊が宿ってくださるゆえに神様の子であり、その実証が「祈り」です。あなたも「アバ、父よ」と、子になりきって、神様を呼びましょう。(KE)

神様は悪いことではなく、良いことをされるからです。

9月22日

「事の終りはその初めよりも良い。耐え忍ぶ心は、おごり高ぶる心にまさる。」伝道7:8

世間でも「終わりよければすべて良し」と言います。それは結果を見て言えることです。しかし、常にこの先は今より悪くなると考えがちです。昨今の世界情勢を見聞きすると、悪くなる一方としか思われませんが、神様のご支配を信じる時、必ずや「終りは初めよりも良い」と期待することができます。神様は悪いことではなく、良いことをされるからです。神様を信じて耐え忍ぶとき、あなたの人生の終りは今よりも良いものになります。(KE)