ただ神様の言葉だけをたよりに作業を進めたのです。

6月21日

「そこで主は彼のうしろの戸を閉ざされた。」創世記7:16b

ノアは神様の命によって箱舟を作りました。はじめた時、彼はその全体計画を全く知らず、ただ神様の言葉だけをたよりに作業を進めたのです。命じられたように全ての生き物を箱舟に入れおわったとき、箱舟の戸が閉ざされました。ノアが閉めたのではありません。「主は・・・閉ざされた」のです。もはや内側からも外側からも、それを開くことはできません。箱舟はイエス様の十字架です。今は救いの戸が今や閉ざされようとしている終末です。あなたは大丈夫?(KE)

創造者である神様はあなたのことを内外共にすべて知っています。

6月20日

「主よ、あなたはわたしを探り、わたしを知りつくされました。あなたはわがすわるをも、立つをも知り、遠くからわが思いをわきまえられます。」詩篇139:1-2

自分のことを誰も知ってくれないと嘆きますが、どんなに身近な家族であっても、その人の思いや心の隅々を知り尽くすことは出来ません。人と人との関係には限界があります。しかし、創造者である神様はあなたのことを内外共にすべて知っています。これはなんと慰められることでしょう。ことごとく知られているのだから、神様の前で飾らず裸になりましょう。(KE)

隠しているつもりでも、神様の目には全て明らかです。

6月19日

「わざわいなるかな、おのが計りごとを主に深く隠す者。彼らは暗い中でわざを行い、『だれがわれわれを見るか、だれがわれわれのことを知るか』と言う。」イザヤ29:15

人が悪しきことを思い計る時、誰も知るものがいないと思っています。しかし、「頭隠して尻隠さず」のように、隠しているつもりでも、神様の目には全て明らかです。神様の視線を絶えず感じることができるなら、幸いな生涯を送ることが出来ます。企業は政治家の不公正な行為や虚偽も、その原因は神様に見られている事を忘れるからです。(KE)

無条件で信じることがすべてです。

6月18日

「すると、イエスはそのぶどう酒を受けて、『すべてが終った』と言われ、首をたれて息をひきとられた。」ヨハネ19:30

「すべてが終わった」とは、何が終わったのでしょうか。イエス様の生涯が終わっただけでなく、人々の罪を贖うわざが完成したことであり、イエス様を信じる者の古き人生も終わったのです。今なお、解決のつかない問題、悩み、先の見えない闇にあるとも、「すべてが終わった」と信じて、大胆に主の十字架を見上げてください。無条件で信じることがすべてです。(KE)

祈りは神様の無限の力を引き出すカギです。

6月17日

「よく聞いておくがよい。だれでもこの山に、動き出して、海の中にはいれと言い、その言ったことは必ず成ると、心に疑わないで信じるなら、そのとおりに成るであろう。」 マルコ11:23

力強い言葉ではないでしょうか。神様を信じる信仰に立って生きるとき、絶望、行き止まり、お先真っ暗とはなりません。いや、むしろ常に暗やみを押しのけ、明るい光を見つつ生きる生活です。どんなことも肯定的に受け取ることができるのです。祈りは神様の無限の力を引き出すカギです。(KE)

何もかも確かだとなって始めるのではありません。

6月16日

「信仰によって、アブラハムは、受け継ぐべき地に出て行けとの召しをこうむった時、それに従い、行く先を知らないで出て行った。」 ヘブル11:8

信仰に生きるのは「石橋を叩いて渡る」生活ではなく、神様を知らない人から見ると無謀な冒険的な生き方に見えるでしょう。予算を組み、スケジュールを立て、根回しも終り、何もかも確かだとなって始めるのではありません。「行き先を知らない」で、ただ神様の約束を信じて踏み出すとき、道なきところに道が備えられ神様の祝福を受けるのです。(KE)

預言者にならなければ通ることはなかったでしょう。

「なにゆえにわたしは胎内を出てきて、悩みと悲しみに会い、恥を受けて一生を過ごすのか。」エレミヤ20:18

エレミヤは、世と妥協できず、神様の言葉を真っ直ぐに語る預言者でした。もちろん、当時、そうでない預言者も多数いました。その結果、この言葉のように、塗炭の苦しみを味わったのです。預言者にならなければ通ることはなかったでしょう。パウロもまた然り。私たちもイエス様を信じたばかりに、余分な困難、非難、中傷、疎外を味わうなら、主の召しに従う正真正銘のキリスト者です。(KE)

神様の義を信じて自分をゆだねることです。

6月14日

「義に飢えかわいている人たちは、さいわいである、彼らは飽き足りるようになるであろう。」マタイ5:6

「義」を求めるとは周囲の人々に自分の「義」を押し付けることではありません。ましてや、義侠心や正義感に駆られることでもありません。「まことの義」を求めること、神様の義を信じて自分をゆだねることです。世には義憤を感じさせる事態が山積しています。神様はそれらを放置しているように思われますが、そのとき信仰にたって主の義、裁きに委ねるのです。主は必ず報われる方です。(KE)

主の言葉に触れて自分の姿を知りました。

6月13日

「すると、彼はこの言葉を聞いて、顔を曇らせ、悲しみながら立ち去った。たくさんの資産を持っていたからである。」マルコ10:22

品行方正、非の打ちどころのない人物。それなりに自己満足している。それでもまだ求めることがあってイエス様のところへ来ましたが、主の言葉に触れて自分の姿を知りました。高く自己評価し、どんなに誇ってみても、主の言葉の前には「顔を曇らせ」「悲しみ」「立ち去る」ほかありません。主の言葉の光に照らされて自分を知り、主の憐みを素直に求めるなら、どんなに幸いでしょうか。(KE)

神様は私たちの後ろ盾、責任者となり、守り、助け、報いてくださいます。

6月12日

「わたしが世のものでないように、彼らも世のものではありません。」ヨハネ17:16

イエス様を信じて救われた者は、この世から選び分けられ、神様の側につくもの、神の子となります。その結果、この世の生き方と違ってきて、神様を知らない世の人々から誤解されたり、疎外されたり、変人扱いされたり、時には非難されることもあります。世の多数がイエス様を受け入れないのですから当然のことです。その代わり、神様は私たちの後ろ盾、責任者となり、守り、助け、報いてくださいます。(KE)