6月11日
「ところが、わたしたちが受けたのは、この世の霊ではなく、神からの霊である。それによって、神から賜わった恵みを悟るためである。」第一コリント2:12
世には霊にまつわることが多くあります。悪霊、背後霊、亡霊、霊障など、不気味なものを表す言葉として用いられます。確かにさまざまな霊が存在するでしょうが、「神からの霊」はそれらと異質なものです。人に祟ったり悪しきことを起こすものではなく、私たちに神様の恵みを悟らせる力です。この霊によらなければだれも神様を知ることができません。(KE)
6月11日
「ところが、わたしたちが受けたのは、この世の霊ではなく、神からの霊である。それによって、神から賜わった恵みを悟るためである。」第一コリント2:12
世には霊にまつわることが多くあります。悪霊、背後霊、亡霊、霊障など、不気味なものを表す言葉として用いられます。確かにさまざまな霊が存在するでしょうが、「神からの霊」はそれらと異質なものです。人に祟ったり悪しきことを起こすものではなく、私たちに神様の恵みを悟らせる力です。この霊によらなければだれも神様を知ることができません。(KE)
6月10日
「あなたがたは、世の光である。山の上にある町は隠れることができない。」マタイ5:14
イエス様はまことの「光」として世に来られました。闇の世に光を照らし、命と望み、喜びと慰めをもたらすためです。主はよみがえって私達のうちに宿り、器に入れられた光となって無数に散らされました。あなたもその一つの光源です。内にある光を消すことのないように、また周囲の闇を照らすために高く掲げようではありませんか。密かな隠れたところに置いておくと光が消えてしまいます。(KE)
6月9日
「わたしを強くして下さるかたによって、何事でもすることができる。」ピリピ4:13
人の力は小さくて、走ることも、飛ぶこともできませんが、車に乗ると早く走ることが出来ます。また、新幹線や飛行機だともっと早く走り、飛びます。人が突然強くなったのではなく、乗り物に自分を置いた結果です。私達は力弱く小さくても、力あるものの中に自分を置いておくなら、無力を嘆く必要はありません。神様はできないことのない方です。この方が握ってくださるのですから、これほど心強いことはありません。(KE)
6月8日
「狭い門からはいれ。滅びにいたる門は大きく、その道は広い。そして、そこからはいって行く者が多い。命にいたる門は狭く、その道は細い。そして、それを見いだす者が少ない。」マタイ7:13-14
イエス様に救われ幸いを味わう時、多くの人が救われるようにと願います。しかし、イエス様の救いを頂くことは同時に少数者になることです。この世から聖別され主に従う道は世捨て人ではありませんが、狭く細い道です。日本の社会で少数者になることは厳しい困難を伴います。しかし、そこに命があるのです。(KE)
6月7日
「主よ、あなたのみわざはいかに多いことであろう。あなたはこれらをみな知恵をもって造られた。地はあなたの造られたもので満ちている。」詩篇104:24
私達は不平・不満の多いものです。その原因は「自分」の願い、思いにしがみつくからです。そこには神様を思う心がありません。私達は被造物であり、神様は造物主です。神様の手によらないものはありません。しかも、人の知恵・知識を越えたご計画に基づいて創造されたものばかりです。心を低くして神様を信じて見直す時、驚きと感謝以外にありません。(KE)
6月6日
「あなたがたは、この世ではなやみがある。しかし、勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝っている。」ヨハネ16:33b
イエス様を信じて信仰に生きる生活にも悩みが尽きません。信仰は役に立たないように思われますが、そうではありません。なぜなら、イエス様も私たちと同じ、否、それ以上の悩みを経験しましたから、なやみの中で信仰にたっていると、主の力を味わうことが出来、主を知り、主と連帯し、勝利の凱旋に導かれるのです。だから、勇気を出して、勝利者なる主を見上げて前進しましょう。(KE)
6月5日
「わたしたちは、生きるのも主のために生き、死ぬのも主のために死ぬ。だから、生きるにしても死ぬにしても、わたしたちは主のものなのである。」ローマ14:8
現代は死を恐れて、生きることばかりに精力を傾けます。死は敗者であって、長く生きつづけることが正義であり、勝利者であるかのように。しかし、生きることも死ぬことも実は同じです。私たちが「主のもの」となりきるとき、生きることも死ぬことも超越したものとなります。生死にこだわり続けるかぎり、あなたの存在の価値が失われます。(KE)
6月4日
「すべて重荷を負うて苦労している者は、わたしのもとにきなさい。あなたがたを休ませてあげよう。」マタイ11:28
人生にはさまざまな重荷があり、途切れることがありません。一つ二つならば、なんとか耐えられますが、絶え間なく負わされると息切れがします。重荷を肩代わりしてくれる人がおればどんなに楽でしょうか。イエス様は「わたしのもとにきなさい」と言われます。あなたの心を重くしているものがあるなら、遠慮せずに、みことばを信じて委ねてください。イエス様は重荷を取ってくださいます。(KE)
6月3日
「信仰によって、彼は王の憤りをも恐れず、エジプトを立ち去った。彼は、見えないかたを見ているようにして、忍びとおした。」ヘブル11:27
信仰はある種の「賭け」です。宝くじを買う時、僅かでも当るかもしれないと、その期待に賭けます。ただ、信仰は限られた金額を賭けるのではなく、命を賭けるのです。モーセは様々な問題・困難のなかで、「見えないかた」に全身全霊を賭けて決断し、忍耐し続けました。「忍びとおす」とは結果を考えないで、命の尽きるまで忍ぶのです。「見えないかた」を見ていますか。(KE)
6月2日
「きよめられたのは、十人ではなかったか。ほかの九人は、どこにいるのか。神をほめたたえるために帰ってきたものは、この他国人のほかにはいないのか。」ルカ17:17-18
イエス様によって病を癒された十人のうち、サマリヤ人がひとり主のもとに感謝を奉げました。私達は神様からどんな大きな恵みをいただいていることか考えると、どんなに感謝しても足りません。イエス様が願っておられることは、私たちが神様を褒め称え、感謝することです。それによって神様の栄光があらわされるのです。(KE)