私たちの小さな人生も、どれだけの時間が残されているでしょうか。

9月12日

「あなたがたは空の模様を見分けることを知りながら、時のしるしを見分けることができないのか。」マタイ16:3b

日本は四季折々の変化に富んだ国です。それだけに常々自然の変化によって「時」を読み取る生活が身についています。イエス様はそのように今の時を知れと勧めています。始まりのあるものはすべて終りがあります。大宇宙も、私たちの小さな人生も、終りに向かって進んでいる今の時代、どれだけの時間が残されているでしょうか。終りのときの間近きことを知り、いかに生きるべきか真剣に求めましょう。(KE)

今、主のもとに来ることが出来たあなたはまことに幸いです。

9月11日

「わたしをつかわされた父が引きよせて下さらなければ、だれもわたしに来ることはできない。」ヨハネ6:44

イエス様の救いはすべての人に開かれたものです。それなのに、多くの人々は主のもとに来ようとしません。熱心に誘ったり、勧めたりしますが、徒労に終わります。それは聖書的と言えます。なぜなら、父なる神様が引き寄せてくださらなければ、誰もイエス様のところに来ることが出来ないのです。今、主のもとに来ることが出来たあなたはまことに幸いです。神様が引き寄せてくださったのですから。(KE)

礼拝とは、私達は神様のものであることを告白することです。

9月10日

「あなたがたのからだを、神に喜ばれる、生きた、聖なる供え物としてささげなさい。それが、あなたがたのなすべき霊的な礼拝である。」ローマ12:1bc

そもそも礼拝とはなんでしょうか。それは神様が全てのものの主であり、支配者であり、私達は神様のものであることを告白することです。「ささげなさい」と言われますが、そもそも自分のものではありません。自分の体も含めて、家庭も、仕事も、家族も、ことごとく神様の所有です。そのことを徹底して認めようではありませんか。(KE)

「見えない神のかたち」を見えるものとしたのがイエス様です。

9月9日

「御子は、見えない神のかたちであって、すべての造られたものに先だって生れたかたである。」コロサイ1:15

神様は霊的な存在ですから、私たちの五感を通して知ることはできません。しかし、ただひとり、イエス様は神の位を離れて世に来てくださいました。それは神様の栄光を人の目に見えるように現すためでもあったのです。「見えない神のかたち」を見えるものとしたのがイエス様です。しかも、イエス様は世にこられる遥か以前、創世のときに、すでに神様と共におられたのです。(KE)

イエス様は、私たちと同じように苦しみや弱さを知り、憐み深い方です。

9月8日

「この大祭司は、わたしたちの弱さを思いやることのできないようなかたではない。罪は犯されなかったが、すべてのことについて、わたしたちと同じように試錬に会われたのである。」ヘブル4:15

大祭司となられたイエス様は、わたしたちの味方となってくださるのです。「同病相哀れむ」と言う様に、私たちと同じように苦しみや弱さを知り、憐み深い方です。そのような方が大祭司となり、神様との間で執り成しておられます。だから、どんなことでもまずこの方に打ち明けようではありませんか。(KE)

他の人から徹底的に論破されようと、その人の信念や心は変わりません。

9月7日

「愚かで無知な論議をやめなさい。それは、あなたが知っているとおり、ただ争いに終るだけである。」第二テモテ2:23

若い頃は喧々諤々と論議することが好きでした。しかし、何十年か経ってみると、一体何をそんなに議論することがあっただろうかと思います。他の人から徹底的に論破されようと、その人の信念や心は変わりません。むしろ怒りや憎しみが残るだけです。人は神様から諭されなければ悟ることも出来ないし、人は神様によらなければ変われません。今は論議するより祈るほうが楽しく幸いです。(KE)

イエス様をまるまま、トータルで自分のものにすることです。

9月6日

「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者には、永遠の命があり、わたしはその人を終りの日によみがえらせるであろう。」ヨハネ6:54

これはまた過激な言葉です。イエス様の肉を食べ、血を飲むというのですから驚きです。しかし、これは比喩的な言説であって、真意はイエス様をまるまま、トータルで自分のものにすることです。「飲む」「食べる」とは、食事をするように食べたものが体の一部となり、力となるように、イエス様を信じて、みことばを実践することにほかなりません。そのとき永遠の命に生きるのです。(KE)

十字架を仰ぎつつ、主の愛を信じつづけましょう

9月5日

「神はそのひとり子を賜わったほどに、この世を愛して下さった。それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである。」ヨハネ3:16

私たちの周囲を見ると、どこに神様の愛があるかと疑わせるものばかりです。確かに、見えるところはそうであっても、神様の愛は十字架を抜きにして知ることができません。主は、私たちの罪の犠牲として、愛するひとり子イエス様を十字架に断罪することによって、限りない愛をあかししたのです。今、与えられた情況がどんなであれ、十字架を仰ぎつつ、主の愛を信じつづけましょう。(KE)

自分の欲望のままに生きることは、自分を愛することではありません。

9月4日

「第二もこれと同様である、『自分を愛するようにあなたの隣り人を愛せよ』。」マタイ22:39

「自分を愛するように」と言われていますが、あなたは本当に自分を愛しているでしょうか。自分のしたいように、自分の欲望のままに生きることが自分を愛することだと言うなら、それは間違いです。それは自分を傷つけ、痛め、廃人にしてしまうだけです。神様に造られた人としての資質を高めることが自分を愛することです。自分を真に愛するようになると、他の人の徳を高め、益を計り、愛することができます。(KE)

「受ける」方が幸いだと思いがちです

9月3日

「また『受けるよりは与える方が、さいわいである』と言われた主イエスの言葉を記憶しているべきことを、万事について教え示したのである。」 使徒20:35b

 

イエス様はどこで語られたのか、福音書にはありませんが、この言葉はイエス様の生涯を要約したものと言えます。同時に、私たちにも「同じようにしなさい」と勧めておられます。「受ける」方が幸いだと思いがちですが、その発想を逆転するとき、イエス様に倣うことができます。まず、惜しまず与えてください。あなたの心に大きな変化が生まれます。(KE)