試練を通して磨くほど輝き、値打ちが出てきます。だから喜ばしいのです。

5月21日

「わたしの兄弟たちよ。あなたがたが、いろいろな試錬に会った場合、それをむしろ非常に喜ばしいことと思いなさい。」ヤコブ1:2

これはまた奇妙なことばです。「試練」に会うことを喜ばしいと言うのですから。確かに、試練は嫌な事、不幸なことと思います。しかし、試練によらなければ得られないものがあります。神様は人に多くの可能性を与えてくれました。まるでダイヤの原石のように。手が加えられなければいつまでも変りませんが、試練を通して磨くほど輝き、値打ちが出てきます。だから喜ばしいのです。(KE)

何が起っても大丈夫という心の備えをする時が与えられているのです。

5月21日

「見よ、今は恵みの時、見よ、今は救の日である。」第二コリント6:2b

ニュースを見ると、多くの思いがけない事件や災害が頻発しています。世の終りが近づいていると言うほかありません。しかし、どのような事態に置かれていても、今は「恵みの時」「救いの日」であると言われます。なぜでしょうか。それは神様の救をうけ、祈りが聞かれる時だからです。自分の身に及ばなかったからよかったではなく、何が起っても大丈夫という心の備えをする時が与えられているのです。今こそ、真剣に生きるときではないでしょうか。(KE)

与えられているのです。不足を言わず、主に感謝したいものです。

5月20日

「イエスは彼らを見つめて言われた、『人にはできないが、神にはできる。神はなんでもできるからである』。」マルコ10:27

 

私達は弱く小さな者にすぎません。そのため、できない事が多く、いらだったり落胆したりしますが、それは間違いです。まず、「人には出来ない」ことを認めなければなりません。ゼロです。今、何か出来ることがあれば、それは神様がさせてくださるからであって、私ではありません。「なんでもできる」神様によって必要なものを備えられ、与えられているのです。不足を言わず、主に感謝したいものです。(KE)

今日も、神様を探し、見出してください。きっと思いがけない事に潜んでいますから。

5月19日

「わたしはわたしを求めなかった者に問われることを喜び、わたしを尋ねなかった者に見いだされることを喜んだ。わたしはわが名を呼ばなかった国民に言った、『わたしはここにいる、わたしはここにいる』と。」イザヤ65:1

 

神様は隠れたところにいて、私たちが自発の心で求め、探すことを願っています。日々の生活の場は様々なことに満ちています。「こんなところに?」と思われるなかに、神様は隠れておられます。今日も、神様を探し、見出してください。きっと思いがけない事に潜んでいますから。(KE)

無感動な心を砕いて、喜びを新しくしましょう。

5月18日

「しかし、あなたに対して責むべきことがある。あなたは初めの愛から離れてしまった。」黙示2:4

「喉もと過ぎれば熱さ忘る」と言われるように、何事でも最初の感動や恐怖など、時が過ぎると忘れてしまうものです。それもまた幸いなことでもありますが、忘れてはならないことがあります。殊に、神様のご愛を知り、救われた喜びと感謝は決して忘れてはなりません。花嫁のときの新鮮で初々しい思いを主に対して持ち続けたいものです。焼き冷ましの餅のような、固く、無感動な心を砕いて、喜びを新しくしましょう。(KE)

必要なときに神様の絶大な力が注がれれば出来ないことはないのです。

5月17日

「わたしを強くして下さるかたによって、何事でもすることができる。」ピリピ4:13

聖徒パウロは肉体的な弱さを持っていました。そのため、神様に強くして欲しいと願っていました。やがて、自分の弱さを通して神様の力があらわれることを知りました。弱くて知恵も無く、小さな私たちにも、必要なときに神様の絶大な力が注がれれば出来ないことはないのです。どのような高級車であっても、ガソリンがなければ走りません。日々、神様からの力を与えられて生きようではありませんか。(KE)

絶えず、自分を顧みて、取り除くべきものが何かを自覚しましょう

5月16日

「銀から、かなくそを除け、そうすれば、銀細工人が器を造る材料となる。」箴言25:4

鉱石から金属を取り出しただけでは不純物が多くて役に立ちません。それをさらに丹念に精錬して「かなくそ」(不純物)を取り除くと、素晴らしい材料となります。神様は私たちを神の作品に造ろうとしておられます。素材が良くないと良い結果が得られません。そのため、私たちを精錬し、鍛え、神様の意に適ったものとしようと、さまざまな事の中を通しておられます。絶えず、自分を顧みて、取り除くべきものが何かを自覚しましょう。(KE)

主の愛を信じて、安らかに、喜んで、くつろいで、愛の手に任せましょう。

5月15日

「父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛したのである。わたしの愛のうちにいなさい。」ヨハネ15:9

 

神様はひとり子のいのちをも惜しまないほどに、私たちを愛しておられます。そのような神様は私たちに悪しきことをなさるはずがありません。それどころか、「愛のうちに」いなさいと言われます。幼子が母の胸に安らいでいるように、主の愛を信じて、安らかに、喜んで、くつろいで、愛の手に任せましょう。(KE)

心が弱るとき何によって力を得るでしょうか。

「しかし主を待ち望む者は新たなる力を得、わしのように翼をはって、のぼることができる。走っても疲れることなく、歩いても弱ることはない。」イザヤ40:31

 

人は元気でいたいと願いますが、残念ながらスーパーマンではありません。必ず、弱り元気を失います。肉体的な疲れは休養すれば回復するでしょうが、心が弱るとき何によって力を得るでしょうか。それは神様の力によらなければ回復できません。神様を信頼して待ち望むとき、神様の力が弱った心を持ち上げ、聖霊の風によって持ち運んでくださいます。(KE)

神様については知識として知っても役に立ちません。

5月13日

「わたしたちは主を知ろう、せつに主を知ることを求めよう。主はあしたの光のように必ず現れいで、冬の雨のように、わたしたちに臨み、春の雨のように地を潤される。」ホセア6:3

 

何事でも知ろうと求めなければ得られません。神様を知るにも積極的に求めなければ知ることが出来ません。また、知識として頭で知ることと、体験的に知る方法とがあります。しかし、神様については知識として知っても役に立ちません。毎日の出来事をとおして、神様に手で触れ、交わり、味わうことで深く主を知りたいものです。(KE)