主を求めるのは、幸いなことでしょう

5月26日

「神よ、しかが谷川を慕いあえぐように、わが魂もあなたを慕いあえぐ」。詩篇42:1

 手負いの鹿は最後の水を求めて、危険をもいとわず流れを捜すと言われます。それほどの渇きをもって、主を求めているでしょうか。片時も離れることができないほどの渇望を抱いて、主を求めるならばどんなに幸いなことでしょう。憂鬱な心、無気力な心、何も楽しめない心を癒し、活力を与えてくれるものは、御言葉を通して注がれる主の命です。(KE)

今日の通読箇所

歴代志 下 21章

マタイによる福音書17章

どのように実現されるのか分かりません

5月25日

「そして言った、『わたしは、そこに行ったのち、ぜひローマをも見なければならない』」。使徒19:21b

 パウロはローマに出かけて福音を語りたいと願っていました。ただ、それがどのように実現されるのかまったく分かりません。彼はエルサレムで捕らえられ、カイザリヤの地で軟禁されてしまいます。到底、ローマどころではありません。しかし、ローマ市民として皇帝カイサルによる裁判を求めて上訴し、その結果、囚人としてローマへ護送されたのです。神様のみわざは想像を超えたものだと痛感します。(KE)

今日の通読箇所

歴代志 下 20章

マタイによる福音書16章

彼らのように主に仕える道があります

5月24日
「キリスト・イエスにあるわたしの同労者プリスカとアクラとに、よろしく言ってほしい」。ローマ16:3

 使徒パウロは「ローマ人への手紙」の最後16章にまるで映画の終りに流れるエンドロールのように、多くの人の名が記されています。そのうちの夫妻アクラとプリスカの名を初めに記して、感謝を表しています。彼らはローマで迫害に会い、コリントに来ていた時、パウロと出会い、彼の伝道活動を支援しました。直接伝道できなくても、彼らのように主に仕える道があります。(KE)

今日の通読箇所

歴代志 下 19章

マタイによる福音書15章

背後に神様の御手があったのです

5月23日
「ペテロはついて出て行った。彼には御使のしわざが現実のこととは考えられず、ただ幻を見ているように思われた」。使徒12:9

 ペテロは捕らえられて獄屋の奥深くに閉じ込められました。厳重な警戒がされた中、彼を助けるものがいました。聖書はそれを「御使のしわざ」と語っています。恐らく、彼を救おうとする人々がいたのでしょうが、その背後に神様の御手があったのです。そこに霊が働きます。人のわざではなく、主のなさる事と信じる。今日、あなたに主が遣わされる御使いはどなたでしょう。(KE)

今日の通読箇所

歴代志 下 18章

マタイによる福音書14章

神様をまことに小さなものとしています

5月22日
「イスラエルの神、救主よ、まことに、あなたはご自分を隠しておられる神である」。イザヤ45:15

 神様は目に見えず、声も聞こえません。それゆえ、主の存在を信じるほかありません。もし、見たり聞いたりできるならば、そのことに捉われて、神様をまことに小さなものとしてしまいます。人の五感を通して理解し尽くせるような神様であれば、信頼するに足りません。私たちには見えず聞こえずですが、神様はあなたを今日も見守って導かれます。(KE)

今日の通読箇所

歴代志 下 17章

マタイによる福音書13章

人は自分の力を誇示する者となりました

5月21日
「すべてわが名をもってとなえられる者をこさせよ。わたしは彼らをわが栄光のために創造し、これを造り、これを仕立てた」。イザヤ43:7

 神様が私たちを創造されたのは、わたしたちが満足するためではありません。神様はご自分の栄光のため、その偉大さを表そうと造られたのです。しかし、すべての人は神様の栄光を奪い取って、自分を誇り、自分の力を誇示する者となりました。それは神様への反逆の大罪です。神様を畏れて、主に栄光をお返しし、あなたの生き様を通して神様を証してください。(KE)

今日の通読箇所

歴代志 下 16章

マタイによる福音書12章

命が溢れる沃野に変えることができます

5月20日
「わたしは、かわいた地に水を注ぎ、干からびた地に流れをそそぎ、わが霊をあなたの子らにそそぎ、わが恵みをあなたの子孫に与えるからである」。イザヤ44:3

 神様の為さることをすべて推し量ることはできません。神様は人の計画や思いをはるかに超えた事をなさるからです。しかも神様は荒涼とした不毛の地である私たちの心を、命が溢れる沃野に変えることができます。神様の霊が宿るからです。(KE)

今日の通読箇所

歴代志 下 15章

マタイによる福音書11章

人を裁くのは神様です

5月19日
「人をさばくな。自分がさばかれないためである」マタイ7:1

 世間でも、“天に向かってツバキをはく”と言います。他人を非難したり、裁いたりすると、同じように仕返しをうけることです。自業自得とも言われますが、聖書の言葉はすべてのものを支配し、報われる神のいますことを語っています。どんなに身近な人だろうと、その人を裁くのは神様です。(KE)

今日の通読箇所

歴代志 下 14章

マタイによる福音書10章

大きな失敗から救われることもあります

5月18日
「わたしたちを試みに会わせないで、悪しき者からお救いください」。マタイ6:13

 「主の祈り」の一節です。人生には大なり小なり試練があります。確かに試練は嫌なものです。なければどんなに楽だろうかと思いますが、それによって大きな失敗から救われることもあります。決して無駄な事ではありませんが、試練なく正しい道に歩めることは感謝なことです。そのために日々祈りつつ歩もうではありませんか。(KE)

今日の通読箇所

歴代志 下 13章

マタイによる福音書9章

試錬は神様の恵みの時だからです

5月17日
「あなたがたを耐えられないような試錬に会わせることはないばかりか、試錬と同時に、それに耐えられるように、のがれる道も備えて下さるのである」。第一コリント10:13c

 人間生きる限り、試錬を逃れることはできません。それは神様の恵みの時だからです。試錬によって鍛えられ、豊かな義の実を結ぶことができます。しかし、私たちは弱いものですから、試錬に負けてしまいます。そうならないよう、主は逃れる道も備えておられます。主の懇ろな行き届いた扱いに委ねてください。(KE)

今日の通読箇所

歴代志 下 12章

マタイによる福音書8章