1月8日
「わたしは知っている。すべて神がなさる事は永遠に変ることがなく、これに加えることも、これから取ることもできない」。伝道3:14ab
人のすることはまことに気まぐれです。気の向くまま、風の吹くまま、どんなにでも変わります。しかし、神様のわざは首尾一貫、起承転結が貫かれています。私たちは自分のいい加減さに嫌気がさしますが、神様は私たちのいい加減さも飲み込んで、不変不動のものにしてしまうのです。(KE)
今日の通読箇所
1月8日
「わたしは知っている。すべて神がなさる事は永遠に変ることがなく、これに加えることも、これから取ることもできない」。伝道3:14ab
人のすることはまことに気まぐれです。気の向くまま、風の吹くまま、どんなにでも変わります。しかし、神様のわざは首尾一貫、起承転結が貫かれています。私たちは自分のいい加減さに嫌気がさしますが、神様は私たちのいい加減さも飲み込んで、不変不動のものにしてしまうのです。(KE)
今日の通読箇所
1月7日
「天が下のすべての事には季節があり、すべてのわざには時がある」。伝道3:1
最近は技術の進歩によって、農産物の季節感がなくなってきました。四季の変化を楽しむ者にとっては残念なことですが、だからと言って、すべてがそうなったのではありません。むしろ、そのようなことはごくわずかな現象であって、人生は神様の定められた時と季節に沿って持ち運ばれています。「時」を支配している方は神様です。(KE)
今日の通読箇所
1月6日
「木が良ければ、その実も良いとし、木が悪ければ、その実も悪いとせよ。木はその実でわかるからである」。マタイ12:33
聖書ではしばしば実を結ぶことが語られます。それは聖書の言葉を実際に生活し、それに沿って具体的に行動することがなければ、ただそれは言葉だけで終わってしまいます。みことばを信じて歩むあなたの実がどんなであるか、良い実であれば元木であるあなたの名誉です。しかし、悪い実を結ぶなら、悪い元木を切り捨てるほかありません。(KE)
今日の通読箇所
1月5日
「おおわれたもので、現れてこないものはなく、隠れているもので、知られてこないものはない」。マタイ10:26b
凶悪事件の犯人が分からず、迷宮入りになるケースがあります。確かに、限られた捜査期間では犯人を発見できなくても、長い年月のうちに、必ずどこかで露見するものです。なぜなら、神様の目をかいくぐることはできないからです。別件で刑務所にいながら、自分の犯した過去の犯罪を寝言で自白して刑に服することになった人もいます。(KE)
今日の通読箇所
1月4日
「人をさばくな。自分がさばかれないためである」。マタイ7:1
人は他者をみると、すぐにさばきたくなります。「さばく」というほど大げさなことではなく、小さなこと、服装であったり、髪型であったり、手足の振る舞いであったり、どんなことでも「さばく」、批判する対象となります。その結果、関係が悪くなり、交際を絶つまでになるのです。まず自分がさばくことをやめる。これがまず一番大切なことです。(KE)
今日の通読箇所
1月3日
「わたしたちは主を知ろう、せつに主を知ることを求めよう」。ホセア6:3a
神様はとてつもなく大きく、その全体を知ることは出来ません。しかし、相手を知らなければ信頼感は生まれません。それゆえ、私たちが神様を信じ、信頼することができるように、求める者にご自身をあらわしてくださいます。大切なのは、主を知りたいと願い求めることです。すると、日々の小さな出来事にも主の知恵や力、恵みなどを体験させてくださいます。(KE)
今日の通読箇所
1月2日
「わたしはあなたのとがを雲のように吹き払い、あなたの罪を霧のように消した。わたしに立ち返れ、わたしはあなたをあがなったから」。イザヤ44:22
人は身勝手なもので、受けた傷をいつまでも忘れようとしません。しかし神様は私たちが犯した罪や咎を跡かたなく消したと宣言しておられます。そうでありながら、小さなことにこだわって、神様の元に帰ろうとしない。まことに不幸なことです。神様のご愛の御思いを素直に受けましょう。(KE)
今日の通読箇所
1月1日
「門よ、こうべをあげよ。とこしえの戸よ、あがれ。栄光の王がはいられる。この栄光の王とはだれか。万軍の主、これこそ栄光の王である」。詩篇24:9,10
明けましておめでとうございます。新しい年が始まりました。この一年がどのようになるか、皆目分かりません。しかし、栄光の王、主なるイエス様が先頭に立って前進して下さいますから、この方から目をそらさず、神の武具に身を固めて、どのような戦いの中にも主に従ってまいりましょう。(KE)
今日の通読箇所
12月31日
「見よ、わたしはすぐに来る。報いを携えてきて、それぞれのしわざに応じて報いよう」。黙示22:12
いよいよ2023年も最終日となりました。始まりがあれば、必ず終りもあります。それはすべての事に言えることですが、普段の生活ではあまり意識されません。格別世の終りを思うことはいかに少ないことでしょうか。神様に生かされた人の終り、死は肉体が朽ちることではなく、世の終り、終末のとき滅ぼされることです。主の十字架の恵みによって、永遠の御国を約束されたあなたの労苦に報いるため、主が再び来てくださる時を待ち望みましょう。(KE)
今日の通読箇所