6月3日
「もしあなたの右の手が罪を犯させるなら、それを切って捨てなさい」。マタイ5:30a
厳しい言葉ですが、さらに続けて五体満足で地獄に行くより益であるとあります。それほどに神様の裁きは峻厳なものです。その方が私たちを愛するゆえにひとり子を世に遣わし、あなたの罪を犯した右手となって命を絶たれてくださいました。その結果、あなたを神の子と呼んでくださいます。(KE)
今日の通読箇所
6月3日
「もしあなたの右の手が罪を犯させるなら、それを切って捨てなさい」。マタイ5:30a
厳しい言葉ですが、さらに続けて五体満足で地獄に行くより益であるとあります。それほどに神様の裁きは峻厳なものです。その方が私たちを愛するゆえにひとり子を世に遣わし、あなたの罪を犯した右手となって命を絶たれてくださいました。その結果、あなたを神の子と呼んでくださいます。(KE)
今日の通読箇所
6月2日
「また天から声があって言った、『これはわたしの愛する子、わたしの心にかなう者である』」。マタイ3:17
イエス様が洗礼を受けられ、水から上がったとき、天から聞こえた神様の言葉です。イエス様は神の御子ですから、当然のことですが、神様の思いはイエス様に続く私たちにも向けられた言葉です。イエス様を信じるあなたも、神様に愛されている者です。しかも、ひとり子の命すら犠牲にするほどあなたを愛しておられるのです。(KE)
今日の通読箇所
6月1日
「あなたは主を避け所とし、いと高き者をすまいとしたので、災はあなたに臨まず、悩みはあなたの天幕に近づくことはない」。詩篇91:9-10
神様に全面的に信頼するとき、悩みと思われることがないわけではありません。ただ、その悩みを受けて、主の力にすがる時、必ず打ち勝つことができます。そのとき、あなたの悩みはなかったものの如く、消え去り、主に信頼する幸いを堅くすることができます。今日も、主を避け所、住まいとして、今ある問題に勝利してください。(KE)
今日の通読箇所
5月31日
「おおよそ、心からあふれることを、口が語るものである」。マタイ12:34c
「口は災いの元」と、世間でも言われます。不用意な一言で相手を傷つけ、自分にも災いが降りかかってきます。一連の舌禍の発端は、こころからあふれ出る一言です。「心にもないことを言いまして」と弁解しますが、決してそうではありません。心にあるものが口をついて出てくるのです。しかし、神様の力によらなければ、自分で心を変えることは出来ません。(KE)
今日の通読箇所
5月30日
「二羽のすずめは一アサリオンで売られているではないか。しかもあなたがたの父の許しがなければ、その一羽も地に落ちることはない」。マタイ10:29
スズメほどありふれて値打ちのないものです。スズメが居ることも気が付かないで過ごしています。そのような小鳥でも神様の支配のもとに置かれているのです。それと同じく、すべての被造物は神様の支配の下で栄枯盛衰を繰り返しています。あなたの今日一日も、父なる神様の御心に従って持ち運ばれているのです。(KE)
今日の通読箇所
5月29日
「呼ばわる者の声がする、『荒野に主の道を備え、さばくに、われわれの神のために、大路をまっすぐにせよ』」。イザヤ40:2
荒野、砂漠など、受ける印象は決して好ましいものではありません。無味乾燥、潤いもない、生命の乏しいところでしょう。これは私たちの心の姿です。情熱は失せ、愛は冷ややかになり、生きる命が消えかけた状態です。しかし、万物の創造者、全能の神に対する姿勢を整えて、神様を尊び、敬うとき、命が輝き、生きる喜びがあふれてきます。(KE)
今日の通読箇所
5月28日
「わたしはみ言葉を与えられて、それを食べました。み言葉は、わたしに喜びとなり、心の楽しみとなりました」。エレミヤ15:16ab
今日も主のみ言葉を与えられ、共に味わうことは何と幸いなことでしょうか。預言者エレミヤは読むだけではなく、御言葉を食べたのです。私たちもただ読むだけではなく、心の碑に刻むとき、喜びとなり、楽しみとなるのです。世には様々な楽しみがありますが、御言葉が与えてくれる喜びや楽しみほど純度の高いものはありません。(KE)
今日の通読箇所
5月27日
「主よ、わたしは知っています、人の道は自身によるのではなく、歩む人が、その歩みを自分で決めることができないことを」。エレミヤ10:23
人は成長するにつれて、支えていたものが外れて、独り立ちしていきます。そうなると、自分の日々の歩みは自分で選び、決めるものだと思い上がってしまいます。見えるところは自立のようですが、決してそうではありません。ものみな生かし、道を備えて歩ませてくださるのは神様であって、自分ではないことをはっきりさせておきましょう。(KE)
今日の通読箇所
5月26日
「神よ、しかが谷川を慕いあえぐように、わが魂もあなたを慕いあえぐ」。詩篇42:1
手負いの鹿は最後の水を求めて、危険をもいとわず流れを捜すと言われます。それほどの渇きをもって、主を求めているでしょうか。片時も離れることができないほどの渇望を抱いて、主を求めるならばどんなに幸いなことでしょう。憂鬱な心、無気力な心、何も楽しめない心を癒し、活力を与えてくれるものは、御言葉を通して注がれる主の命です。(KE)
今日の通読箇所
5月25日
「そして言った、『わたしは、そこに行ったのち、ぜひローマをも見なければならない』」。使徒19:21b
パウロはローマに出かけて福音を語りたいと願っていました。ただ、それがどのように実現されるのかまったく分かりません。彼はエルサレムで捕らえられ、カイザリヤの地で軟禁されてしまいます。到底、ローマどころではありません。しかし、ローマ市民として皇帝カイサルによる裁判を求めて上訴し、その結果、囚人としてローマへ護送されたのです。神様のみわざは想像を超えたものだと痛感します。(KE)
今日の通読箇所