人の歓心を得ることが目的になり神様の報いは受けれません

6月8日
「あなたは施しをする場合、右の手のしていることを左の手に知らせるな」。マタイ6:3

「施し」とは今言うところの慈善活動です。人は自分が良いと思うことをするとき、それを多くの人に知ってもらいたいと思います。また、賞賛を受けるなら、なおさら励むことでしょう。やがて、良き思いと願いで始めたことが、人の歓心を得ることが目的になって、神様の報いを受けることができません。神様は隠れたことを見ておられるのです。(KE)

どんな怒りでも、いい事はありません

6月7日
「怒りをおそくする者は大いなる悟りがあり、気の短い者は愚かさをあらわす」。箴言14:29

先日、ネットやテレビなどのニュースを賑わした立てこもり事件があり、警察官を含め4人が殺害されました。原因は自宅の前の取りすがりの人が話している言葉に怒り、銃を持ち出して殺してしまった。まことに愚かなことをしたと言うほかありません。一呼吸置けば、大事に至らなかったと思います。どんな怒りでも、いい事はありません。(KE)

謙虚に悔い改めるなら、神様は祝福を与えてくださいます

6月6日
「人は自分の愚かさによって道につまずき、かえって心のうちに主をうらむ」。箴言19:3

これは私たちがしばしば経験することです。自分の浅知恵によって事を起こし、失敗すると神様を恨む。これこそ逆恨みです。人は自分が蒔いたものを必ず刈り取ることになります。そのようなとき、素直に自らの浅はかさを認め、謙虚に悔い改めるなら、神様は損失を上回る祝福を与えてくださいます。(KE)

試練や患難があればこそ、受ける恩恵は計り知れません

6月5日
「北風よ、起れ、南風よ、きたれ。わが園を吹いて、そのかおりを広く散らせ」。雅歌4:16

人生には様々な試練や患難があります。多くの人々はそのような苦しみを少しでも少なくしたいと願いますが、思うようにはいきません。しかし、試練や患難と言われるものは人生の時間を無駄にするのではなく、むしろ、それらがあればこそ、受ける恩恵は計り知れません。梅の香りは厳しい寒風でこそ馥郁(ふくいく)と香るのです。(KE)

そうである限り、不安や恐れの数だけ神々が必要となります

6月4日
「人が自分で神々を造ることができましょうか。そういうものは神ではありません」。エレミヤ16:20

例外なく、古来すべての民族、人々は「神」と称する超人的な力を有するものを求めて来ました。その大きな原因は人が弱さを感じ、自然の異常現象、噴火や地震、台風や豪雨による災害、疫病などに不安や恐れを抱き、対抗できないからです。その結果、神仏に縋ることで安心を得ようとします。そうである限り、不安や恐れの数だけ神々が必要となります。真の神様は人を造られたものであって、人によって神様が造られるのではありません。(KE)

患難を耐え、神の愛と真実を味わい神様を知るようになります

6月3日
「彼はこの神、すなわち、死人を生かし、無から有を呼び出される神を信じたのである」。ローマ4:17b

アブラハムの生涯は、一貫して神様を求める生涯であったと言えます。故郷を離れて新天地にやってきますが、波乱万丈の日々です。時折、掛けられる神様の声を聞きつつ、患難を耐え抜いて神様の愛と真実を味わい、深く神様を知るようになります。人生のクライマックス、最大の試練に会います。愛する一人息子イサクを犠牲にせよとの神様の求めに、彼は即座に従います。イサクを失うとも、神様は彼を生かして下さると確信したからです。(KE)

私たちがすでに神様の中に取り込まれているのです

6月2日
「われわれは神のうちに生き、動き、存在しているからである」。使徒17:28a

神様と私たちとの関係は、人と人との相対する関係のようなものではありません。神様は私たちよりもはるかに大きく、広い方です。その大きさ、長さ、高さをはかり知ることは出来ません。なぜなら、私たちがすでにその中に取り込まれているのです。宇宙という大空間に銀河系や地球、その他の無数の星があるように、神様の中に生きているのです。だから、神様から離れることは出来ないのです。(KE)

主の使いが彼を撃ち、瞬時に息が絶えたのです

6月1日
「神に栄光を帰することをしなかったからである」。使徒12:23

ツロとシドンの人々がヘロデ王の怒りに触れていたので、なんとかなだめようと、代表者がうちそろってやってきました。彼らは王様を褒め上げます。ヘロデ王は得意満面、有頂天になったとき、主の使いが彼を撃ち、瞬時に息が絶えたのです。なんと虫にかまれたのです。神様は小さな虫をも御使いとして用いられます。神様の前に高慢になり、高ぶったものになることこそ、悲劇の始まりです。(KE)

不幸なことのようですが、背後に神様の摂理がありました

5月31日
「さて、散らされて行った人たちは、御言を宣べ伝えながら、めぐり歩いた」。使徒8:4

聖霊が注がれた後、使徒たちは大胆に主の甦りを証して、多くの人がイエス様を信じました。その結果、エルサレムにあった教会をはじめ、クリスチャンが大迫害をうけて、各地へと散らされてしまったのです。一見、不幸なことのように思われますが、背後に神様の摂理がありました。迫害によって、むしろ福音がより広く、遠くまで伝えられたのです。悲劇に思えることも、背後に神様の想像できないわざがあるのです。(KE)

主イエスの言葉を頼みとすることが自立した人生です

5月30日
「ペテロが言った、『金銀はわたしには無い。しかし、わたしにあるものをあげよう。ナザレ人イエス・キリストの名によって歩きなさい』」。使徒3:6

宮に続く参道に、生まれながら足の利かない人が物乞いをしていました。彼は宮に詣でる人の情けを受けて生活していたのです。ペテロは彼に命じます。主の名によって歩けと。これは私たちにも主が求められることです。日々の生活にあって、何をよりどころとして生きているか。この世の組織や仕組みに縋って生きるとすれば、自分の足で歩くことが出来ません。主イエスの言葉を頼みとする。これこそ自立した人生です。(KE)