5月19日
「主よ、わが終りと、わが日の数のどれほどであるかをわたしに知らせ、わが命のいかにはかないかを知らせてください」。詩篇39:4
若い方にはなかなか実感できないことかもしれませんが、高齢になってくると、この言葉が身近に迫ってきます。終りのある事は重々知っていながらも、それがいつであるかがわかりません。終りの時がいつであろうと、生きているのは明日ではなく、今日を生きるのです。先のことを思うのではなく、今を生きることに力をつくしましょう。(KE)
5月19日
「主よ、わが終りと、わが日の数のどれほどであるかをわたしに知らせ、わが命のいかにはかないかを知らせてください」。詩篇39:4
若い方にはなかなか実感できないことかもしれませんが、高齢になってくると、この言葉が身近に迫ってきます。終りのある事は重々知っていながらも、それがいつであるかがわかりません。終りの時がいつであろうと、生きているのは明日ではなく、今日を生きるのです。先のことを思うのではなく、今を生きることに力をつくしましょう。(KE)
5月18日
「主はわたしの牧者であって、わたしには乏しいことがない。主はわたしを緑の牧場に伏させ、いこいのみぎわに伴われる」。詩篇23:1-2
羊は自分だけでは命を全うすることができません。なぜなら、自分で牧草地や水場をさがすことができません。それ以上に、外敵に勝つ力がない。何とか群れを成して身を守ろうとしますが、敵に蹴散らされてしまいます。私たちはまさに弱くて小心な羊のようなものです。だから、イエス様が牧者となってくださるのです。今日も、この方の声について行きましょう。(KE)
5月17日
「主は彼の前を過ぎて宣べられた。『主、主、あわれみあり、恵みあり、怒ることおそく、いつくしみと、まこととの豊かなる神』」。出エジプト34:7
シナイ山での騒動の後、神様はイスラエルの民にご自分がどのような神であるかを表してくださいました。これは一言でいえば、「神は愛である」ということです。私たちは時折神様を誤解している時があります。意地悪な神、怒る神、破壊の神、等々。しかし、聖書を通して証している所は、憐れみ、恵み、慈愛、真実などのご性質です。この広やかな愛にすっぽりと浸ってみてはどうでしょうか。(KE)
5月16日
「しかし、もしかなわなければ、どうぞあなたが書きしるされたふみから、わたしの名を消し去ってください」。出エジプト32:32b
モーセが神様に招かれてシナイ山に登ります。その間、イスラエルの民は麓で宿営して、彼の帰りを待ちました。しかし、いつまでも音信不通で、民は不安になり、金で子牛の像をつくり拝む始末です。神様は大変憤られて民を懲らしめようとされますが、モーセは神様の前に立ち、民に代わって自分を抹消せよと迫ります。これが指導者です。(KE)
5月15日
「モーセが手を上げているとイスラエルは勝ち、手を下げるとアマレクが勝った」。出エジプト17:11
イスラエルの民が荒野を旅する途中で、アマレク人たちが戦いを仕掛けてきました。モーセはヨシュアに命じて戦いに出しますが、彼は丘の上にのぼり、両手を天に向かって伸べ、勝利を祈ります。しかし、腕を上にあげるのは疲れますから、次第に腕が下がる。すると、アマレクが優勢になる。腕を上げるとイスラエルが勝つ。まさに祈りの力です。私たちが倦まず、弛まず祈り続ける時、サタンに勝利することが出来ます。アロンとホルの二人が左右からモーセの腕をささえました。共に祈る仲間がいてくれるなら、心強いですね。(KE)
5月14日
「そのとき主はモーセに言われた、『見よ、わたしはあなたがたのために、天からパンを降らせよう。民は出て日々の分を日ごとに集めなければならない』」。出エジプト16:4ab
イスラエルの民が約束の地、カナンを目指して荒野に踏み出してから、40年以上にわたって天からパンを降らせて養ってくださいました。天からのパンをマナと呼びました。それを朝ごとに集めてパンにしたのです。今、私たちのマナはなんでしょうか。それは内なる命を養う神様の言葉、聖書の言葉にほかなりません。今日もみ言葉に養われましょう。(KE)
5月13日
「ののしられても、ののしりかえさず、苦しめられても、おびやかすことをせず、正しいさばきをするかたに、いっさいをゆだねておられた」。第一ペテロ2:23
イエス様の生き様を簡潔に言いあらわした言葉です。また、あなたがたもそうするようにと勧められています。注目すべきことは、主権者は誰であるかをしっかり信じていたのです。自ら復讐したり、非難したり、反撃すら、すべてを父なる神様の支配に委ねました。わたしたちは、ともすると、売り言葉に買い言葉、手を出さずとも激しい言葉の応酬に溜飲を下げますが、そこには主の姿はありません。(KE)
5月12日
「わたしの兄弟たちよ、あなたがたが、いろいろな試錬に会った場合、それをむしろ非常に喜ばしいことと思いなさい」。ヤコブ1:2
世間常識と正反対の言葉です。人は試錬のない日々を過ごしたいと願います。しかし、現実にはむしろ試錬の連続です。辛く苦しかった試錬の日々は自分の人生の汚点だとまで思ってしまいますが、実はそうではないと言われます。試錬によって人は鍛えられ、忍耐が生み出され、それによって清められ、整えられて、欠点のない「完全な出来上がった」人となるからです。今、試錬の中にあると思われるなら、逃げないでしっかり受けてください。(KE)
5月11日
「ああ深いかな、神の知恵と知識との富は。そのさばきは窮めがたく、その道は測りがたい」。ローマ11:33
聖書によれば、森羅万象、万物は神様によって造り出されていると言われます。それはただ単に形あるもの(ハード面)を造られたばかりではなく、それぞれの生き様(ソフト面)をも仕組んでおられます。ですから、自分で造る人生ではなく、神様があなたのために備えられた日々を生かされているのです。神様がどのようなシナリオを持っておられるのか、自分の人生ですら、自分は知らないのです。主が備えられた今日を生きてください。(KE)
5月10日
「各自はそれぞれ心の中で、確信を持っておるべきである」。ローマ14:5b
信仰は純粋に個人の問題です。集団で一つの信条に帰依するとき、決して良い結果を生みません。パウロは当時の社会で守られていた習慣、食べ物を絶ったり、日取りを気にして重んじる行為などは、各自の信じるところに従って「確信を持って」選ぶべきであると勧めています。自分の信条を他者に押し付けることはできません。(KE)