神様の求める義は、神様を信じ畏れ敬うことです

8月31日
「人が義とされるのは、律法の行いによるのではなく、信仰によるのである」。ローマ3:28b

義とは何か、議論すれば難解極まりないものですが、ごく簡単に言えば、神様の前に罪とがのないことです。人は多かれ少なかれ義人でありたいと願います。道徳的、倫理的な行為を積み重ねる、いわゆる善行功徳を積めば、義人だと世間では見られます。しかし、神様の求める義は、万物の創造者、全知全能の神様がおられることを信じ、神様を畏れ敬い生きる人のことです。(KE)

今日の通読箇所

民数記2章

マタイによる福音書8章

神様の求める義は神様を信じ畏れ敬うことです

8月30日
「人が義とされるのは、律法の行いによるのではなく、信仰によるのである」。ローマ3:28b

義とは何か、議論すれば難解極まりないものですが、ごく簡単に言えば、神様の前に罪とがのないことです。人は多かれ少なかれ義人でありたいと願います。道徳的、倫理的な行為を積み重ねる、いわゆる善行功徳を積めば、義人だと世間では見られます。しかし、神様の求める義は、万物の創造者、全知全能の神様がおられることを信じ、神様を畏れ敬い生きる人のことです。(KE)

今日の通読箇所

民数記1章

マタイによる福音書7章

「御使いのわざ」と言い切ってしまうことが大切です

8月29日
「そして御使はペテロのわき腹をつついて起し、「早く起きあがりないさい」と言った。使徒12:7b

ペテロは捕らえられ、牢獄に入れられました。厳重な警戒のもとに置かれ、助かる望みがなかったとき、エルサレムの教会では祈りがささげられていた。その結果、主の使が遣わされ、ペテロを導いて獄の外へと導いたのです。御使いの仕業と言われていますが、具体的に手引きした人がいたのでしょう。しかし、それを「御使いのわざ」と言い切ってしまう。これが大切です。(KE)

今日の通読箇所

レビ記27章

マタイによる福音書6章

不信仰の石を取りのけるとき、神様の力が発揮されます

8月28日
「イエスは言われた、『石を取りのけなさい』」。ヨハネ11:39

ラザロが死んで四日もたった時、イエス様が来られました。主は墓地に案内させます。そこで主は「石を取りのけなさい」と言われます。死者が生き返るとは信じがたい事です。状況は不可能であっても、主の言葉に従って不信仰の石を取りのける。そのとき、神様の力が発揮されます。人の心には出来ないというあきらめ、固定観念がたくさんあります。神様にも出来ないことがあるのでしょうか。(KE)

今日の通読箇所

レビ記26章

マタイによる福音書5章

パウロは今日あるのは神様の恵みによるのだと言いました

8月27日
「あなたがたの切り出された岩と、あなたがたの掘り出された穴とを思いみよ」。イザヤ51:1b

「原点回帰」と言われます。迷ったとき、まず出発した初めのところに戻ってやり直すことです。パウロは今日あるのは神様の恵みによるのだと言いました。私たちも、今日まで生かされたのは神様の恵みと憐れみによるほかありません。神様にとって何ほどの価値もない罪と咎とに死んだものでした。自分がどんな者であったか忘れることなく、今を感謝して生きてください。(KE)

今日の通読箇所

レビ記25章

マタイによる福音書4章

主の導かれることを確信するなら従う事が大切です

8月26日
「各自は惜しむ心からではなく、また、しいられてでもなく、自ら心で決めたとおりにすべきである」。第二コリント9:7a

よく言われることですが、日本人は和を重んじる傾向があります。自分だけ抜きん出ることを躊躇します。しかし、主のために生きるには、人と和することよりも、主の御心を求め、主の導かれることを確信するなら、他者がどうであろうと、そこに従う事が大切です主の御前に悔いのない一日を送ってください。(KE)

今日の通読箇所

レビ記24章

マタイによる福音書3章

イエス様を信じて救われると生きる目的が変わるのです

8月25日
「そして、彼がすべての人のために死んだのは、生きている者がもはや自分のためにではなく、自分のために死んでよみがえったかたのために、生きるためである」。第二コリント5:15

イエス様を信じて救われるとはまさにこのみ言葉に尽きます。生きる目的が変わるのです。自分のためにではなく、主のために生きる。今日もそれぞれ日々の務めに就きますが、していることが何であれ、企業や組織、家族のためではなく、すべては「主のために」であって、主によってその業に遣わされているのです。(KE)

今日の通読箇所

レビ記23章

マタイによる福音書2章

自分の体の仕組みですら、未知の世界です

8月24日
「神の見えない性質、すなわち、神の永遠の力と神性とは、天地創造のこのかた、被造物において知られていて、明らかに認められるからである」。ローマ1:20a

多くの人々は神様の存在を認めようとはしません。神様自身を理解できないからです。しかし、大自然や様々な生き物を観察するなら、まさに神様のわざであるというほかありません。身近な自分の体の仕組みですら、未知の世界です。どんなに科学や技術が進んでも、人そのものを造ることは決してできません。(KE)

今日の通読箇所

レビ記22章

マタイによる福音書1章

事を決める時、あなたは誰に聞きますか

8月23日
「しかし百卒長は、パウロの意見よりも、船長や船主の方を信頼した」。使徒27:11

パウロはローマへと護送されていました。途中、航海が危険な時期になり、どうするか決めなければなりません。パウロは留まるようにと警告しましたが、百卒長は船長らの意見に従い出港します。その結果、大嵐に遭遇、難船の憂き目にあいます。事を決める時、あなたは誰に聞きますか。確かに、経験豊富な人の意見が信頼できそうですが、それ以上に神様の思いを知ることが最善にして最高の判断です。(KE)

今日の通読箇所

レビ記21章

ヨハネの黙示録22章

イエス様はいっさいを捨てて、従い抜かれたのです

8月22日
「それは、わたし自身の考えでするのではなく、わたしをつかわされたかたの、み旨を求めているからである」。ヨハネ5:30

イエス様の生涯を貫いていることは、徹底して父なる神様のみ旨に従う事です。神の御子であるから、ご自分の思いのままにできるはずですが、使命を帯びて遣わされてこの世におられる故、ご自分の思いも、考えも、好き嫌いの感情も、いっさいを捨てて、従い抜かれたのです。私たちも御子の命を代価に買い取られ、主によって今日も遣わされているのです。(KE)

今日の通読箇所

レビ記20章

ヨハネの黙示録21章