よみがえりを信じるとき、あなたの魂が命に満たされます

4月9日
「イエスは彼女に言われた、『わたしはよみがえりであり、命である。わたしを信じる者は、たとい死んでも生きる』」。ヨハネ11:25

今日は主のご復活の記念の日、イースターです。弟子たちは主がよみがえって生きておられることを知って、大変喜びました。その喜びはイエス様を信じる私たちの喜びでもあります。もし主が甦らなかったら、私達の信仰はないに等しい、無意味なものです。しかし、肉体が死滅することは当然ですが、よみがえりを信じるとき、あなたの魂が命に満たされます。キリストの霊があなたを包んでくださるから。(KE)

よみがえって生きておられることこそ、私達の望みです

4月8日
「あなたがたは、なぜ生きた方を死人の中にたずねているのか。そのかたは、ここにはおられない。よみがえられたのだ」。ルカ24:5-6

主は十字架に掛けられ、命を絶たれました。死の闇に沈んでしまわれたのです。もし、そのままに陰府におかれているならば、神様の力は無に等しい。神様の力より人の罪の力が強いはずはありません。陰府(よみ)の力を撃ち砕いて、よみがえって生きておられることこそ、私達の望みです。今、あなたがどんなに深い失望の中にあろうと、甦りの神の力ははるかに強いからです。(KE)

この世の人々を救うために、十字架に捧げてくださいました

4月7日
「そのとき、イエスは言われた、『父よ、彼らをおゆるしください。彼らは何をしているのか、わからずにいるのです』」。ルカ23:34

十字架に掛けられたとき、最初に語った主の言葉です。ご自分の使命、十字架の目的などを端的な言葉で語っています。主は罪にまみれたこの世の人々を永遠の滅びから救うために、神の位を捨て、人の世に住んでくださいました。そして、罪の代償としてご自分を十字架の祭壇に捧げてくださいました。この故に、御子を信じる者は罪なき者とされ、永遠の御国を継ぐ者となるのです。感謝。(KE)

あなたがユダであったら、何と答えますか

4月6日
「イエスを裏切ったユダが答えて言った、『先生、まさか、わたしではないでしょう』。イエスは言われた、『いや、あなただ』」。マタイ26:25

最後の晩餐の席で、主はご自分を裏切ろうとする者がいると言われます。弟子たちはいったい誰だろうとざわめき、口々に「わたしではない」と言い募ります。ユダも直接主に問います。主ははっきりと「いや、あなただ」と言われました。あなたがユダであったら、何と答えますか。残念ながら、彼は悔い改めの時を逃し、サタンの手に振り回され、自死へと落ちていきます。厳粛な思いがします。(KE)

信仰と不信仰との間にたって、心が割かれる思いになります

4月5日
「イエスはその話している言葉を聞き流して、会堂司に言われた、『恐れることはない。ただ信じなさい』」。マルコ5:36

会堂司の娘が瀕死の状態でした。イエス様は求めに応じて出かけましたが、間に合わずに娘は死んだ。これ以上イエス様でも何もできない、と不信仰に囚われる。そのとき、イエス様は周囲の人々の言葉を「聞き流して」、イエス様に徹底して信頼することを勧めます。信仰と不信仰との間にたって、心が割かれる思いになります。まさにそこが勝負どころです。誰のことばを聞き流して、誰の言葉を信じるのですか。(KE)

失望や落胆する時こそ全能の神様を親しく知る時です

4月4日
「わたしは山にむかって目をあげる。わが助けは、どこから来るであろうか。わが助けは、天と地を造られた主から来る」。詩篇121:1-2

長い人生の旅路にあって、しばしば試練や患難に遭い、失望・落胆することがあります。お先真っ暗と思える時、あなたはどうしますか。その時こそ、万物の創造者、全能の神様を親しく知る時です。孤立無援、出口のない袋小路にはまった時こそ、うつむいた頭を上に向けようではありませんか。天地を自在に操る神様に心が定まるとき、明るい将来が開けます。(KE)

昼は雲の柱、夜は火の柱を置いて、導かれたのです

4月3日
「昼は雲をもって彼らを導き、夜は、よもすがら火の光をもって彼らを導かれた」。詩篇78:14

エジプトの地で奴隷の生活を強いられたイスラエルの民は、長年の祈りに応えて、神様はモーセを指導者として選び、ついにエジプトからカナンの地を目指して旅立ちます。当時はコンパスも、地図もない時代。彼らが迷わないように、昼は雲の柱、夜は火の柱を置いて、導かれたのです。40年に及ぶ旅路に同行してくださったのです。その主は、ご聖霊によって、今も私たちを永遠の命の住まいへと導いておられます。(KE)

自分が引き受けざるを得なくなったときが主に従う時です

4月2日

「彼らが出て行くと、シモンという名のクレネ人に出会ったので、イエスの十字架を無理に負わせた」。マタイ27;32

クレネ人シモンはイエス様の連行される場に偶然いました。力尽きて倒れ込む主の代わりに、彼が十字架を負うたのです。図らずも引き受けざるを得なかった彼にとって、迷惑千万だったと思います。しかし、主が担って下さる十字架は、本来私たちが負うべきものでした。今与えられた事態が気に入らなくても、自分が引き受けざるを得なくなったとき、それが主に従う時です。なぜなら、私達が負うべき十字架を主は担って下さったのですから。(KE)

神様のご愛と恵みに感謝することを忘れないように

4月1日
「あなたがたの切り出された岩と、あなたがたの掘り出された穴とを思いみよ」。イザヤ51:1b

いよいよ今日から新しい年度が始まります。学生たちは進級、進学、就職など、会社員などは新しい部署や責任者への昇進昇格など、春の新緑に包まれ初々しい気風がみなぎっています。この時に「初心忘るべからず」と世間では言います。何事も初めの謙遜・感謝、初々しい気持ちを忘れるなと言うことです。神様もどんな境遇から救い出されたかを決して忘れるな、また神様のご愛と恵みに感謝することを忘れないようにと諭されます。(KE)

苦しみを通して、神様のご愛を深く知ることが出来ました

3月31日
「見よ、わたしが大いなる苦しみにあったのは、わが幸福のためであった」。イザヤ38:17a

 ヒゼキヤ王の言葉です。彼は死に至る病を免れて、寿命を15年延ばされたのです。彼は病に罹り、神様に訴えて、泣いて祈りました。主はその涙を見て憐れみ、願いを叶えてくださったのです。しかし、病が癒されることもですが、なによりもこの苦しみを通して、神様のご愛を深く知ることが出来ました。苦しい事も、悲しい事もまんざら捨てたものではありません。そこから得るものがあるのです。(KE)