5月27日
「しかし、信心があって足ることを知るのは、大きな利得である」。第一テモテ6:6
「信心」とは、神様を畏れる心のことです。人知を超えた力と知恵に満ちた神様がおられることを信じるなら、まず心が落ち着きます。さらにどんな境遇に置かれても、望みを持ち続けることが出来ます。そればかりか、満足することが出来ます。たとえ不足することがあろうと、絶大な富を持っておられる神様に信頼している限り、不足を補うばかりか、溢れるばかりに満たして下さるからです。(KE)
5月27日
「しかし、信心があって足ることを知るのは、大きな利得である」。第一テモテ6:6
「信心」とは、神様を畏れる心のことです。人知を超えた力と知恵に満ちた神様がおられることを信じるなら、まず心が落ち着きます。さらにどんな境遇に置かれても、望みを持ち続けることが出来ます。そればかりか、満足することが出来ます。たとえ不足することがあろうと、絶大な富を持っておられる神様に信頼している限り、不足を補うばかりか、溢れるばかりに満たして下さるからです。(KE)
5月26日
「イエスは答えられた、『本人が罪を犯したのでもなく、また、その両親が犯したのでもない。ただ神のみわざが、彼の上に現れるためである』」。ヨハネ9:3
人は不幸と思われる事態に遭遇すると、何が原因だろうかと悩みます。その挙句、自分の生い立ちを嘆いたり、両親や先祖の不始末か何かを責めることで気持ちを収めようとします。イエス様はどのようなことも神様の御心によって存在するのだと言われます。自分にとって良きことも悪しきことも、どれもこれも神様がご自分のために必要とされることで、それによって神様のわざを見ることが出来るのです。(KE)
5月25日
「彼らが死人の中からよみがえるときには、めとったり、とついだりすることはない。彼らは天にいる御使のようなものである」。マルコ12:25
人が死んだ後、どうなるのか知りたいと多くの人は思います。しかし、誰一人死んで生き返った人はイエス様以外にいません。聖書には、肉体の死と魂の死と二つに分けています。まず、人は霊魂、たましいを肉体に宿しているけれど、それは永遠不滅であり、肉体は定められたときになると、失われます。霊魂は御国に帰り、霊の体を纏い、神様に仕える天使のようなものとなるのです。(KE)
5月24日
「だから、あすのことを思いわずらうな。あすのことは、あす自身が思いわずらうであろう。一日の苦労は、その日一日だけで十分である」。マタイ6:34
人生の大部分を思いわずらいのうちに過ごしてきたのではないでしょうか。神様は思い煩うことを嫌われます。なぜなら、思い煩うとき、主権者である神様を忘れているからです。ご愛の御心によって万物を統べ収めておられる方が、あなたの明日を造られるのです。だから、今日を悔いなく生きることに心を尽くしてください。明日のことは主の御手にゆだねて。(KE)
5月23日
「求めよ、そうすれば、与えられるであろう。捜せ、そうすれば、見いだすであろう。門をたたけ、そうすれば、あけてもらえるであろう」。マタイ7:7
「求めよ」「捜せ」「たたけ」と重ねて勧められています。その真意は、まず自らが行動を起こすことです。願いつつ、思いつつも、周囲や相手のことを忖度して動かないかぎり、事は始まりません。断られようと、失敗しそうに思える時でも、ためらわず踏み出してみようではありませんか。神様は思いがけない、驚くようなわざを見せてくださいます。(KE)
5月22日
「そのように、これらの小さい者のひとりが滅びることは、天にいますあなたがたの父のみこころではない」。マタイ18:14
迷い出た羊をさがす例を挙げてイエス様が語った言葉です。神様の願いはすべての人が救われて、永遠の命を得ることです。イエス様を信じて救われた人は、恵みを感謝しつつも、まだイエス様を信じない人を裁きがちです。それではイエス様の救いは無力なものとなります。主は一人も滅びることを願わない方です。また、主の救いのわざは完全で、欠けた所はありません。(KE)
5月21日
「イエスは彼らを見つめて言われた、『人にはできないが、神にはできる。神はなんでもできるからである』」。マルコ10:27
人は自分の努力次第で、何でもできるかのように思いがちです。ところが、現実はそれほど甘いものではありません。むしろ、出来ない事ばかりで、失望落胆する日々を過ごします。そのような思いの根底に自分はできるという自信があります。しかし、そもそも私たちは神様に造られたもの、神様の許しなければ、何も出来ないものです。日々の生活も、長い人生も全能者によって造られているのであって、自分の力はゼロであることを認めねばなりません。(KE)
5月20日
「たといわたしは飢えても、あなたに告げない、世界とその中に満ちるものとはわたしのものだからである」。詩篇50:12
神様は万物の創造者、私たちは造られた者、被造物です。この関係はどんなことがあっても変わることがありません。ところが、造られたものである人は、造り主を忘れ、自らが造物主であるかのように思い違いをしています。これが諸悪の根源、罪です。その結果、神様のものを盗み、まるでわが物のごとく振る舞う。その惨憺たる状態が今見る世界です。今一度、すべての事にあって、神を神とし、主を主として、神様を畏れるものとなりましょう。(KE)
5月19日
「主よ、わが終りと、わが日の数のどれほどであるかをわたしに知らせ、わが命のいかにはかないかを知らせてください」。詩篇39:4
若い方にはなかなか実感できないことかもしれませんが、高齢になってくると、この言葉が身近に迫ってきます。終りのある事は重々知っていながらも、それがいつであるかがわかりません。終りの時がいつであろうと、生きているのは明日ではなく、今日を生きるのです。先のことを思うのではなく、今を生きることに力をつくしましょう。(KE)
5月18日
「主はわたしの牧者であって、わたしには乏しいことがない。主はわたしを緑の牧場に伏させ、いこいのみぎわに伴われる」。詩篇23:1-2
羊は自分だけでは命を全うすることができません。なぜなら、自分で牧草地や水場をさがすことができません。それ以上に、外敵に勝つ力がない。何とか群れを成して身を守ろうとしますが、敵に蹴散らされてしまいます。私たちはまさに弱くて小心な羊のようなものです。だから、イエス様が牧者となってくださるのです。今日も、この方の声について行きましょう。(KE)