自分が決めるものだと人は思いやすいものです

3月12日
「人の歩みは主によって定められる、人はどうして自らその道を、明らかにすることができようか」。箴言20:24

自分の人生は自分のもの、だから自分が決めるものだと人は思いやすいものです。しかし、あなたがこの世に生を受けた時、あなたの選択と決断などどこにもありません。あなたの知らない間にあなたの生涯が始まっていた。あなたは今日まで神様の定められた道筋をたどって生かされてきたのです。だから、これからの人生の日々もあなたは勿論、あなたの親ですら知ることはできません。(KE)

しかし、それはまた神様のご計画だったのです

3月11日
「さて、散らされて行った人たちは、御言を宣べ伝えながら、めぐり歩いた」。使徒8:4

主が復活された後、弟子たちやそのほかの多くの人々に神様の力、聖霊が注がれ、イエス様を神の子と信じる人々が増えていきます。それを恐れた指導者たちは、クリスチャンに激しく迫害弾圧を加えます。その結果、エルサレムの教会は壊滅的な事態となりました。しかし、それはまた神様のご計画だったのです。散らされた人々は主の福音をまき散らすことになりました。その結果、福音がさらに広がったのです。痛みを伴いますが主のわざは無駄に終わりません。(KE)

その生き様はまことの命を失った姿です

3月10日
「ペテロが言った、『金銀はわたしには無い。しかし、わたしにあるものをあげよう。ナザレ人イエス・キリストの名によって歩きなさい』」。使徒3:6

宮の入口に足の萎えた人が施しを乞うていました。彼は宮に入ったことがなく、神様に背を向けて通り行く人々の情けや憐れみを乞うて生活していました。その生き様はまことの命を失った姿です。聖霊に満たされたペテロは彼が真に生きる者となるように、命を投げ込んだのです。主の名によって生きる。甦ったイエス様があなたを生かす力となることです。あなたは真の命に生きていますか。(KE)

悩み多き生涯をどのように生きるか、それが問題です

3月9日
「あなたがたは、この世ではなやみがある。しかし、勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝っている」。ヨハネ16:33bcd

これは主が最後の晩餐の席で語った最後の言葉です。この世にあって、悩みのない日々を送られるなら、どんなに幸いなことかと思います。しかし、その生涯に悩みもなく過ごした人など、おそらく一人もないでしょう。悩み多き生涯をどのように生きるか、それが問題です。イエス様は悩みに満ちた生涯を生き抜いてくださって、今、あなたと共に歩もうと言われます。仲間がいてくれる旅は、悩みもまた楽しみではないでしょうか。(KE)

愛とはただ愛する人の言葉を心から信頼することです

3月8日
「わたしのいましめを心にいだいてこれを守る者は、わたしを愛するものである」。ヨハネ14:21

「愛」という言葉は手あかのついた使い古した布のようであり、また、逆に多くの人から好まれる滋味豊かな言葉でもあります。その意味するところは漠然としてとらえどころがありません。愛といえばすべてが分かったような気になります。イエス様は愛とはなんであるか、はっきりと語っています。それはただ愛する人の言葉を心から信頼することです。高価なものを買い与えることでもなく、親切にすることでもありません。(KE)

しかし、塩がなければまことに不自由です

3月7日
「あなたがたは、地の塩である。もし塩のききめがなくなったら、何によってその味が取りもどされようか」。マタイ5:13

塩は地味な存在です。表立って華やかで注目を集めるようなものではありません。しかし、塩がなければまことに不自由です。ことに味の決め手は塩加減にあります。多すぎず、少なすぎずちょうどいい塩梅に仕上がるとき、調理する人の名誉となりなります。目立たず、控えめでいて、無くてはならないもの。また腐敗を防ぐ力があります。人の世にあって、塩のように生きる者となりたい。(KE)

あなたを恐れさせるものはなんでしょうか

3月6日
「ダビデは、これらの言葉を心におき、ガテの王アキシをひじょうに恐れたので、……」。サムエル上21:12

人は恐れる時、とても弱くなります。殊に人の言葉によって恐れをいだくことが多くあります。この時、ダビデはサウル王を恐れて逃げ出し、敵であるペリシテ人のところへ逃げ込みます。しかし、そこも安心な場所ではありません。人々がダビデに気づいて噂話をするのを聞いて、その言葉に捕らわれ、恐れはなお一層強くなり、とんでもない振る舞いをすることになります。あなたを恐れさせるものはなんでしょうか。まただれの言葉でしょうか。(KE)

しかし、主の見るところは「こころ」です

3月5日
「わたしが見るところは人とは異なる。人は外の顔かたちを見、主は心を見る」。サムエル上16:7

祭司サムエルは主に導かれエッサイの家へ行き、その息子たちの中から次なる王を選ぶことになった。立派な息子たちを順次面接するが、神様は拒まれる。その時祭司に語った神様の言葉です。人を評価する時、体格や風貌など見えるところに従って定めようとします。しかし、主の見るところは「こころ」です。これは人に隠せても、神様には隠せません。すべてを見て、知っておられます。(KE)

神様はひとたび約束したことを決して破棄しません

3月4日
「わたしはあなたのとがを雲のように吹き払い、あなたの罪を霧のように消した。わたしに立ち返れ、わたしはあなたをあがなったから」。イザヤ44:22

神様はご自分が選んだ民、イスラエルが神様を離れ、捨てようとも、神様は捨てなさいません。どんな事態になろうとも、ひとたび約束したことを決して破棄しない。これが神様の真実です。そればかりか、主に対する罪と咎とをことごとく取り除いて、サタンの力から解放してくださったのです。今日も、自分がどんな状態にあろうとも、神様はあなたを見捨てず、「わたしに立ち返れ」と招いておられます。(KE)

聖書が語る夜とは今の時代です

3月3日
「ドマについての託宣。セイルからわたしに呼ばわる者がある、『夜回りよ、今は夜のなんどきですか、夜回りよ、今は夜のなんどきですか』」。
イザヤ21:11

今でこそ、夜は様々な電飾で輝き、夜を感じさせない風景ですが、まともな照明がなかった時代、夜は漆黒の闇でした。闇には悪がはびこり、犯罪もおきます。聖書が語る夜とは今の時代です。夜は必ず明ける時がきます。夜明けとともに朝日がのぼり、命にあふれる活動が始まるごとく、夜のこの世が終わる終末の時が間近に迫っています。今の時代がどんなであれ、夜明けを望んで、慎ましく生きようではありませんか。(KE)