私たちがすでに神様の中に取り込まれているのです

6月2日
「われわれは神のうちに生き、動き、存在しているからである」。使徒17:28a

神様と私たちとの関係は、人と人との相対する関係のようなものではありません。神様は私たちよりもはるかに大きく、広い方です。その大きさ、長さ、高さをはかり知ることは出来ません。なぜなら、私たちがすでにその中に取り込まれているのです。宇宙という大空間に銀河系や地球、その他の無数の星があるように、神様の中に生きているのです。だから、神様から離れることは出来ないのです。(KE)

主の使いが彼を撃ち、瞬時に息が絶えたのです

6月1日
「神に栄光を帰することをしなかったからである」。使徒12:23

ツロとシドンの人々がヘロデ王の怒りに触れていたので、なんとかなだめようと、代表者がうちそろってやってきました。彼らは王様を褒め上げます。ヘロデ王は得意満面、有頂天になったとき、主の使いが彼を撃ち、瞬時に息が絶えたのです。なんと虫にかまれたのです。神様は小さな虫をも御使いとして用いられます。神様の前に高慢になり、高ぶったものになることこそ、悲劇の始まりです。(KE)

不幸なことのようですが、背後に神様の摂理がありました

5月31日
「さて、散らされて行った人たちは、御言を宣べ伝えながら、めぐり歩いた」。使徒8:4

聖霊が注がれた後、使徒たちは大胆に主の甦りを証して、多くの人がイエス様を信じました。その結果、エルサレムにあった教会をはじめ、クリスチャンが大迫害をうけて、各地へと散らされてしまったのです。一見、不幸なことのように思われますが、背後に神様の摂理がありました。迫害によって、むしろ福音がより広く、遠くまで伝えられたのです。悲劇に思えることも、背後に神様の想像できないわざがあるのです。(KE)

主イエスの言葉を頼みとすることが自立した人生です

5月30日
「ペテロが言った、『金銀はわたしには無い。しかし、わたしにあるものをあげよう。ナザレ人イエス・キリストの名によって歩きなさい』」。使徒3:6

宮に続く参道に、生まれながら足の利かない人が物乞いをしていました。彼は宮に詣でる人の情けを受けて生活していたのです。ペテロは彼に命じます。主の名によって歩けと。これは私たちにも主が求められることです。日々の生活にあって、何をよりどころとして生きているか。この世の組織や仕組みに縋って生きるとすれば、自分の足で歩くことが出来ません。主イエスの言葉を頼みとする。これこそ自立した人生です。(KE)

将来は自分のものではないのです

5月29日
「むしろ、あなたがたは『主のみこころであれば、わたしは生きながらえもし、あの事もこの事もしよう』と言うべきである」。ヤコブ4:15

人は将来について、また明日のことについて、自分勝手な計画を立てます。その計画通りにことが進むことが最善にして幸いなことだと考えます。思うようにならないと、自分の力がないこと、人が期待したように動いてくれないなど、不満や非難する心になります。しかし、実は自分のことのようであっても、自分のものではないのです。命すら、自分ではどうにも扱えない。神様の許しがなければ、何ひとつ成しえないことを知るべきです。(KE)

私たちに求められているのは神様の裁きに委ねることです

5月28日
「人の怒りは、神の義を全うするものではないからである」。ヤコブ1:20

人が怒る時、相手が間違っていると自分の正しさを主張している時です。その時、忘れているのは、事の良し悪しを裁かれる神様の存在です。私たちに求められているのは神様の裁きに委ねることです。理不尽な非難を受けようと、神様を見上げて、主のなされるわざを待ち望みましょう。(KE)

どんな境遇に置かれても、望みを持ち続けることが出来ます

5月27日
「しかし、信心があって足ることを知るのは、大きな利得である」。第一テモテ6:6

「信心」とは、神様を畏れる心のことです。人知を超えた力と知恵に満ちた神様がおられることを信じるなら、まず心が落ち着きます。さらにどんな境遇に置かれても、望みを持ち続けることが出来ます。そればかりか、満足することが出来ます。たとえ不足することがあろうと、絶大な富を持っておられる神様に信頼している限り、不足を補うばかりか、溢れるばかりに満たして下さるからです。(KE)

どのようなことも神様の御心によって存在すると言われます

5月26日
「イエスは答えられた、『本人が罪を犯したのでもなく、また、その両親が犯したのでもない。ただ神のみわざが、彼の上に現れるためである』」。ヨハネ9:3

人は不幸と思われる事態に遭遇すると、何が原因だろうかと悩みます。その挙句、自分の生い立ちを嘆いたり、両親や先祖の不始末か何かを責めることで気持ちを収めようとします。イエス様はどのようなことも神様の御心によって存在するのだと言われます。自分にとって良きことも悪しきことも、どれもこれも神様がご自分のために必要とされることで、それによって神様のわざを見ることが出来るのです。(KE)

たましいは神様に仕える天使のようなものとなるのです

5月25日
「彼らが死人の中からよみがえるときには、めとったり、とついだりすることはない。彼らは天にいる御使のようなものである」。マルコ12:25

人が死んだ後、どうなるのか知りたいと多くの人は思います。しかし、誰一人死んで生き返った人はイエス様以外にいません。聖書には、肉体の死と魂の死と二つに分けています。まず、人は霊魂、たましいを肉体に宿しているけれど、それは永遠不滅であり、肉体は定められたときになると、失われます。霊魂は御国に帰り、霊の体を纏い、神様に仕える天使のようなものとなるのです。(KE)

思い煩うとき、主権者である神様を忘れているからです

5月24日
「だから、あすのことを思いわずらうな。あすのことは、あす自身が思いわずらうであろう。一日の苦労は、その日一日だけで十分である」。マタイ6:34

人生の大部分を思いわずらいのうちに過ごしてきたのではないでしょうか。神様は思い煩うことを嫌われます。なぜなら、思い煩うとき、主権者である神様を忘れているからです。ご愛の御心によって万物を統べ収めておられる方が、あなたの明日を造られるのです。だから、今日を悔いなく生きることに心を尽くしてください。明日のことは主の御手にゆだねて。(KE)