9月26日
「イエスは彼に言われた、『もしできれば、と言うのか。信ずる者には、どんな事でもできる』」。マルコ9:23
悪霊に憑かれた息子を助けたいと、イエス様のもとにやって来た父親ですが、これまであらゆる手段をもっても解決できなかった問題を前に、消極的になっていました。ともすれば私達も、イエス様を数ある選択肢の一つにしてしまいやすいのではないでしょうか。信じて求めれば、最善をもって応えてくださる主に賭けていこうではありませんか。(MK)
今日の通読箇所
9月26日
「イエスは彼に言われた、『もしできれば、と言うのか。信ずる者には、どんな事でもできる』」。マルコ9:23
悪霊に憑かれた息子を助けたいと、イエス様のもとにやって来た父親ですが、これまであらゆる手段をもっても解決できなかった問題を前に、消極的になっていました。ともすれば私達も、イエス様を数ある選択肢の一つにしてしまいやすいのではないでしょうか。信じて求めれば、最善をもって応えてくださる主に賭けていこうではありませんか。(MK)
今日の通読箇所
9月25日
「よく聞いておくがよい。だれでも幼な子のように神の国を受けいれる者でなければ、そこにはいることは決してできない」。マルコ10:15
子どもは自分の欲しい物のために、実に素直に行動しますが、成長に伴い自制心が働き、感情のままに表現することは次第に減っていきます。しかし、こと神の国に関しては、幼な子のように求めよと聖書は勧めます。神の国は、あってもなくても良いというような、ありふれたものではないからです。 (MK)
今日の通読箇所
9月24日
「イエスは彼らの信仰を見て、中風の者に、『子よ、あなたの罪はゆるされた』と言われた」。マルコ2:5
信仰は心の問題だと言われますが、主は心を見るばかりではなく、信仰に基づく行為をも見ておられます。四人の人が病の人を寝かせたまま屋根から主のもとへ連れてきました。主は必ず癒して下さると信じた結果です。信仰は単なる想像の産物ではなく、実態を伴うものです。信じた通りに従うことが勝利です。(KE)
今日の通読箇所
9月23日
「それであなたに言うが、この女は多く愛したから、その多くの罪はゆるされているのである。少しだけゆるされた者は、少しだけしか愛さない」。ルカ7:47
自らの罪深さを自覚する女の人は、持てる限りの力を尽くして主に報いました。しかし、人は自分の罪を軽く見ようとしがちです。それゆえ、主の愛の深さを知りえません。自分がいかに自己中で、神様をないがしろにしているかをより深く知れば知るほど、主の十字架の愛をさらに深く悟ることができます。(KE)
今日の通読箇所
9月23日
「さてヨシュアは年が進んで老いたが、主は彼に言われた、「あなたは年が進んで老いたが、取るべき地は、なお多く残っている」。ヨシュア13:1
歳を重ねるにつれて、気持ちも萎えて、周囲に対する関心も消えてしまいますが、神様はそれを喜ばれません。たとえ以前のようにはいかなくても、見えるところにとどまらず、主が求められる所に、持てる力を尽くして、主の期待に応えていきましょう。(KE)
今日の通読箇所
9月21日
「その怒りはただつかのまで、その恵みはいのちのかぎり長いからである。夜はよもすがら泣きかなしんでも、朝と共に喜びが来る」。詩篇30:5
神様は愛に満ちた方ですが、不義を喜ばれる方ではありません。愛すればこそ、正しきことを求められます。しかし、その怒りは束の間です。決して滅ぼし尽くそうとなさるのではありません。自らを省みて、怒りの元を悔い改めるなら、喜びをもって報いてくださるのです。日々のわざを通して、主の愛に満たされましょう。(KE)
今日の通読箇所
9月20日
「第二はこれである、『自分を愛するようにあなたの隣り人を愛せよ』。これより大事ないましめは、ほかにない」。マルコ12:31
人は誰しも自分が大切ですが、それが自分への愛ゆえか、と言われるとどうでしょう。ありのままの自分を認められず、他人と比べては卑屈になったり、優越感に浸ったりするのは、健全な愛とは言えません。そのような私達が、自分を愛し隣り人を愛するには、私達を造られた神様の愛を信じる外ありません。 (MK)
今日の通読箇所