「イザヤ書」55章6~7節までを朗読。
6節「あなたがたは主にお会いすることのできるうちに、主を尋ねよ。近くおられるうちに呼び求めよ。」
神様が私たちに近づいて下さる時、あるいは私たちが主と出会う時は、何時か。主にお会いすることのできるのは、何時のことか。その答えが、今であり、こうやって、私たちが神様の恵みに、救いにあずかって、主を求めて集っています。まさにこの時こそが、主にお会いする時です。また礼拝の民として、主にお会いするために、ここに集うことができました。まさに「今」という時こそ、神様の恵みにあずかり、救われる時です。「コリント人への第二の手紙」に、「見よ、今は恵みの時、見よ、今は救いの日である」と語られています。「今」という時こそが、何よりも大切な時であることに他なりません。私たちの長い人生にあって、時はいくらでもあるように思いますが、この日この時というのは、実に限られたものです。過ぎ去ってしまえば、もう過去ですから、二度と戻ってきません。また明日の事、来年の事は分からない、未定であり、予期できません。
となると、私たちにとって、今の時をどう生きるかにつきます。先の事をいくら考えてもどうにもなりません。また過去の事を振り返ってみても、また同じであります。私たちの思うことは、今、どういう生き方をしているかに、心を集中するといいますか、そのことに自覚をもって生きることが、私たちにとってさいわいな恵みの時、救いの日であると思います。
昨日、皆さんにもお祈りいただきましたH姉が召されまして、告別式を執り行いました。姉は103才という長い年月の地上での歩みを全うし、天にお帰りになったのですが、いつ、その終わりの時が来るかは、誰も分かりませんでした。しばらく前から、だんだん元気を無くし、弱ってこられた事は伺っていましたが、その終わりの日が、この日、この時であるとは、誰も予測のつかないことです。七日の早朝、電話をいただいて、びっくりしました。聞いてはいましたが、まさか今日、この日とは分かりません。
そのように自分の人生は自分のスケジュールで、自分の計画で、一つ一つ事を進めているようですが、実はそうではないのです。私たち一人ひとりは、神様によって、この地上に命を与えられました。そして今に至るまで、五十年、六十年、七十年、八十年の旅路を生きてきました。といって、自分の力で生きてきたわけではありません。ところが、ともすると、自分の努力と自分のわざ、自分の計画によって、ここまで頑張って生きてきたと思いやすいのです。しかし、そうではなく、神様が、私たち一人一人にこの地上で命を与え、神と共に生きる者として下さったのですが、神様から離れてしまった。罪によって、神様と人との関係が崩れて、神と人とが共に生きることができなくなった。人は神様の恵みを自分の力や知恵によるものとして、神様のものを盗み、自分の力を誇り、まるで自分が神であるかのように傲慢不遜な者となったのです。その結果は永遠の滅びです。
滅び行く私たちをそこから救い出すために、神様は時を定め、イエス・キリスト、神の御子をひとりの人としてこの世に遣わして下さったのです。イエス・キリストの救いに出会う、それはいつ起こったのか。それぞれの人生の中で、イエス・キリストに出会った時があるわけです。その日その時を自分が計画したわけではありません。あらかじめ予定して、この日、この時、イエス様に出会うことにした、イエス様を求めようと決めたわけではありません。具体的な問題、悩みや、様々な生活上の出来事を通して、思わず知らず押し出されて、気がついた時には、イエス・キリストの救いに預かっていた。それはまことに恵みの時であり、幸いなことでした。それからずっと、神様とたえず共にいて、生きてきたかと言われると、自信がない。イエス様の救いにあずかったと言いながらも、日々の生活の中で、時に神様を忘れ、自分勝手な、わがままな生き方をする。そして、いろいろな問題や悩みに会い、もう一度、心新たにされて、神様の恵みに立ち返るということを繰り返してきました。これは私たちにとって、まことにさいわいな事であったと思います。
悩みに会う事、苦しみに会う事、悲しみに会う事を通して、もう一度私たちの心と思いを新しく造り変えられる、これは本当に大きな恵みです。だから人生に悩みや悲しみや苦しみがあることの方がさいわいですね。もしそれが無かったら、実に味気ない、また自分を振り返ることもできない、神様を求めることすらもできなくなるでしょう。言うならば、私たちにとって不幸と思われる事は、私たちを愛して、恵もうとなさる神様のわざです。
私たちは自分の思いがありますから、これは嫌だ、あれがいい、これが不幸だ、これが幸せだと、この世の選ぶいろいろな道を、自分で決めています。はたしてそれが自分にとって本当に幸せであるのかどうかは、自分ですらも分からない。私たちのために、一番よいことを知っておられるのは、神様以外にないのです。神様は、私たちの立つのも座るのも、また口から一言も出ないその先から、すべてを知っておられる。神様は造り主でいらっしゃいますから、私たちの思うところ、願うところが何であるかを、全部知っていらっしゃる。その上で、なおかつ、私たちに、この道を、この事柄を与えて、そこを通らせなさるのです。それは決して私たちを苦しめ、悲しめ、悩ませるためではなく、そこで私たちが主にお会いする、神様にしっかりと触れるための時なのです。
ですから、6節に「あなたがたは主にお会いすることのできるうちに、主を尋ねよ。近くおられるうちに呼び求めよ」と言われる。これは神様を知らない人に求めておられることばかりではなくて、救いにあずかって、神様を知っているはずの私たちが、いろいろな事を通して、どれほど神様を信頼しているか、どこまで神様に自分を委ねきって、従っているかを、神様は問いかけています。また私たちに早く思いを主に向けるようにと願っておられます。ですから、その後に、「悪しき者はその道を捨て、正しからぬ人はその思いを捨てて、主に帰れ」と。悪しき者、正しからぬ者、そう言われると、自分はそんなにひどい人間だろうかと思ってしまいますが、悪しき者、正しからぬ者というのは、神様から心が離れて、己の思い、神様ではない別の思いに自分を委ねている人のことであります。神様の手に自分を明け渡していく。これが正しい人であり、また義なる人、賢い人です。だから、愚かな者は「心のうちに『神はない』と言う」と「詩篇」(53:1)に語られています。神様なんかいるものか、あるいは、あえて口にはしないけれども、具体的な行動の中で、神抜きの生活を営んでいく。そのような生活をしている自分がいる。それに対して、神様が、「悪しき者はその道を捨て、正しからぬ者はその思いを捨てて」、具体的な歩みを切り替え、心にある神なき思いを捨て去って、主に帰れ、神に帰れと呼びかけておられる。
いつでも、主に帰る、神様に帰るきっかけは何か。それは日々の生活の一つ一つの出来事、事柄を通してです。「何年何月にイエス様を信じて、信仰告白をし、救いにあずかりました。それから、ずっと私はクリスチャンです」と言います。ところが、「あなたは毎日、イエス様と共に歩んでいますか?いろいろな事の中で、神様と交わりを持ち、神様に信頼し、委ねて、日々感謝し、喜んでいますか」と問われると、はたと困ってしまう。クリスチャンであるという旗印は掛けているが、日々の生活の、一つ一つについては、どこに神様がいるやらいないやら、イエス様がどこにいらっしゃるか、訳分からなくなってしまっている。それでは、神様に喜ばれることができない。そのことが7節に「悪しき者はその道を捨て、正しからぬ人はその思いを捨てて、主に帰れ。そうすれば、主は彼にあわれみを施される。われわれの神に帰れ、主は豊かにゆるしを与えられる」と。あわれみを施して下さる。豊かなゆるしを与えて下さる。いつでも、どんな時にでも、主に帰りさえすれば、神様に立ち返りさえすれば、神様は限りなき愛をもって私たちを愛して下さるゆえに、神様をないがしろにした私たちの罪を忘れて下さって、ゆるしを与え、あわれんで下さるのです。私はクリスチャンですと告白することはできますが、日々の生活の一コマ一コマ、そこで出会う出来事の一つ一つの中で、主に帰っているか。主を喜びとし、主に信頼し、主に委ねているのか。また主のみ声に従っているのか。実はそこが大切です。
生活の中で、信仰に生きるということです。ともすると、信仰と実際、具体的な生活とが、離れてしまう。そこを神様は、「さあ、帰ってきなさい。早くわたしを求めなさい」と、6節で呼びかけて下さる。「主にお会いすることのできるうちに、主を尋ねよ。近くおられるうちに呼び求めよ」。なぜならば、主に触れること、神様を求める時は、今、日々の生活の、あの事、この事、心に抱いている思い煩い、心配、その中で主を求めて、主に信頼する心を整えていくことです。それが思いを捨て、その道を捨ててとあるように、具体的な生活の中で、たえず主を求めて、主に心を明け渡していくのです。
一人の姉妹が証をしてくれました。自宅の敷地がバス通りに面しており、バス停が敷地の前にあって、敷地の一角がくぼみになっている。以前、自販機か何かを置いていた。それもなくなって、空になっている。そこに最近、段ボール箱をたたんだ物が置いてある。誰が置いたのか知らないけれども、そこがゴミ捨て場のように間違えられている。姉妹はバス停のそばだし、みっともないからと、つい自分でそれを片付ける。そうすると、決まったように、そこにまた置く。また片付け、また置く。彼女はだんだん不満に思えてきた。ある時、バスに乗ろうとしていると、宅急便がやってきて止まった。配達しようとしている人の箱をみると、まさにそこに捨ててある箱と同じ。どこへ行くのかと、その人の後ろを見ていると、こじんまりとしたアパートがあり、そこへ入っていかれる。この人だということも分かった。といって、文句を言うわけにはいかないし、しばらくするとまた置かれる。定期的に、どうも取り寄せているようでした。それが届くと、必ずゴミが出る。それを自分が片付けさせられるのが、何と理不尽なことであろうかと、彼女はいささか困ってしまった。さて、どうするか。当事者らしいということは分かるけれども、そこへ行って、言ったからといって、どうなるわけでもない。アパートを管理する不動産屋に電話をしてみる。すると、各部屋に案内を用意して配らせてもらいますと、そういう結果となった。ところが、何か心にすっきりしない思いがある。その日、静まって、聖書を読んで、祈っている時に、「右の頬を打つなら、ほかの頬をも向けてやりなさい」(マタイ5:39)という言葉が与えられた。自分はどういう心で、この事に対処してきたのか。自分はイエス様の救いにあずかって、罪をゆるされ、神様から愛されていると言いつつ、この一連の出来事の中に、どこに自分は神様を置いてきたのだろうか。深く心を探られて、すっきりしない思いはここだと気づいた。というのは、不動産屋に話をするとき、非常に怒りがあった。自分としては穏やかに言ったつもりであったが、ずいぶんとげのある言い方をしてしまった。そのことが心に引っ掛かる。日々、私は神様の恵みの中に生かされている、ご愛によって、罪をゆるされている、そして主と共に生かしていただいていると言いつつ、この事ではどうであっただろうか。
そこで、神様を恐れる心よりも、自分の義を立て、思いを遂げようとする怒りが、自分の心を支配している。動機はどこにあるのか。その事を深く問いかけられた時に、本当に申し訳ない。「神様の前に自分が罪を犯しました」と悔い改めざるを得なかった。同時に、主のゆるしを確信して、やっと平安をいただきましたと証しされた。事の結果は主の手のうちなのですから、喜んで、主のなさるわざを受け入れていきたいと思いますとお話ししておられました。
日々の生活でそういう事はいろいろとあります。事に出会った時、今、何がわたしの心の力になっているのか。動機になっているのか。主の愛に促されているのか。確かに迷惑をかけられているから、黙っておけというわけではない。しかしそこで祈って、神様の手を待つ、時を待つ、そして神様の導かれる道をしっかり信仰に立って歩むことが求められていながら、自分はそれができなかった。神様のことを忘れて、これが正しいと自分の義を立てる。しかし神様がどのようにそのことを解決して下さるか、まず主を求める。この事が自分の歩みの中で欠けていた。それを神様はちゃんと指摘して下さった。「神様、申し訳ありません。つい自分の感情にまかせて、怒りにまかせて、思いのまま言ってしまった。神様、あなたの栄光を汚すようなものです」と悔い改めました。そして心をきよめていただいた。
日々に様々な出来事に出会います。ついイエス様抜き、神様抜きに、自分の感情と自分の欲得、自分のメンツ、そういうものに引きずられて、事をしてしまう。それでは神様の手に委ねている、神様を信頼していると言えない。ですから、8節以下に、「わが思いは、あなたがたの思いとは異なり、わが道は、あなたがたの道とは異なっていると主は言われる。天が地よりも高いように、わが道は、あなたがたの道よりも高く、わが思いは、あなたがたの思いよりも高い」とあります。
まず、6,7節と来て、ここでいったん話が切れているかのように思いますが、実はそうではありません。主に帰れ、神に帰れと求められます。では、その神様は、どういうお方か。次の8節9節で語られています。神様の思いは私たち人の思いとは違う。人の考えるところとはるかに隔たったもの。ここにありますように、「天が地よりも高いように、わが道は、あなたがたの道よりも高く、わが思いは、あなたがたの思いよりも高い」。神様がなさる時、私たちにわからないことがあって当然。どうしてこうなったのと、不思議に思うことも、それは神様のなさることであって、だから、神に帰る、主に帰るとは、そのことを認めること。今、目の前の一つ一つの出来事が「どうしてこんなことになったの」と。ついこの世の仕組みの中で、因果関係を探ろうとしますが、そうではなくて、神に帰る、神様に信頼するとは、とりもなおさず神様の思いは私の思いよりもはるかに優れている。私が考えている具体的な道よりも、神様の備えて下さるわざや道、具体的な歩みは、もっとはるかに大きいことを認める。これが主に帰る、神に帰ることです。
だから、日々の生活でも、そうであって、自分の計画、自分の思いで、ああして、こうしてとやっておりますから、つい、神様の思いと自分の思いと、違うことに気づかない。自分の思いを押し付けるといいますか、それを要求することの方に思いがいってしまいます。そうではなくて、ここにありますように、「わが思いは、あなたがたの思いとは異なる。わが道は、あなたがたの道よりも高い」。神様に帰る、神様のところに自分の心を委ねる。考える事、なす事、どんな事も、私には分からないが、神様は必ず備えて下さっている事があると信じていく。
その次に10,11節に語られているように、「天から雨が降り、雪が落ちてまた帰らず、地を潤して物を生えさせ、芽を出させて、種まく者に種を与え、食べる者にかてを与える。このように、わが口から出る言葉も、むなしくわたしに帰らない。わたしの喜ぶところのことをなし、わたしが命じ送った事を果たす」。神様の命じ送った事、神様の喜ぶところの事とは何か。神様のみこころ、神様の御旨が必ずなる事です。天から雨が降ってまた帰らず。何故こんなところに雨が、自分は行楽に行こうと思っていたのに、雨が降ってと大迷惑と、時にそう思います。洪水が起こる。どうしてあんなに一か所にばかり降らないで、まんべんなく降らせて下さったらよいのにと、こちらでは水不足なのにと、人は勝手にそういう思いを持ちます。神様のなさるわざは、どこに、どういう意味があるか、私たちには分かりません。分からないけれども、その一つ一つの具体的な事柄の中に、神様はご自分の御心を行っているのです。私にとって不都合な事態や、悲しむべき事があろうと、そこに神様のご愛の御思いがあり、御心がそこになされていることを認める。これが主に帰る、神に帰ること。生活の小さな一つ一つの出来事、出会う問題や、悩みや、いろいろな具体的な事があります。その一つ一つの中で、これもまた主の御手の中にあること、神様の御思いとわざの中でこの事が起こっていると、認める。これが神に帰る、主に帰ること。その時、神様は私たちに豊かなゆるしを与え、恵んで下さる。
更に12,13節のところに、「あなたがたは喜びをもって出てきて、安らかに導かれていく。山と丘とはあなたの前に声を放って喜び歌い、野にある木はみな手を打つ。いとすぎは、いばらに代って生え、ミルトスの木は、おどろに代って生える。これは主の記念となり、また、とこしえのしるしとなって、絶えることはない」。12,13節に神様のなさるわざが、どんなに恵み豊かなものであるかがうたわれています。主に帰る、神に帰ることによって得られる神様からの恵み、それは私たちが喜びをもって、また安らかに生きることができる。すべての物があなたの前に声を放って、喜び歌う。
教会の背後にある皿倉山を眺めて、今日はニコニコ笑っているなと思えますか?「いつもと同じ」と。私たちの思うところが、見る物に映るのです。自分に喜びが満ちている時、山も谷もすべてが喜び歌っているように思える。神様が私たちの心を造り変えて下さる時、まさに、12節にあるように、「山と丘とはあなたの前に声を放って喜び歌い」、時にそう思う時があります。いつもそう思いたいと願います。冬枯れの、冬から春先になって、新緑が増え、皿倉の山を真正面から見ると、まるで沸き立つように、緑がもくもくと燃え上がっている。今はその様子は消えてしまって、同じような色合いになっていますが、春先には淡い緑から濃い緑まで、様々な彩りに山が息づいている思いがします。まさに「山と丘とはあなたの前に声を放って喜び歌い、野にある木はみな手を打つ」。木々のざわめきが拍手のように、喜びの声のように聞こえる。どうでしょうか。うるさいばかりと、自分の思いに囚われると喜べない。神様は私たちを喜び、楽しませ、そして、13節の終わりにありますように、「これは主の記念となり、またとこしえのしるしとなる」と。神様のしるし、かたち、そこに主を見ることができる。目の当たりに見ることができる恵みに導いて下さる。そのまず一歩が何か。これが6節、「あなたがたは主にお会いすることのできるうちに、主を尋ねよ。近くおられるうちに呼び求めよ」です。
今、主が私たちの近くにおられる。今、私たちのために恵みの時、救いの日が与えられている。この時、日々の生活の一つ一つの出来事の中で、主を求め、主に信頼し、主に一切を委ねて、神様が私たちに備えて下さる道があり、歩みがある。それがどんな道か、私たちには分かりません。わが思いははるかに高く、わが道はあなたがたの道よりはるかに高い。神様のなさるわざ、神様が何をご計画なさるか、私たちには分かりませんが、しかし、今、目の前にある一つ一つの事の中で、神を認め、主を信じて、そこに自分を低くして、心をへりくだって、神様に信頼していく時、必ず神様はゆるしを与え、恵みを施される。木々が手を打って喜ぶように、山が笑いに満ちているようなすばらしい声を放って歌うがごとく、喜びと望みに輝いて、いのちに輝く日々を送らせようとして下さる。この神様の約束を信じて、いつもどんな時にも、まずお会いすることのできる今日、今、この時、主を尋ね、神を呼び求める。神様に心をゆだね、明け渡して信頼し、神様の大いなるゆるしと恵みを体験していきたいと思います。
ご一緒にお祈りいたしましょう。