すべてのことの背後で、主はご愛のみ手をもって導いてくださったのです

6月28日

「『主は今に至るまでわれわれを助けられた』と言って、その名をエベネゼルと名づけた。」サムエル上7:12

 今年も六ヶ月が過ぎ、七月になります。振り返ると、思いがけない出来事に出会い、様々な問題や試練のなかを過ぎてきました。そのときは気がつきませんでしたが、すべてのことの背後で、主はご愛のみ手をもって導いてくださったのです。祭司サムエルはエベネゼルと名づけた石を立てて、神様への感謝とみわざを記念しました。あなたも今日までの旅路を導かれたのは主であると告白し、感謝しましょう。(KE)

あなたが人知れず抱いている罪を自覚するなら、主の赦しを感謝して受けようではありませんか

6月27日

「子よ、しっかりしなさい。あなたの罪はゆるされたのだ。」マタイ9:2

 文語訳聖書では「子よ、心やすかれ」となっています。“安心せよ”とイエス様が語っておられるのです。今日、あなたの罪が赦されている!なんという驚きでしょうか。しかし、赦された歓喜を味わえるのは、罪を認める人だけです。自分を正しいとするかぎり、このみことばは無縁です。あなたが人知れず抱いている罪を自覚するなら、十字架の主を見上げて、主の赦しを感謝して受けようではありませんか。(KE)

“信じる”とは信頼する、信用することです

6月26日

「あなたがたは、心を騒がせないがよい。神を信じ、またわたしを信じなさい。」ヨハネ14:1

 この世にあって、心を騒がせ、思い煩うことの多い日々を送っています。しかし、神様はそのようなことを喜ばれる方ではありません。私たちが喜び、感謝し、望みに輝いて生きることを願っています。そのためには神様を信じ、イエス様を信じること、これが全てです。“信じる”とは信頼する、信用することです。今、どのような事態にあっても、万物を力あるみ手で支え、導かれる神様を信じて、主の愛のわざを期待しましょう。(KE)

賢い人とは神様を尊び、敬い、信じる人のことです

6月25日

「だから、愚かな者にならないで、主の御旨がなんであるかを悟りなさい。」エペソ5:17

 「愚かな者」とは学歴や偏差値に関係したことではなく、神様を畏れ敬わない人、“神などいるものか”と思っている人のことです。そういう人は世間の知恵や知識を頼りとして歩みます。一方、賢い人とは神様を尊び、敬い、信じる人のことです。毎日のどんなことにも、主のみこころを求め、神様の導きを求め、確信して生活する人のことです。あなたは愚かな者にならないでください。(KE)

イエス様を信じるとはまさに死んだ気になることです

6月24日

「いつもイエスの死をこの身に負うている。それはまた、イエスのいのちが、この身に現れるためである。」第二コリント4:10

 世間でも「死んだ気になって」と言って、人を励まします。確かに、死を恐れなければ、大胆で勇ましくなれます。と言って、死ぬことはできません。しかし、イエス様を信じるとはまさにそのようになることです。死んだわけではないけれども、あなたの死ぬべきところを身代わりとなって、十字架に死んでくださったと信じるとき、主の命に生かされて勇気と力を得ることができます。(KE)

愚かさのゆえに、何か大切なものを失って目が覚め、悟ることができるからです

6月23日

「見よ、わたしが大いなる苦しみにあったのは、わが幸福のためであった。あなたはわが命を引きとめて、滅びの穴をまぬかれさせられた。」イザヤ38:17ab

人生にあって、痛い目にあうことは嫌なことです。できれば、そのようなことは避けたいと思います。しかし、神様はあなたを幸いにしようとして、苦しみの中を通されるのです。それによって謙遜になり、滅びの道から救い出されます。人は愚かさのゆえに、何か大切なものを失って目が覚め、悟ることができるからです。(KE)

ただ神様のみがご存知です

6月22日

「その日、その時は、だれも知らない。天の御使たちも、また子も知らない、ただ父だけが知っておられる。」マタイ24:36

 天地万物の終りがいつであるかと、弟子たちはイエス様に尋ねました。その答えがこの言葉です。これはまた人生の終りのときも同じです。他人はもちろん、本人である自分も知りません。ただ神様のみがご存知です。だから、万物は神様の一方的なご支配の中にあるといえます。今日、どんなことが起こるか、誰も知りません。たとえ何があっても、神様のご愛の中にあることを信じましょう。(KE)

喜べない、歌えない事情や境遇に思えても、どうぞ、主を見上げて感謝・讃美してください

6月21日

「全地よ、主にむかって喜ばしき声をあげよ。声を放って喜び歌え、ほめうたえ。」詩篇98:4

親は子供が喜び、歌っている姿を見るとき、同じように喜びを感じます。逆に、沈み込んで、暗い顔をしているなら、親は心配です。そのように、父なる神様はあなたが喜んでいる姿を見たいと願っておられます。そのために力を尽くして最善なことをして下さっています。喜べない、歌えない事情や境遇に思えても、どうぞ、主を見上げて感謝・讃美してください。神様が喜ばれることだからです。(KE)

正しい報いを与えられることを信じるのです

6月20日

「しかし善を行って苦しみを受け、しかもそれを耐え忍んでいるとすれば、これこそ神によみせられることである。」第一ペテロ2:20b

 良いことをして良い報いを受ける、また悪を行って罰せられるのは当然のことです。しかし、時にはそうでないことがあります。神様を信じるとは、神様がすべてを知っておられ、それぞれに正しい報いを与えられることを信じるのです。正しい裁きをなさる方を信じて、自分で裁かず、復讐せず、不当な事にも耐え忍んで、主のみわざを待ち望みましょう。(KE)

みことばは体内で消化され、分解し、エネルギーとなり、具体的な行動を生み出します

6月19日

「わたしはみ言葉を与えられて、それを食べました。み言葉は、わたしに喜びとなり、心の楽しみとなりました。」エレミヤ15:16ab

 聖書のことばはまさにこの通りに「食べる」ものです。理解するとか、知識として知るだけでは不十分です。食べたものは体内で消化され、分解し、エネルギーとなり、具体的な行動を生み出します。そのように心を養う食物として、自分の中に取り込んでしまうと、あなたの心に力と喜びを与え、あなたの行動や言葉、思考に変化を生み出します。(KE)