神様は造物主ですから、何もかも知っておられます

12月22日

「その上、あなたがたの頭の毛までも、みな数えられている。恐れることはない。あなたがたは多くのすずめよりも、まさった者である。」ルカ12:7

 自分のことは自分がよく知っているといいますが、自分の頭の毛が何本あるか、知っている人はまずいません。実は自分のことすら何も知らないのです。しかし、神様は造物主ですから、何もかも知っておられます。そればかりか、養い生かして下さっているのです。だから、思いわずらうことを止めて、神様を信じて備えられたものを感謝しつつ、導きに委ねましょう。(KE)

造り主なる神様には明確な意図があり、計画があってわざをなさるのです

12月21日

「われわれは粘土であって、あなたは陶器師です。われわれはみな、み手のわざです。」イザヤ64:8bc

 私たちは陶器師の手に握られた粘土です。粘土は自分で好き勝手に用途や形を決めることは出来ません。陶器師によってそれぞれの器に仕上げられるのです。同様に、神様の手に握られ、日々造られている私たちです。思いがけないこと、願わないことなどがあります。しかし、造り主なる神様には明確な意図があり、計画があってわざをなさるのです。一握りの土くれにすぎないものですが、神様のみ手にあることを信じましょう。(KE)

確かな結果を握っている彼はどんなに言われても動きません

12月20日

「ただ一つのことだけ知っています。わたしは盲人であったが、今は見えるということです。」ヨハネ9:25bc

  生まれつき目が見えなかった人に、イエス様はシロアムの池で洗うように命じました。主の言葉に従った結果、見えるようになりました。彼にとって、キリスト体験とも言うべき事態です。彼はどうして目が見えるようになったのか、さっぱり分かりません。理屈は説明できなくても、確かな結果を握っている彼はどんなに言われても動きません。私たちもこれ程の確信となるキリスト体験をしようではありませんか。(KE)

振り返るとすべて主の語られたとおりになったのです

12月19日

「これであなたがたは、主がアハブの家について告げられた主の言葉は一つも地に落ちないことを知りなさい。」列王紀下10:10a

 アハブ王は王妃イゼベルにそそのかされて偶像の神々を拝むようになり、彼の治世はまことの神様から離れたものとなりました。その結果、神様は預言者エリヤを通して警告や勧告を与えましたが、彼らは無視しました。しかし、神様の言葉は長年のうちに次々と具体化され、振り返るとすべて主の語られたとおりになったのです。聖書の言葉も同様に決して言葉だけに終わらず、必ず結果が伴います。(KE)

私たちは実際の羊たちのように牧者なる神様に信頼しているでしょうか

12月18日

「主はわれらの神であり、われらはその牧の民、そのみ手の羊である。どうか、あなたがたは、きょう、そのみ声を聞くように。」詩篇95:7

 神様と私たちの関係は羊飼いと羊にしばしば譬えられます。しかし、私たちは実際の羊たちのように牧者なる神様に信頼しているでしょうか。考えると、羊飼いにとってこれほど扱いにくく、手ごわい羊はいないでしょう。それでも神様は忍耐し、寛容で、愛し続けているのです。今日も主は牧者となり、あなたに先立って進まれます。素直に御声を聞き、従順に従いましょう。(KE)

いただくものを自分のために使い尽くしてはならない、と言うことです

12月17日

「あなたがたの地の実のりを刈り入れるときは、畑のすみずみまで刈りつくしてはならない。またあなたの刈入れの落ち穂を拾ってはならない。」レビ19:9

 画家ミレーの名画「落穂拾い」を思い出させる言葉ですが、旧約時代の律法の一つです。現代風に言うならば、いただく収入のすべてを残さず自分のために使い尽くしてはならない、と言うことです。収入の幾分かを弱い人、貧しい人などのために取り分けることを神様は願っているのです。それはまた私たちが神様に養われていることを証しする行為でもあります。(KE)

人は神様に頼って生きるように造られたものだからです

12月16日

「あなたがた自身が、だれかの僕になって服従するなら、あなたがたは自分の服従するその者の僕であって、死に至る罪の僕ともなり、あるいは、義にいたる従順の僕ともなるのである。」ローマ6:16b

 人は何かに縋らなければ生きることができません。なぜなら、人は神様に頼って生きるように造られたものだからです。人それ自身は単なる器にすぎません。しかし、罪の力に握られると、人を傷つける凶器になります。神様の手に握られるとき、有益な器となり、世の光、地の塩となるのです。今日、あなたは誰の僕ですか。(KE)

私たちもまた神様のみわざです

12月15日

「主よ、あなたのみわざはいかに多いことであろう。あなたはこれらをみな知恵をもって造られた。地はあなたの造られたもので満ちている。」詩篇104:24 

近くの公園を散歩すると、春には鬱蒼とした木々に薄緑の若葉が芽生え、春の日差しを受けて命に輝いています。一年でこの時期ほど躍動感にあふれたときはないでしょう。まさに神様の創造のわざが進行中であると思わされます。山川草木は言うに及ばず、生きとし生けるものすべて神様のみ手によるものです。私たちもまた神様のみわざであることを覚えておいてください。(KE)

神様のために“心から喜んで”することを願っています

12月14日

「すべて、心から喜んでする者は、主にささげる物を持ってきなさい。」出エジプト35:5b

 神様が求められるのは、どんなことであっても、自発の行為です。強いられたり、嫌々ながらであったり、惰性や習慣ではなく、神様のために“心から喜んで”することを願っています。信仰に生きるとは物や行為ではなく、それらの背後にある心の状態です。自由意思により喜びと感謝をもってなされるなら、それらは清いもので神様が受けてくださいます。今日の一日を心から神様のものとして奉げ、主に仕える喜びを体験してください。(KE)

素直な心になって見えない神様のみ手を信じてゆだねましょう

12月13日

「もし、神がわたしたちの味方であるなら、だれがわたしたちに敵し得ようか。」ローマ8:31b

  “もし”と言われていますが、ここでは決して仮定の話ではなく、“その通りなのだ”と強調する表現です。神様はひとり子すら惜しまずに私たちを救ってくださった方です。どんなことがあっても、見捨てないどころか、私たちの側に立って味方してくださると言われるのですから、「鬼に金棒」どころではない、強力な後ろ盾です。だから、幼子のように、素直な心になって見えない神様のみ手を信じてゆだねましょう。(KE)