“信仰の行い”が伴ってこそ、信仰の結果を喜び味わうことができます

12月11日

「わたしの兄弟たちよ。ある人が自分には信仰があると称していても、もし行いがなかったら、なんの役に立つか。その信仰は彼を救うことができるか。」ヤコブ2:14

 信仰は神様の言葉を信じて得られるものですが、ただ言葉だけに終わるなら、信仰が形骸化してしまいます。神様の言葉を信じて、それに自分の生活を賭けること、すなわち“信仰の行い”が伴ってこそ、信仰の結果を喜び味わうことができます。折に触れ、時に応じて与えられるみ言葉を受け流さず、そこで具体的な生活に結び付けようではありませんか。(KE)

信仰に生きようとするとき、心一つにして一途に貫くことが大切です

12月10日

「そのときエリヤはすべての民に近づいて言った、『あなたがたはいつまで二つのものの間に迷っているのですか。主が神ならばそれに従いなさい。しかしバアルが神ならば、それに従いなさい』。」列王紀上18:21

 人はずるいところがあって、旗色を鮮明にせず、なにごとも曖昧にしようとします。形勢を見ながら、うまい具合に立ちまわろうとするからです。それではいつまでも宙ぶらりんで、地に足のつかない人生を生きるほかありません。殊に信仰に生きようとするとき、心一つにして一途に貫くことが大切です。(KE)

彼は自分にとって何が最も必要なものであるかを知っていました

12月9日

「この民の前に出入りすることのできるように今わたしに知恵と知識とを与えてください。」歴代志下1:10a

  ソロモンが王となった時、神様は「あなたに何を与えようか、求めなさい」と言われました。彼は正しく国を治める英知を求めました。国王として強力な軍隊や豊かな産物など求めたいものはたくさんあるでしょうが、彼は自分にとって何が最も必要なものであるかを知っていました。このことは神様のみ心に適って喜ばれたのです。主は何を与えようか、求めなさいと言われます。あなたは今なにを求めますか。(KE)

先ずすべきことは神様に祈り求めることです

12月8日

「彼らはその悩みのうちに主に呼ばわったので、主は彼らをその悩みから助け出し、住むべき町に行き着くまで、まっすぐな道に導かれた。」詩篇107:6-7

 悩み苦しみなど、試練にあうとき、パニックに陥り、常軌を失い、迷い出てしまいます。そのようなとき、先ずすべきことは神様に祈り求めることです。主は真実な方ですから、必ず応答してくさいます。そればかりか、なすすべもなく、途方に暮れる者を、懇ろに導いて、目的の地に案内する者のごとく、最後まで守り導いて下さいます。遠慮なく、大胆に主を呼び求めましょう。(KE)

“善”とは神様のみこころに適う道です

12月7日

「善を求めよ、悪を求めるな。そうすればあなたがたは生きることができる。またあなたがたが言うように、万軍の神、主はあなたがたと共におられる。」アモス5:14

 神様が共にいてくださるとは、私たちを導き、守り、恵むためです。共にいていただくには善を求め、へりくだった者となり、神様に聞き従うことが条件です。“善”とは道徳的、倫理的善行ではなく、神様のみこころに適う道です。高き所にいます神様は、へりくだって砕けた心で御心に従うとき、命を与え、生きる者として下さいます。(KE)

私たちの不幸はすべて神様を離れて、自分勝手に生きているからです

12月6日

「あなたがたの神、主に帰れ。主は恵みあり、あわれみあり、怒ることがおそく、いつくしみが豊かで、災を思いかえされるからである。」ヨエル2:13bc

 神様が私たちに絶えず求めておられることは、「神に帰れ、主に帰れ」ということです。まずへりくだって神様を求めることです。私たちの不幸はすべて神様を離れて、自分勝手に生きているからです。しかも、神様は限りない豊かな赦しと愛に満ちている方です。神様に帰ろうとしないのは、神様に咎められ、責められることを恐れるからです。しかし、主は決してそうではありません。(KE)

神様は恵むためにそうなるのを待っているのです

12月5日

「それゆえ、主は待っていて、あなたがたに恵みを施される。それゆえ、主は立ちあがって、あなたがたをあわれまれる。」イザヤ30:18ab

  神様は私たちを恵もう、助けようと思っているのですが、私たちの方が神様を信頼しようとしないのです。人は頑なでうぬぼれ屋ですから、神様に頼らず、自分や人の力と知恵で思い通りにやろうとして行き詰まり、失敗します。神様は恵むためにそうなるのを待っているのです。お手上げになって、神様を呼び求めると、間髪を入れず、救いの手を伸べてくださいます。はやく主を求めてください。(KE)

そもそも人を当てにすることが間違いのもとです

12月4日

「わたしは驚きあわてたときに言った、『すべての人は当にならぬ者である』と。」詩篇116:11

 なにか思いがけない事態に当たった時、この人ならと思っていた人から意外な反応を得て、ガッカリし、驚きあわてることがあります。こころ密かにその人を頼りにしていたからです。そもそも人を当てにすることが間違いのもとです。翻って、自分を考えるなら、他者から当てにされて応えられる自信はありません。自分ができない事を他人もできないのです。頼るべきものは神様以外にないことを自覚しておきましょう。(KE)

また、“待つ”ことが必要です。いただくまで待つのです

12月3日

「そして食事を共にしているとき、彼らにお命じになった、『エルサレムから離れないで、かねてわたしから聞いていた父の約束を待っているがよい』。」使徒1:4

 イエス様がよみがえられたのち、弟子たちに命じられたのは「父の約束を待て」でした。それは聖霊を与えるとの約束です。それを受けなければ神様に従うことができません。何よりも必要不可欠なものです。また、“待つ”ことが必要です。いつまでとの期限はありません。いただくまで待つのです。聖霊が働かれるとき、事態が一気に動きます。(KE)

「十字架の言」を自分のこととして信じるなら、よみがえった主のいのちと力が満ちてきます

12月2日

「十字架の言(ことば)は、滅び行く者には愚かであるが、救にあずかるわたしたちには、神の力である。」第一コリント1:18

 十字架(復活を含めて)について語られた聖書の言葉は多くの人たちにとって信じがたい、躓きの石とも言われます。もし十字架の死と復活がなければ、私たちの信仰は無意味なものであり、滑稽です。しかし、「十字架の言」を自分のこととして信じるなら、よみがえった主のいのちと力が満ちてきます。イエス様を信じるとは十字架を信じることにほかならないからです。(KE)