これはユダの話ではなく、光よりも闇を愛した私たちのことです

11月29日

「ユダは一きれの食物を受けると、すぐに出て行った。時は夜であった。」ヨハネ13:30

 最後の晩餐といわれる過越しの食事の席で、イエス様は自分を裏切る者がいると公言されました。そのうえでユダに食物を与えて、裏切るものが彼であると指摘したのです。彼は名指しされると、すぐにその場を離れ出て行きました。まさにアダムとエバが主の顔を避けて茂みに身を隠す如く、ユダは夜の闇へと消えていきます。これはユダの話ではなく、光よりも闇を愛した私たちのことです。しかし、主の死はそのためです。ただ只、感謝!(KE)

ただ、そこにあるのは“従順と謙遜”を具現した姿です

11月28日

「おのれを低くして、死に至るまで、しかも十字架の死に至るまで従順であられた。」ピリピ2:8

 イエス様は神様のひとり子として神の位にあった方です。そのような方が父なる神様の願いに応えて人の世に降ってこられたのです。考えると、途方もないことです。神が人となるとは!ただ、そこにあるのは“従順と謙遜”を具現した姿です。その結果、神様は御子を死のどん底から引き上げ、すべての名にまさる名を与えて神様の栄光を現されたのです。神様の前に自らを低くし、み心に全く従うことこそ私たちの使命です。(KE)

彼が主に憐みを願ったとき、イエス様と共にあるみ国へ招かれました

11月27日

「イエスは言われた、『よく言っておくが、あなたはきょう、わたしと一緒にパラダイスにいるであろう』。」ルカ23:43

 イエス様は二人の犯罪人と共に十字架にかけられました。そのひとりはイエス様に悪態をつき、もう一人はそれをたしなめ、自分たちがやったことの報いをうけるのは当然だと認めました。その上、彼は、イエス様は何も悪いことをしたのではないと弁護しています。彼が主に憐みを願ったとき、イエス様と共にあるみ国へ招かれました。まさにへりくだる者に賜る恵みです。これは今もかわりません。(KE)

神様のなさるわざは終りまで見通すことができません

11月26日

「イエスは彼に答えて言われた、『わたしのしていることは今あなたにはわからないが、あとでわかるようになるだろう』。」ヨハネ13:7

 過越しの食事の席で、イエス様は立ち上がり、手拭いを腰にまいて、弟子たちの足を洗い始めました。突然のことであり、不可解な弟子たちに言われた言葉です。確かに、神様のなさるわざは終りまで見通すことができません。しかし、人はなんとか先のことを知りたいと思います。その結果、焦ったり、戸惑ったり、落胆します。神様のわざは振り返ってみるとよく分かります。(KE)

私たちはそれらの言葉を信じるのです

11月25日

「復活の時には、彼らはめとったり、とついだりすることはない。彼らは天にいる御使のようなものである。」マタイ22:30

 人が死んだのちどうなるか誰も知りません。しかし、聖書にはそのことに言及した記事が幾つかあります。私たちはそれらの言葉を信じるのです。死後の世界にあって、家族・親族がそろい、この世での生活が再現されると思いやすいのですが、イエス様はそのように言われません。卑しい肉体は失われ、霊の体によみがえり、御使いのごとく神様に仕えるものとかえられるのです。(KE)

義人だと自称する人々は永遠に救われません

11月24日

「人々はみな、これを見てつぶやき、『彼は罪人の家にはいって客となった』と言った。」ルカ19:7

 取税人のかしらであったザアカイの家にイエス様が泊まられたときのことです。人々に嫌われ憎まれたザアカイは罪人である自分の家にイエス様が来られたことによって、悔い改めて新しい人生を生きることになりました。しかし、義人だと自称する人々はイエス様に来ていただくことができないばかりか、永遠に救われません。この真理は今も変わりません。罪人を招いて救うためにイエス様はこの世に来られたのですから。(KE)

私たちは受けた恵みをただ感謝するのみです

11月23日

「あなたの持っているもので、もらっていないものがあるか。もしもらっているなら、なぜもらっていないもののように誇るのか。」第一コリント4:7bc

 私たちのいのちをはじめとして、生活全般にわたってすべてのもの、健康も、働く力も、有形無形、どんなものも神様からいただいたものです。人はなにも誇ることはできません。自分の力や知恵で得たものではないからです。神様の許しが無ければ何ひとつ有りえないことですから、私たちは受けた恵みをただ感謝するのみです。たとえ自分の意に添わなくても。(KE)

神様の救いは“神様とわたし”の関係がすべての土台になることです

11月22日

「各自は惜しむ心からでなく、また、しいられてでもなく、自ら心で決めたとおりにすべきである。神は喜んで施す人を愛して下さるのである。」第二コリント9:7

 神様が私たちに求められることは、一人ひとりが自主独立した生き方をすることです。人は他者の思惑を忖度したり、不本意ながら付き合いや義理人情に引きずられつつ不自由な生き方をしています。神様の救いは“神様とわたし”の関係がすべての土台になることです。聖霊によって、私たちの心は神様と堅く結ばれ、主のみ心を自分の心とするとき、自立した者となります。(KE)

“必要とされている”“役立っている”とき、存在価値が生まれます

11月21日

「『主がお入り用なのです』と答えた。」ルカ19:34

 イエス様はエルサレムに来られた時、ロバの子を引いてくるようにと弟子たちに指示しました。ロバは見るべき美しさも、俊足もなく、労役に使役されるだけの動物です。それ自身の値打ちは僅かですが、主に必要とされることほど名誉で誇らしいことはありません。自分の能力の如何にかかわらず、“必要とされている”“役立っている”とき、存在価値が生まれます。私たちも無能無力でなにひとつ誇るものはありませんが、今日も主はあなたを必要としておられます。(KE)

たとえ目に見える奇跡に出会っても、決して信じることはできません

11月21日

「このように多くのしるしを彼らの前でなさったが、彼らはイエスを信じなかった。」ヨハネ12:37

 神様を見ることができないから信じないという人がいます。だから確たる証拠を見せよと言いますが、たとえ目に見える奇跡や超自然的出来事に出会っても、決して信じることはできません。何か不思議なしるしや現象を見ても、その瞬間の驚きであり、感動であって、それによって神様を信じることにはならないのです。人が神様を信じ、イエス様を救い主と告白するには御霊によらなければ出来ません。(KE)