11月9日
「人にへつらおうとして目先だけの勤めをするのでなく、キリストの僕として心から神の御旨を行い、人にではなく主に仕えるように、快く仕えなさい。」エペソ6:6-7
この世にあって、人は何かに仕えて生きています。上司であったり、家族であったり、様々です。たとえそれが何であってもイエス様に従うのが私たちの使命です。会社で働くにしても、家庭にあっても、私たちのしていることはすべて主のためです。主に仕える僕(しもべ)であること、報いて下さるのも主であることを覚えておきましょう。(KE)
11月9日
「人にへつらおうとして目先だけの勤めをするのでなく、キリストの僕として心から神の御旨を行い、人にではなく主に仕えるように、快く仕えなさい。」エペソ6:6-7
この世にあって、人は何かに仕えて生きています。上司であったり、家族であったり、様々です。たとえそれが何であってもイエス様に従うのが私たちの使命です。会社で働くにしても、家庭にあっても、私たちのしていることはすべて主のためです。主に仕える僕(しもべ)であること、報いて下さるのも主であることを覚えておきましょう。(KE)
11月8日
「たとい、わたしたちは不真実であっても、彼は常に真実である。彼は自分を偽ることが、できないのである。」第二テモテ2:13
人は真実でありたいと思いつつ、自己保身やメンツ(自尊心)などで不真実な者となります。そのため、イエス様でも自分たちと同じだとして、信用しようとしません。これは不幸なことです。主が不真実な者で時と場合によって言葉を左右されるなら、私たちは何を信じればいいのでしょう。時代を越え、人種を問わず、地域を隔てず、真実を貫かれる方。この方こそ主なるキリスト、救い主です。(KE)
11月7日
「彼らは女に言った、『わたしたちが信じるのは、もうあなたが話してくれたからではない。自分自身で親しく聞いて、この人こそまことに世の救主であることが、わかったからである』。」ヨハネ4:42
新しいことを知るには、それを知っている人から教えられることが一般的です。手引きを受けて大概のことを理解できますが、知ると言うにはまだ不十分です。今度は聞いたことを自分自身が直接体験して、実地で知ることが大切です。信仰も同じく人からの話を聞くだけではなく、実際に体験して悟るとき、あなたのものとなります。(KE)
11月6日
「狭い門からはいれ。滅びにいたる門は大きく、その道は広い。そして、そこからはいって行く者が多い。」マタイ7:13
“狭い門”とは“命にいたる門”でイエス様のことです。イエス様を私の救主と信じることが命にいたる道です。しかし、それはまた人の知識や常識を超えたことですから、多
くの人は信じられないのです。まさに難関と言ってもいいでしょう。狭い門からはいる秘訣は自分(面子や誇りなど)を捨ててへりくだることです。態度がデカく、頭が高いと痛
い目に遭います。(KE)
11月5日
「わたしが天から下ってきたのは、自分のこころのままを行うためではなく、わたしをつかわされたかたのみこころを行うためである。」ヨハネ6:38
これはイエス様がこの世で生きる姿勢を語った言葉です。これはまた私たちの生き方ともなります。まさにキリストに倣う生涯です。イエス様の救いによって、私たちもこの世に遣わされた者となりました。遣わされた方のみこころを行うことがなすべきことの全てです。自分のため、家族のため、なにかのためではなく、父なる神様のみこころを求めて、使命を果たしましょう。(KE)
「あなたは全き平安をもってこころざしの堅固なものを守られる。彼はあなたに信頼しているからである。」イザヤ26:3
“こころざし堅固なもの”とは神様に揺るがない信頼を寄せる人のことです。人は一筋に貫き通すことが苦手です。右や左に心が揺れ、惑ってしまうのです。神様は私たちがどれほど真実に信頼するかを見ておられます。どのような事態や状況に置かれても、神様を尊び、信じ、信頼し続けるなら、必ずそれに応えてくださいます。信仰に生きる道にはある意味で頑固さが必要です。(KE)
11月3日
「わが岩、わがあがないぬしなる主よ、どうか、わたしの口の言葉と、心の思いがあなたの前に喜ばれますように。」詩篇19:14
人はそとの顔かたちを見ますが、神様は心を見る方です。たとえ、外部にあらわれた行為やわざが何ひとつ非の打ちどころが無くても、その心が神様に喜ばれないのであれば、ゼロに等しいと言うべきです。何よりも大切なのは見えるところにあるのではなく、見えない心が神様の前にどうであるかです。神様に恥じない心、素直な砕けた心を常に持ち続けるように努めましょう。(KE)
11月2日
「しかしカインとその供え物とは顧みられなかったので、カインは大いに憤って、顔を伏せた。」創世記4:5
アダムとエバは楽園追放後、カインとアベルを産みました。彼らは成長してそれぞれの収穫物をもって神様を礼拝しました。地の産物を奉げたカインは顧みられず、神様に憤って顔を伏せ、アベルを殺しますが、アベルはカインになにもしていません。神様への憤りが殺人となったのです。私たちもカインと同様に神様への怒りの結果として、人と争い、罪なき人の血を流すことになるのです。(KE)
11月1日
「有力な者を無力な者にするために、この世で身分の低い者や軽んじられている者、すなわち、無きに等しい者を、あえて選ばれたのである。」第一コリント 1:28
神様が選ばれるのは有能で立派な人ではありません。神様は弱い者、無力な者、無きに等しい者をあえて選んで、彼らを通して神様の栄光と力を明らかにし、自分の力や身分、才能を誇る者たちの誇りを打ち砕かれるのです。弱く、欠けたところにこそ神様の力が注がれ、ただ神様のみが崇められるようになさるのです。(KE)
10月31日
「主に喜ばれるものがなんであるかを、わきまえ知りなさい。」エペソ5:10
人は何かしようとするとき、それがどんな効果を産むかを想定します。家族や友達に喜ばれるかどうか、そのようなことが基準になります。時には損か、得かによります。また、自分にとって役立つかどうか、自分の利益を求めます。しかし、イエス様の救いを受けた私たちの行動基準は、それが主に喜ばれるかどうかです。人を喜ばせたり、自分の喜びや楽しみのためではなく、主に喜ばれる日々を送るとき、命に溢れる生涯となります。(KE)