9月26日
「それは知恵が多ければ悩みが多く、知識を増す者は憂いを増すからである。」伝道1:18
人間の悲劇は賢くなりすぎたからではないでしょうか。バベルの塔のように、知恵や知識が増え、人が被造物であることを忘れ、神様に成り代わろうとしたのです。どんなに知識が増えても、人は人であって、神様ではありません。造り主に生かされているならば、知恵や知識は大して入りません。必要なら、神様はいくらでも供給できる方だからです。私たちの平安を掻き乱しているのは不要な知恵や知識です。(KE)
9月26日
「それは知恵が多ければ悩みが多く、知識を増す者は憂いを増すからである。」伝道1:18
人間の悲劇は賢くなりすぎたからではないでしょうか。バベルの塔のように、知恵や知識が増え、人が被造物であることを忘れ、神様に成り代わろうとしたのです。どんなに知識が増えても、人は人であって、神様ではありません。造り主に生かされているならば、知恵や知識は大して入りません。必要なら、神様はいくらでも供給できる方だからです。私たちの平安を掻き乱しているのは不要な知恵や知識です。(KE)
9月25日
「神は彼らのなすところ、その悪い道を離れたのを見られ、彼らの上に下そうと言われた災を思いかえして、これをおやめになった。」ヨナ3:10
預言者ヨナは悪に満ちたニネベの町に滅亡が来ると警告してまわりました。その結果、王様を筆頭に人々は悔い改めて悪い道を離れました。神様はその様子を見て、思いかえされたのです。神様の本意は滅ぼすことではなく、人々が悔い改めて神様に立ちかえることです。それほどに私たちを愛しておられるのです。どんな失敗や過ちでも、悔い改めるなら主は赦して下さいます。(KE)
9月24日
「わが魂よ、何ゆえうなだれるのか。何ゆえわたしのうちに思いみだれるのか。神を待ち望め。わたしはなおわが助け、わが神なる主をほめたたえるであろう。」詩篇42:5
魂がうなだれ、思いがみだれるとき、神様を信頼せず遠ざける原因となるものがあるはずです。自分の思いに固執したり、高慢になっているのです。失望落胆するとき、自分がそれほどできる者であるか、よくよく考えてみてください。出来なくて当然、なくて当然でありながら、今日も生かされている恵みを感謝しましょう。(KE)
9月23日
「どうぞ主がわたしとあなたの間をさばかれますように。また主がわたしのために、あなたに報いられますように。しかし、わたしはあなたに手をくだすことをしないでしょう。」サムエル上24:12
ダビデがサウル王に命を狙われていたとき、彼は決して自分からサウルに手を下すことをしなかったのです。それができる状況が何度かありました。しかし、彼は神様の報いと裁きを信じていました。自分で事を起こさずとも、神様は時を定めて具体的な事を起こして、報われるのです。神様のわざとときを信じて待ち望みましょう。(KE)
9月22日
「それは、せめて、み衣にでもさわれば、なおしていただけるだろうと、思っていたからである。」マルコ5:28
長年、持病に苦しめられていた女の人が、イエス様が来られると聞いて、群衆を押し分け、主の衣にさわりました。その瞬間、病が癒されたのです。彼女にとって、もはや治療の方法がなく、イエス様は最後の手段でした。それだけになんとしても癒されたいと切に願ったのです。また、イエス様は癒す力があると確信したから、衣に触れば大丈夫と信じました。主を求める彼女の姿勢(信仰)こそ奇跡を産む力です。(KE)
9月21日
「目を高くあげて、だれが、これらのものを創造したかを見よ。」イザヤ40:26a
神様の性質は多種多様で、一言では尽くせません。そのような中で、創造の神に目をとめるようにと促されています。日常生活は人の力やわざ、知恵がはびこって、人の思いが中心になり創造の神を忘れるからです。人の世の様々なわざから、目を高く上げ、森羅万象が不変不動の秩序で運行する姿に思いめぐらすなら、あなたの直面する問題や悩みも創造者の手にあることを知ります。人を越える絶大な力に身をゆだねようではありませんか。(KE)
9月20日
「今生れたばかりの乳飲み子のように、混じりけのない霊の乳を慕い求めなさい。それによっておい育ち、救に入るようになるためである。」第一ペテロ2:2
私たちは常日頃健康にはことのほか気を配ります。ところが、内なる魂の健康については無頓着です。広い意味で心を養い育てるものは神様から注がれる命です。それはみことばを通して神様の霊が働き、内なる人を成長させ、強くしてくれます。成長期の子供たちは体のために盛んに食べますが、私たちも霊の乳なるみことばをしっかりといただこうではありませんか。(KE)
9月19日
「イエスは怒りを含んで彼らを見まわし、その心のかたくななのを嘆いて、その人に『手を伸ばしなさい』と言われた。」マルコ3:5a
イエス様は柔和で、忍耐強く、寛容な方ですが、このときは「怒りを含んで」普段と違った感情を表しています。それは人々の心が頑なで、神様を信じようとしないからです。しかも、彼らは自分たちを“神の民”と称していたのですから。神様を畏れない態度、本音と建前で生きようとする姑息な態度にイエス様は怒りを含んだ厳しい態度をとられます。あなたの心はいかがですか。(KE)
9月18日
「これは、罪のゆるしを得させるようにと、多くの人のために流すわたしの契約の血である。」マタイ26:28
最後の晩餐の席で、イエス様が弟子たちにぶどう酒を与えて、主の十字架が「罪のゆるし」のためであることをはっきりと語っています。神様が私たちの罪を赦すために御子イエス様を世につかわし、十字架に滅ぼして、信じる私たちを清め、新しく生きるものとして下さいました。その約束を血判によってあかししたのです。それに対して、私たちもまた命を奉げて主のご愛に応答しようではありませんか。(KE)
9月17日
「命にいたる門は狭く、その道は細い。そして、それを見いだす者が少ない。」マタイ7:14
イエス様の救いは決して狭い門でも、細い道でもありません。いや、それどころか、すべての人々のために救いを完成してくださったのです。広い門と道を備えておられるのですが、残念なことに多くの人がそこへ行こうとしないのです。門を狭くし、道を細くしているのは私たちの頑なで強情な心と不信仰のゆえです。主は今日も御手を広げて、私の所へ来なさいと招いておられます。砕けた悔いた心になって命の道を進んでください。(KE)