相手に対する思いやりではなく、神様に対する信仰が問われているのです

10月2日

「もしあなたのあだが飢えているならば、パンを与えて食べさせ、もしかわいているならば水を与えて飲ませよ。こうするのは、火を彼のこうべに積むのである、主はあなたに報いられる。」箴言25:21-22

 敵対する者にパンや水を与えよと言われるのは、相手に対する思いやりではなく、神様に対する信仰が問われているのです。ましてや、神様の報復を期待して自分の手を汚さないと言うのでもありません。神様が一貫して求めているのは何事にも神様を認めて、その支配に委ねることです。(KE)

基本は父なる神様に徹底して従うことです

10月1日

「キリストも、あなたがたのために苦しみを受け、御足の跡を踏み従うようにと、模範を残されたのである。」Ⅰペテロ2:21b

  イエス様は人が人として生きる模範となって、実際の生き方を表わしてくださいました。その基本は父なる神様に徹底して従うことです。父のみ思いを求め、自分を捨てる。また、イエス様はどんなことも人のためにではなく、父なる神様のためにする。だから、人からの賞賛や名誉をいっさい意に介しません。勿論、非難中傷すらも頓着しません。ただ神様の報いを望んでいました。(KE)

主は必要なことを教え、悟らせようとしてくださいます

9月30日

「だから、すべての汚れや、はなはだしい悪を捨て去って、心に植えつけられている御言を、すなおに受け入れなさい。御言には、あなたがたのたましいを救う力がある。」ヤコブ1:21

  聖書の言葉、御言は不思議なもので、素直に信じて従っていると、思いがけない知恵や力、慰めや望みなど生きるいのちが与えられます。時には、耳に痛いこともあり、聞きたくないこともありますが、それは聞く方の問題であって、主は必要なことを教え、悟らせようとしてくださいます。折に触れて与えられる御言をしっかり受け止めましょう。(KE)

罪から解放される道は十字架を見上げて、主に従うほかありません

9月29日

「すなわち、わたしの欲している善はしないで、欲していない悪は、これを行っている。」ローマ7:19

 パウロは人の罪がなんであるかを告白しました。本来、人間は神様の御心に従うことを喜びとしていたのですが、罪が入り込んで私たちを支配するようになりました。神様から引き離そうとする力こそサタンと言うべき罪です。私たちを虜にして、神様のみ思いに背かせようとするサタンの力、罪から解放される道は十字架を見上げて、主に従うほかありません。(KE)

私たちの今持っているものはすべて神様が備えて下さったものと信じるからです

9月28日

「わたしの神は、ご自身の栄光の富の中から、あなたがたのいっさいの必要を、キリスト・イエスにあって満たして下さるであろう。」ピリピ4:19

 神様を信頼して生きる生活は決して飢えることも乏しいこともありません。まず、私たちの今持っているものはすべて神様が備えて下さったものと信じるからです。神様はまたこれからもすべての必要を満たすことができると信じます。神様は天も地も自分のものだと言われる方ですから、不足するものはありません。今日も主の恵みに包まれて過ごして下さい。(KE)

人生の旅路を照らすものはなんでしょうか

9月27日

「あなたのみ言葉はわが足のともしび、わが道の光です。」詩篇119:105

 最近は夜道を歩くとき、街路灯や看板灯などいろんな照明が入り乱れて煌々と道を照らしていますから、明かりを持たなくても平気で歩くことができます。道路に関してはそれで済みますが、人生の旅路を照らすものはなんでしょうか。そこには街路灯も店から漏れる明かりもありません。暗闇の中を手探りで日々を生きているのが現実です。しかし、神様の言葉、み言葉は信じるものに光となって、行く道を照らし、危険や災いから守ってくれます。(KE)

知恵や知識が増え、人が被造物であることを忘れ、神様に成り代わろうとしたのです

9月26日

「それは知恵が多ければ悩みが多く、知識を増す者は憂いを増すからである。」伝道1:18

 人間の悲劇は賢くなりすぎたからではないでしょうか。バベルの塔のように、知恵や知識が増え、人が被造物であることを忘れ、神様に成り代わろうとしたのです。どんなに知識が増えても、人は人であって、神様ではありません。造り主に生かされているならば、知恵や知識は大して入りません。必要なら、神様はいくらでも供給できる方だからです。私たちの平安を掻き乱しているのは不要な知恵や知識です。(KE)

神様の本意は滅ぼすことではなく、人々が悔い改めて神様に立ちかえることです

9月25日

「神は彼らのなすところ、その悪い道を離れたのを見られ、彼らの上に下そうと言われた災を思いかえして、これをおやめになった。」ヨナ3:10

 預言者ヨナは悪に満ちたニネベの町に滅亡が来ると警告してまわりました。その結果、王様を筆頭に人々は悔い改めて悪い道を離れました。神様はその様子を見て、思いかえされたのです。神様の本意は滅ぼすことではなく、人々が悔い改めて神様に立ちかえることです。それほどに私たちを愛しておられるのです。どんな失敗や過ちでも、悔い改めるなら主は赦して下さいます。(KE)

失望落胆するとき、自分がそれほどできる者であるか、よくよく考えてみてください

9月24日

「わが魂よ、何ゆえうなだれるのか。何ゆえわたしのうちに思いみだれるのか。神を待ち望め。わたしはなおわが助け、わが神なる主をほめたたえるであろう。」詩篇42:5

 魂がうなだれ、思いがみだれるとき、神様を信頼せず遠ざける原因となるものがあるはずです。自分の思いに固執したり、高慢になっているのです。失望落胆するとき、自分がそれほどできる者であるか、よくよく考えてみてください。出来なくて当然、なくて当然でありながら、今日も生かされている恵みを感謝しましょう。(KE)

神様は時を定めて具体的な事を起こして、報われるのです

9月23日

「どうぞ主がわたしとあなたの間をさばかれますように。また主がわたしのために、あなたに報いられますように。しかし、わたしはあなたに手をくだすことをしないでしょう。」サムエル上24:12

 ダビデがサウル王に命を狙われていたとき、彼は決して自分からサウルに手を下すことをしなかったのです。それができる状況が何度かありました。しかし、彼は神様の報いと裁きを信じていました。自分で事を起こさずとも、神様は時を定めて具体的な事を起こして、報われるのです。神様のわざとときを信じて待ち望みましょう。(KE)