祈りが聞かれなくても、答えられなくても当然です

6月1日

「あなたがたが父に求めるものはなんでも、わたしの名によって下さるであろう。」ヨハネ16:23c

 なんと素晴らしい約束ではないでしょうか。父なる神様は私たちの祈りに答えて下さる。その根拠は「わたしの名によって」、イエス様が取り次いでくださるからです。イエス様の願いを父なる神様は拒むことはありません。祈りはただ主の功績によって聞かれるのです。祈っても答えられないとつぶやくのはお門違い。聞かれなくても、答えられなくても当然です。イエス様の慈愛にすがりつつ、祈ろうではありませんか。(KE)

「やみの力」はまさに私たちを失望や不安、恐れや悲しみなど、闇に閉じ込める力です

5月31日

「神は、わたしたちをやみの力から救い出して、その愛する御子の支配下に移して下さった。」コロサイ1:13

 神様の救いがなんであるかをはっきり語ったことばです。人は自分の力で生きることができないものです。そのために他の力を借りて生きようとしますが、間違った力に支配されていたのです。「やみの力」はまさに私たちを失望や不安、恐れや悲しみなど、闇に閉じ込める力です。しかし、御子は天から下って闇を追い払い、光の中へ、御子の支配下に置いて下さいました。今日も主の支配に委ねて輝いていましょう。(KE)

悩みや困難、苦しみや悲しみに遭うのはそのためです

5月29日

「すべてわたしの愛している者を、わたしはしかったり、懲らしめたりする。だから、熱心になって悔い改めなさい。」黙示録3:19

 神様の本質は徹底して“愛”です。それゆえに神様は私たちを放置しておくことができずにさまざまな手段によって神様の標準に引き上げようとなさいます。悩みや困難、苦しみや悲しみに遭うのはそのためです。そのようなことに当たってなすべきことは自らを省みることです。事の原因理由の探索ではなく、神様とどのような関係を築いているか、神様のみ思いに添うことが求められるのです。(KE)

人には誰もがそれぞれに与えられた役割があります

5月28日

「すべてのことを、つぶやかず疑わないでしなさい。」ピリピ2:14

 「つぶやく」「疑う」、これは神様が嫌われることです。なぜなら、どんなことも神様によらないものはないので、つぶやいたり疑ったりするのは神様に逆らい敵対することだからです。父として、母として、夫として、妻として、子供として、各人誰もがそれぞれに与えられた役割があります。それは神様が深い配慮のもとに与えておられる大切な使命です。「自分ばかり」「割が合わない」「どうして?」「なぜ?」などなど、次々と心に湧いていませんか。(KE)

イエス様を見つつ走るなら、どんなにか大きい励ましでしょうか。

5月27日

「信仰の導き手であり、またその完成者であるイエスを仰ぎ見つつ、走ろうではないか。」ヘブル12:2a

 人生を生きる姿を長距離ランナーに例えられます。まさに山あり谷あり、さまざまな厳しい条件のなかで、休まずゴールを目指して走りつづけるのですから、人生もまた同様です。もし、この長距離走を自分一人で走るなら、すぐに脱落するでしょう。周囲に同じ苦労を耐えている人がいますから、耐えられます。十字架の死をも乗り越えて勝利してくださったイエス様を見つつ走るなら、どんなにか大きい励ましでしょうか。(KE)

なにかできることがあるなら、それは神様の憐みであり、恵みです

5月26日

「あなたは心のうちに『自分の力と自分の手の働きで、わたしはこの富を得た』と言ってはならない。」申命記8:17

 ともすると、人はすぐに自分が主人公になり、自分を誇ろうとします。人に自慢せずとも、ひそかに心で誇ります。しかし、それは神様を軽んずることです。この世にあること自体、命も、時間も、健康も、仕事も、どれ一つとって神様によらないものはありません。なにかできることがあるなら、それは神様の憐みであり、恵みです。自分の働きはありません。このことを徹底して、神様に感謝しましょう。(KE)

何を敬い、尊び、畏れるかによってあなたの在り様がはっきりします

5月25日

「しかし、俗悪で愚にもつかない作り話は避けなさい。信心のために自分を訓練しなさい。」第一テモテ4:7

 文語訳によると、後半の言葉は「また自ら敬虔を修業せよ」となっています。「敬虔」という言葉はまさに死語となりかけていますが、これこそ信仰の精髄と言っても過言ではありません。神様と人との絶対不変の関係を明示する言葉だからです。神様を敬い、尊び、畏れるべき方とするとき、人ははじめて謙遜になることができます。また、何を敬い、尊び、畏れるかによってあなたの在り様がはっきりします。(KE)

今日も主はあなたを守り、導いてくださいます

5月24日

「わたしの羊はわたしの声に聞き従う。わたしは彼らを知っており、彼らはわたしについて来る。」ヨハネ10:27

  イエス様は私たちの主となるためによみがえられ、目には見えませんがいつでもどこにでも共にいてくださいます。それは羊飼いが羊の群れを守り、導き、命を得させるように、私たちを命の道へ導くためです。私たちは自分の知識や判断で生きるように造られていません。創造者の霊に導かれて生きるものです。今日も主はあなたを守り、導いてくださいます。主の御声を聞きつつ、主に従って行きましょう。(KE)

素直になって神様のもとに立ち返ろうではありませんか

5月23日

「わたしはどこへ行って、あなたのみたまを離れましょうか。わたしはどこへ行って、あなたのみ前をのがれましょうか。」詩篇139:7

 どんなに神様を否定しようと、また神無き世界を求めようとも、神様はあきらめることなく、執拗にあなたを掴んでは離しません。それは私たちが神様を離れるなら、まさに永遠の滅びであり、死だからです。愛するがゆえに無関心でおれません。逃げ回ることをやめて、素直になって神様のもとに立ち返ろうではありませんか。神様はあなたを祝福し、恵もうとしているのです。(KE)

神様の声が届かなくなっています

5月22日

「主なる神は言われる、『見よ、わたしがききんをこの国に送る日が来る、それはパンのききんではない、水にかわくのでもない、主の言葉を聞くことのききんである』。」アモス8:11

 世界の各地で飢餓に苦しむ人々がいます。それは「パンのききん」ですが、もっと深刻なききんが我が国に広がっています。魂の枯渇です。神様を畏れることがなく、神様のことを尋ねようとの思いもなく、神様の声が届かなくなっています。その結果、愛がなくなり、望みが持てなく、猜疑心に囚われ、苛立ち、無気力になっているのではないでしょうか。(KE)