イエス様の言葉を信じて石を取るかどうかは、まさに信仰の試練です

1月14日

「イエスは言われた、『石を取りのけなさい』。」ヨハネ11:39a

 イエス様の親しい友人であったラザロが亡くなりました。墓に来たイエス様は「石を取りのけなさい」と言われましたが、人々は4日も経っているからと躊躇しました。イエス様の言葉を信じて石を取るかどうかは、まさに信仰の試練です。見える状態がどうであれ、主の言葉を信じるのが信仰です。無理だ、不可能だ、出来ないと決めてかかるなら、不信仰の“石”はいつまでもそのままです。イエス様を信じて従うとき、信仰の結果を見るのです。(KE)

この十字架が無ければ、命がありません

1月13日

「われわれはみな羊のように迷って、おのおの自分の道に向かって行った。主はわれわれすべての者の不義を、彼の上におかれた。」イザヤ53:6

 私たちは、正しい道を歩むように神様から造られた者です。しかし、罪のゆえに迷って勝手な道を進んでいました。神無き世、闇の中にいたのですが、神様はイエス様を遣わして、私たちの不義を彼に負わせて十字架に掛け、罪を清めて下さったのです。この十字架が無ければ、命がありません。今日も、主の死に生かされていることを心から感謝しようではありませんか。(KE)

目を高くあげてみませんか。八方ふさがりに思えたことも、違って見えます

1月12日

「目を高くあげて、だれが、これらのものを創造したかを見よ。」イザヤ40:26a

 日々の生活は小さな出来事の積み重ねです。そのために思いが下向きになり、目先のことばかりに囚われて、失望したり、あきらめたり、嘆いたりします。気がつかないうちに、人の力だけがすべてだと思ってしまうのです。そのようなとき、目を高くあげてみませんか。八方ふさがりに思えたことも、違って見えます。不可能と思えたことも、全能者である神様に目をとめるなら、希望が持てます。あきらめないで、神様を信じましょう。(KE)

自分の人生であっても自分で決めることができないのです

1月11日

「主は言われる、わたしがあなたがたに対していだいている計画はわたしが知っている。」エレミヤ29:11a

 人の一生は誰が計画し、持ち運んでいるのでしょうか。考えると不思議としか言うことができません。自分の人生であっても自分で決めることができないのです。しかし、神様はご計画を持っておられると言われます。このみ言葉につづいて、「将来、希望、平安」を与えようとすると語っています。私たちの人生を全てご存知で、それぞれに幸いな道を備えて下さるとの約束です。今日も神様のみ手に導かれて参りましょう。(KE)

神様と私たちの関係は鏡に映った自分の姿のようなものです

1月10日

「神に近づきなさい。そうすれば、神はあなたがたに近づいて下さるであろう。」ヤコブ4:8a

 “神に頼むほど落ちぶれていない”などと豪語する人がいますが、確かに神様を頼るには謙遜にならなければできません。心を低くして神様に近づくなら、神様はそれに応じて近づいて下さいます。神様と私たちの関係は鏡に映った自分の姿のようなもので、近づけば鏡の中の自分も近くなり、離れると距離が広がります。神様の傍近くにいることが幸いなことです。神様もそれを願っておられるのですから、近づこうではありませんか。(KE)

まさに神様の配材でした

1月9日

「そこで、アクラというポント生れのユダヤ人と、その妻プリスキラとに出会った。」使徒18:2a

 パウロがコリントの町に来たとき、一組の夫婦に出会いました。彼らはローマに居た時、イエス様の救いに与った者でしたが、迫害に会ってコリントへ逃れていたのです。彼らはパウロを自宅に留め、伝道のわざを助けました。まさに神様の配材でした。彼らはさらにエペソへパウロと同行し、その地に留まり、エペソでの伝道に大層尽力しました。神様はパウロの同労者として備えられたのです。あなたも神様が用いておられます。(KE)

主の十字架は信じる私たちに生きる力と望みを与えてくれます

1月8日

「十字架の言(ことば)は、滅び行く者には愚かであるが、救にあずかるわたしたちには、神の力である。」第一コリント1:18

 イエス様はすべての人の罪をあがなう生贄として、十字架によって神様の呪いと刑罰を受けてくださいました。当時の人々は救い主の無能無力な姿に失望しました。ローマ帝国に革命を起こすと期待したからです。しかし、かつての帝国は跡なく消えましたが、主の十字架は信じる私たちに生きる力と望みを与えてくれます。主の十字架こそわたしの救いであると信じるとき、新しい力に満たされます。(KE)

中途半端な信仰にでは何も得ることができません

1月7日

「わたしはあなたのわざを知っている。あなたは冷たくもなく、熱くもない。むしろ、冷たいか熱いかであってほしい。」黙示録3:15

 日本人は和をもって貴しとする風潮があり、何事も旗色を鮮明にすることを避けます。信仰に対しても同じ態度をとろうとします。熱心に信仰を求めるより、つかず離れず、中途半端な信仰に安住しようとします。しかしそれでは何も得ることができません。真剣に主を求め、一途に信じて神様により頼むなら、神様は真実な方ですから、必ずそれに応えてくださいます。(KE)

徹底して神様のみ手に委ねたのです

1月6日

「しかしダビデはアビシャイに言った、『彼を殺してはならない。主が油を注がれた者に向かって、手をのべ、罪を得ない者があろうか』。」サムエル記上26:9

 ダビデは先王サウロに命を狙われていました。偶然にも敵対するサウロをうつ絶好の機会にあたって、部下は王を殺害しようとしました。ダビデは神様が任命したのだから、人の手によって事を計ってはならないと止めました。彼は神様を畏れる人でした。徹底して神様のみ手に委ねたのです。神様を信じるとはこのようなことではないでしょうか。(KE)

聖書は一貫して神様が私たちを愛しておられることを告白しています

1月5日

「主は彼の前を過ぎて宣べられた。『主、主、あわれみあり、恵みあり、怒ることおそく、いつくしみと、まこととの豊かなる神、』」出エジプト34:6

 聖書を通して語られる神様は戦好きな“軍神”ではなく、閻魔大王のような怖い神様でもありません。聖書は一貫して神様が私たちを愛しておられることを告白しています。まるで愛する恋人を慕うがごとく、“愛しているよ”と呼びかけておられます。その究極の愛を示したのがイエス様の十字架です。こんなにまで求めて下さる神様に無関心でいることができるでしょうか。(KE)